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【歴史戦】オランダ人司教殺害の正定事件で慰安婦めぐる“史実”が独り歩き…仏外交資料に見当たらず 南京事件に関連づける動きも [08/15]

1 :ちゅら猫 ◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2016/08/15(月) 12:30:10.40 ID:???
2016.8.15 08:05
★【歴史戦】オランダ人司教殺害の正定事件で慰安婦めぐる“史実”が独り歩き…仏外交資料に見当たらず 南京事件に関連づける動きも

1937(昭和12)年10月に中国河北省正定でオランダ人のカトリック司教ら9人が殺害された
「正定事件」をめぐり、「日本軍が慰安婦とするために中国人女性を要求したが司教らは
拒否したため殺害された」との説が“史実”として独り歩きしている。欧州では司教らが
教会施設に避難してきた女性たちを命がけで守ったとして、聖者に次ぐ「福者」にしよう
とする列福の動きがある。しかし、当時の日仏外交当局の書簡にはそうした記述がない
ことが14日までに分かった。

書簡は仏西部ナントの外交史料館に保存されている37年10月23日付の在北京仏
大使館員が駐中国大使に宛てた書簡から、38年5月24日付の在ローマ仏閣外相の
書簡まで。スイス在住の日本人女性が入手した。

仏政府が史料を保管しているのは事件調査に関与していたためとみられる。
殺害されたオランダ人のシュラーベン司教はパリの宣教会から派遣されていたうえ、
フランス人司祭も犠牲になっている。

史料によると、事件から3日後に現地入りしたオランダ人神父が使用人から聞いた話として
「強奪者は十数人で全員日本の軍服を着ていた。連隊の帽子ではなく、フェルト帽をかぶっていた。
(中略)彼らは満州の“赤ひげ”つまり山賊だと話し、国に帰るのにお金を欲しがった」という。

教会側から仏大使館に宛てた手紙には「兵士がお金を要求したり、物を奪ったりした」とあるが、
女性を要求したとの記述はない。

唯一、女性に関する記述があるのは37年12月1日付の文書。スウェーデン人神父が中国人の
カトリック教会関係者から聞いた話として「10月9日、日本兵がカトリック宣教施設に来て若い
女性を要求した。外国人宣教師の一人が、望むものは何でも持っていっていいが女性を
差し出すことは絶対にないと答えると、日本兵は立ち去った」とある。

ところが、終戦翌年の46年5月、ベルギー人神父創刊の中国語の新聞に、襲撃グループが
「若い女性300人」を要求したとの記述が登場する。この報道が影響したのか、司教殺害に
関する調査を行っている「シュラーベン財団」のホームページには「司教は避難民女性を
“慰安婦”として差し出すことを拒否」と記されている。

また、日本のカトリック機関紙「カトリック新聞」は2013年4月、「欧州に残る資料によると、
日本軍が教会施設にいた避難民の中から200人の女性を引き渡すよう求めたことに抵抗
したため(司教らは)連行された」と報じた。

中国でも正定事件は司教らが女性を守ろうとしたために殺害された「惨劇」と伝えられている。
14年10月には正定がある河北省石家荘市の河北師範大学で「正定教会の惨劇と戦時に
おける宗教の人道主義の援助」と題したシンポジウムが開かれた。

正定に進軍したのは終戦後、南京軍事法廷で「大虐殺を引き起こした」として死刑判決を受け、
処刑された陸軍中将の谷寿夫氏が率いる部隊だった。このことから正定事件は谷氏の部隊が
引き起こしたとして「南京事件」と関連づける動きもある。

■正定事件(せいていじけん) 戦時中の1937年10月9日ごろ、旧日本軍による攻略直後の
中国河北省正定でフランスのカトリック宣教会が襲われ、司教を含む9人が殺害された事件。
日本は当時、調査に基づき日本軍の犯行ではないと結論づけたが、教会を管轄する仏側に
正定の統治者としての責任から見舞金を支払った。仏政府も犯人を特定できないまま38年
4月に「今後、問題を提起しない」と表明した。

http://www.sankei.com/premium/news/160815/prm1608150018-n1.html

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