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【沖縄】「朝鮮人強制連行」忘れない 読谷・恨之碑建立10年で慰霊 [06/12]

1 :ちゅら猫φ ★:2016/06/12(日) 11:05:43.63 ID:???
★「朝鮮人強制連行」忘れない 読谷・恨之碑建立10年で慰霊
2016年6月12日 05:01

【読谷】沖縄戦時に日本軍によって朝鮮半島から強制連行された軍夫や「慰安婦」らを慰霊する
「恨(ハン)之碑」の建立10年追悼会「恨を抱えて希望を語る」が11日、読谷村瀬名波で開かれた。
追悼会に先立ち、太平洋戦争被害者補償推進協議会の李煕子(イヒジャ)共同代表(73)が講演し
「これまでの道のりを無駄にしないためにも次世代への継承が大切だ」と呼び掛けた。
関係者や地域住民、研究者ら約100人が参加した。

追悼会では彫刻家の金城実さんが彫った恨之碑の前で、建立を呼び掛けた僧侶の知花昌一さんらが
読経し、平和を願った。参列者が花を手向け、李さんや元軍夫の家族などが碑に酒をかけて犠牲者を悼んだ。

韓国語の「恨」は日本語の「恨み」だけを意味せず、悲しみ、不満、怒り、後悔などが長い間、
しこりとなった感情を意味する。

建立時に中心的な役割を果たした牧師の平良修さんは、そういった感情を乗り越えようという
意味も含まれていると解説し「痛みが一つのバネになり、苦しみがあって友達になろうと
しているのが恨だ。ここにしか新しい平和の可能性はない」と訴えた。

講演した李さんは韓国で、最も多くの人が強制連行された英陽(ヨンヤン)にも1999年に
恨之碑が建てられ、読谷の碑と向かい合うように立っていることに触れ「碑がどのように造られたのか、
次世代に伝えてくれますか」と問いかけた。

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-296465.html

酒を恨之碑にかけて追悼する李〓子さん=11日午後4時半ごろ、読谷村瀬名波の恨之碑
http://ryukyushimpo.jp/archives/002/201606/dd43b1fa23aec1cfe55e0c4f366b3d31.png

2 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 11:13:15.22 ID:cdyZlHYuE
妄想で逆恨み
朝鮮人はキチガイそのもの

3 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 11:31:25.72 ID:pyN78OFd+
沖縄に気持ち悪い碑建てんな!

4 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 11:32:08.36 ID:OR947J8kK
こいつらってフィクションと歴史の区別がつかないんだよな

5 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 13:38:31.63 ID:GpMz6Rp7C
「強制」とは先日の川崎デモを朝鮮人どもが力づくで中止に
追い込んだ「強制中止」のような事柄をさす。

 朝鮮人のやりくちをそのまま言葉だけ日本人に投げつけているだけ。
「泥棒が{泥棒!}と言う」朝鮮のことわざそのもの。

6 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 13:42:56.24 ID:16V3d/l2X
まあ、

戦争に負けたから強制になったんでしょ。

7 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 17:34:51.01 ID:k5BjrdyPA
徴用で来たくもないところに連れてこられたのは運が悪かったね
だが密入国して強制連行されたと言ってるやつは信用されることはない

8 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:08:26.99 ID:DP8GCPHXG
朝鮮総督府は内地政府とは別個の統治機関であり、
国内法的にも天皇の下部組織ではあっても内地政府の下部組織ではなかった。
もちろん大日本帝国憲法は適用されず、朝鮮総督は天皇にのみ責任を負い、
内地政府・議会からも拘束されずに立法・行政権を行使した。
併合条約には韓国とあるが、1910(明治43)年勅令第318号は、
併合後の韓国の「国号」を『朝鮮』とするというものだったし(http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm43-318.htm)
朝鮮〜内地間貿易の関税制度は併合後も存続されており、
大日本帝国も朝鮮も同じ天皇に統治されてはいたが、実質的には異なる国として扱われていた。
つまり、朝鮮は大日本帝国の支配下の領土とは言っても、
同じ国とは考えられていなかったということである。

実質的に異なる国のその朝鮮人を併合後日本人と考えたのは、
1899年(明治32年)の旧国籍法を適用したからではなく(朝鮮に旧国籍法は施行されていない)、
朝鮮統治に基づく朝鮮戸籍令の規定によるものだった。
つまり、「その朝鮮人が朝鮮に帰属する事を確認(戸籍確認)
→帰属する朝鮮は日本が併合している
→朝鮮人は日本人と言える」という論理のゆえであり、
その条理と慣習によって大日本帝国の国籍を有すると考えていたのである。

国際的にも内地人の持つ日本国籍と朝鮮人の持つ日本国籍は明確に区別されており、
内地人の持つ日本国籍は外国国籍取得による国籍離脱が認められていたが、
朝鮮人の持つ日本国籍は外国国籍取得による国籍離脱の規定が存在しなかった。
(例:間島や中国東北部での朝鮮人の中国への帰化問題)日本国籍の離脱が出来ない
朝鮮人は、外国政府が帰化させたくても不可能だった。

戦前朝鮮人も日本人も帝国臣民だったし日本国籍を有していたとは共有認識としてあるわけだが、
実質としては、日本人(内地人)と朝鮮人はそのように扱いが違っていたわけである。
もちろん、朝鮮人が日本に渡航したり寄留するときにも、「入国管理」の対象として許可制度が導入された。
警務総監部令第3 号「朝鮮人ノ旅行取締ニ関スル件」(1919.4)は朝鮮人の日本渡航に対する初めての直接的規制(渡航証明書制度)で、
国外に出る者には就労先を管轄する所管警察署・駐在所が証明書を下付され(旅行届出許可制)、
それを最終出発地の警察官に提示(釜山水上署)してから日本に渡った。(1919〜22、1925〜38が渡航制限期間)

9 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:12:14.30 ID:y8PvFL4hR
>>8
太平洋戦争開戦以降の朝鮮人の権利の推移を述べなさい
なぜざっくり無視するんですか?(プケラッw

10 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:13:01.60 ID:DP8GCPHXG
内地(日本)と外地(朝鮮など)に渡航制限がありました
-------------------------------------------------
朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、明治四十三年の日韓併合以降(明治四十四年年末で二千五百余り。
以下、百の位以下は切り捨てで表示する)、一貫して内地の朝鮮人人口は増え続けてきた。
とりわけ大正十年から終戦までの二十五年間は顕著で、森田芳夫氏によれば、
在内地の朝鮮人人口は大正十年末には約三万八千だったのが、昭和二年末には約十六万五千と増加し、
昭和十三年末には七十九万九千に達している。先に述べたように朝鮮半島での戦時動員は
昭和十四年九月にはじまるが、既に約八十万の朝鮮人が日本内地に在住していたのである。

『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕

朝鮮人密航者に関する一次資料
国立公文書館アジア歴史資料センター  http://www.jacar.go.jp/index.html で閲覧できます。
なお、閲覧するにはDjVuプラグインが必要です。 レファレンスコード:A20030235914    A03023591400

11 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:18:01.95 ID:DP8GCPHXG
◇外務省発表   在日朝鮮人の大半は自由意思で居住   戦時徴用は245人   昭和34.7.13 朝日新聞報道

 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労
働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行
なっているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。
 これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者
は245人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。
一、戦前(昭和14年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前には約200万人となった。
増加した100万人のうち70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の
出生によるものである。残りの30万人は大部分、鉱工業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中
の国民徴用令によるものはごく少数である。(中略)
一、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引き上げで合計140万人が帰
還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引き上げ計画で350人が帰還する
など、終戦時までに在日していた者のうち75%が帰還している。(中略)
現在、登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労働者
としてきた者は245人に過ぎず、現在日本に居住している者は、犯罪者を除き、自由意志によって残留した者である。
http://blog-imgs-26-origin.fc2.com/2/c/h/2chmatomeyaruo/20110701195441f55.jpg

12 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:26:43.60 ID:DP8GCPHXG
吉田茂=マッカーサー往復書簡集
袖井林次郎 編訳
講談社学術文庫
http://i.imgur.com/oP9LZsa.png
http://ujitv.byethost5.com/blog/yoshida.html

一九四九年8月末か 吉田→マッカーサー
■122 在日朝鮮人の全員送還を望む■
〔日付なし・一九四九年8月末から9月初旬と推定される〕
(総理府用箋)
〔右上に「シーボルトへ−−−君はどう思うかね? 一五九〇マック〔数字の意味不明〕と自筆で書き込んである」〕

連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下

親愛なる閣下

日本の戦後の諸問題のうち朝鮮人と台湾人に関するものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在もこの国に依然として滞在しているものです。
ここでは台湾人については、彼らが比較的少数であり、それほど問題を起こしておりませんので、しばし触れないことに致します。
しかし、総数約一〇〇万人、そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、われわれはいま早期の解決を迫られております。
私はこれら朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです。その理由は以下のとおりです
1.日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余分な人々を維持することを許しません。アメリカの厚意によって、われわれは大量の食料を輸入していますが、
 その一部は在日朝鮮人を食べさせるために用いられています。これらの輸入は、将来何世代にもわたって我が民族の負債となることでありましょう。
 もちろん、われわれはそのすべてを返済する覚悟を固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のために生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、公正なこととは思えません。
2.これら朝鮮人の大多数は、日本の経済の債権に貢献しておりません。
3.もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割合がかなり高いのです。彼らは我が国の経済法規を破る常習犯です。
 かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、最も悪質な政治的犯罪を犯しがちなのです。投獄されているものは、既に七〇〇〇人を超えています。

13 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:30:52.72 ID:DP8GCPHXG
●朝鮮進駐軍(その1)
・大阿仁村事件(1945年10月22日)・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
・坂町事件(1946年9月22日)・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日〜29日)
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
・阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)・評定河原事件(1948年10月11日〜12日)
・宇部事件(1948年12月9日)・益田事件(1949年1月25日)
・枝川事件(1949年4月6〜13日)・高田ドブロク事件(1949年4月7日〜11日)
・本郷村事件(1949年6月2日〜11日)・下関事件(1949年8月20日)
・台東会館事件(1950年3月20日)・連島町事件(1950年8月15日)
・第二神戸事件(1950年11月20〜27日)・四日市事件(1951年1月23日)
・王子事件(1951年3月7日)・神奈川事件(1951年6月13日)
・下里村役場事件(1951年10月22日)・福岡事件(1951年11月21日)
・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)・半田・一宮事件(1951年12月3日〜11日)

14 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:32:04.97 ID:DP8GCPHXG
●朝鮮進駐軍(その2)
・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)・日野事件(1951年12月18日)
・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日〜23日)・姫路事件(1952年2月28日)
・八坂神社事件(1952年3月1日)・宇治事件(1952年3月13日)
・多奈川町事件(1952年3月26日〜30日)・田川事件(1952年4月19日)
・岡山事件(1952年4月24日〜5月30日)・血のメーデー事件(1952年5月1日)
・上郡事件(1952年5月8日)・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)
・広島地裁事件(1952年5月13日)・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)・万来町事件(1952年5月31日〜6月5日)
・島津三条工場事件(1952年6月10日)・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
・葺合・長田事件(1952年6月24日)・吹田・枚方事件(1952年6月24日〜25日)
・新宿駅事件(1952年6月25日)・大須事件(1952年7月7日)
・舞鶴事件(1952年7月8日)・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日〜26日)

15 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:49:30.35 ID:DP8GCPHXG
第022回国会 法務委員会 第23号 昭和三十年六月十八日(土曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0488/02206180488023a.html

最近においては、子供だけ三十人くらいの団体を連れて密航をして、大人だけは完全に逃げて
しまっている、がんぜない子供だけが捕まっておるというような事実もありまして、この取扱い
には非常に係の者も苦慮いたしておるようでございます。

神近先生がおっしゃいましたように、日本に住まいたい者を住まわせて、韓国に帰りたい者は
返す、こういうふうに参りますと事は最も簡単で、いろいろの難問題が漸次解決をするのであり
ますが、問題はそう簡単でなく、極端かもしれませんけれども、六十万と推計をせられる朝鮮人
のうち、日本から母国に帰りたいという者は一人もいないといっても大した言い過ぎではない。

一方向うからは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、方法さえつけば
怒濤のごとくどんどん入ってくる。そしてこちらから強制送還をしようといたしましても、韓国
の政府がこれを容易に受け付けないという処に、人道問題だけでは解決しない大きな国と国と
の外交問題と申しますか、もう入国管理局だけでは手に負えない大きな外交問題となってここに
横たわっておるのは、私が申し上げるまでもなく、御理解をいただいておると思うのであります。

ですから、要するに、こちらは国際的ないわゆる紳士としての態度をもって韓国に接しましても、
韓国の方は、紳士的でないとは申しませんが、御承知の通り李承晩ライン、その他漁船の拿捕の
問題、こちらから、密航した者を密航したという確証をあげて韓国に申し入れましても、その送還
を容易に受け付けない、こちらは向うから出てきた者を受け入れっぱなし、不法入国であろうが
何であろうが、返すことが出来ないで、大村収容所にはますます人員が増えて行く、それをみな
国費で、国民の血税で養ってやらなければならない、その取扱いについても、きわめて懇切丁寧に
しなければ、人権蹂躙というような問題まで起きてくる。

これを大まかに考えますと、一体日本の為にやらなければならないのか、日本国民の血税の犠牲
において、韓国人をまず第一義として大事にしてあげなければならないかというような処まで
考え方によっては行く問題であると私は思うのであります。

16 :名無しさん@13周年:2016/06/12(日) 23:55:51.28 ID:DP8GCPHXG
1945年8月15日から1952年(昭和27年)4月28日(講話条約発効)までの間に
日本に住んでいた半島出身者のうち、1949年に大韓民国に国民登録しなかった者
の国籍は、法理的には日本国籍だった。
ただし、ポツダム勅令によって、「日本国籍ではあるが外国人とみなす」という奇妙な立場であった。

なぜこんな奇妙なことになっていたかというと
ポツダム宣言を受諾した以上、朝鮮半島、台湾などの外地の支配権は放棄させられたので
そこの領民を勝手に支配することはできず日本国民として扱うことができなかったから。
しかし、戦前から日本に定住していた半島出身者には、拠るべき国が無い。
ゆえに日本本土に居る以上は日本の施政に従って貰う必要があったわけ。

よって、義務教育就学年齢にある朝鮮人児童に対しては
日本の教育施政に則った正規の学校教育を施す義務が、依然として日本政府にはあったわけ。
だから再三、「日本の学校教育法に則った教育課程を・・・」と通達していたわけよ。

ところが当の朝鮮人達にしてみれば「解放された」わけだから、
日本当局からなんぞガタガタ言われたくはないし、敗戦国の日本国籍なんぞ持ってるつもりもなかったし
早晩半島に帰るつもりでもあったから、従う気なんか毛頭無かったわけだそれで民族学校がある。
なので在日は日本国民でないし帰化人も法的根拠が希薄ですね。

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