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【土人発言】機動隊員、侮蔑的意味知らず「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見た事があり、とっさに口をついて出た」★4

814 :名無しさん@1周年:2016/10/23(日) 04:10:48.41 ID:YdgyDQm30.net
日本人警察官による原住民差別から700人虐殺に発展した 霧社事件
台湾で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件

暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。
その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。
巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落のリーダー)の長男、
タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。
侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。
この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が暴動を画策したと言われている

日本側は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾(ルイサイト)などの近代兵器を用いて暴動部族を制圧した。
味方蕃の戦闘員たちに対しては敵蕃の首級と引き換えに懸賞金が支給された。
懸賞金の対象は蜂起勢の壮丁のみならず、婦女子まで含まれていた。
この措置は同族間での凄惨な殺し合いを助長したとされる。

戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。
特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった

1931年5月6日、最終的に生き残った人々は北港渓中流域の川中島(現在の清流)と
呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの指導のもとに生活した。
その後も蜂起参加者への警察の摘発は続いた。反乱に与しなかった霧社セデック
族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われた[17]。
こうして逮捕された摘発者38名を当初警察は毒殺しようとしたが担当医師から
毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、
逃亡を図り殺害された1名を除き、全員が1932年3月までに留置中に死亡した

昭和天皇までもが事件の根本には原住民に対する侮蔑がある、と漏らした[21]。
http://i.imgur.com/05WZqs0.gif
http://i.imgur.com/tT5I5qg.jpg

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