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【国会議員に読ませたい敗戦秘話】広島原爆投下を眼下に見た紫電改操縦士がいた!「これは戦争じゃない。虐殺だ…」 [05/23]
- 2 :ちゅら猫φ ★:2016/05/23(月) 10:52:38.90 ID:???
- 本田は「喜んで出撃します」と返答したが、その機会は訪れることなく8月15日に終戦を迎えた。
戦後、本田は航空自衛隊や三菱重工に勤め、テストパイロットとして操縦桿を握り続けた。
90歳を越えた今も広島、長崎の悲劇を忘れることはない。そして原爆搭載機に向かって
出撃できなかった無念もなお晴れることはない。
「長崎の人たちには本当に申し訳ないと思っています。本土防衛の役目を担った私たちが
あんなに近くにいたにもかかわらず…」
本田は涙をにじませ、こう続けた。
「戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ。だから原爆は戦争じゃない。非戦闘員の真上で
爆発させるんですから。虐殺ですよ」
× × ×
1945年7月26日、第33代米大統領のハリー・トルーマンは、英首相のウィンストン・チャーチル、
中国国民政府主席の蒋介石と連名で、日本政府にポツダム宣言を突きつけた。宣言は13章あるが、
その趣旨は最終章に集約されている。
「われわれは日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、その行動を十分保障することを求める。
これ以外の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」
これは単なる脅しではなかった。米国は7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード実験場で
初の原爆実験を成功させた。「完全なる壊滅」とは原爆投下を意味したのだ。
トルーマンのこの時期の言動を追うと、日本への「原爆投下ありき」で動いていたことが分かる。
トルーマンは、知日派の国務長官代理、ジョセフ・グルーの進言を通じて「国体護持」(天皇の地位保全)
さえ保証すれば、日本が降伏すると踏んでいた。にもかかわらず、陸軍長官、ヘンリー・スティムソンが
作成したポツダム宣言の草案から「天皇の地位保全」条項を削ってしまった。日本があっさりと降伏すれば、
原爆投下のチャンスが失われると考えたからだとみるのが自然だろう。
ポツダム宣言は、7月17日〜8月2日にベルリン郊外のポツダムで行われたトルーマン、チャーチル、
ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンとの会談の最中に発表された。
すでにソ連は対日参戦に向け、着々と準備を進めていたが、スターリンは名を連ねていない。
当時、日本外務省と在ソ大使館の暗号電文は解読されており、日本が日ソ中立条約を信じてソ連に和平の
仲介役を求めてくることが分かっていたからだ。トルーマンも、その方が原爆投下まで時間を稼げると考えたようだ。
第32代米大統領、フランクリン・ルーズベルトが、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」を
スタートさせたのは42年8月だった。当初はドイツへの使用を想定していたが、44年9月には日本に変更した。
秘密主義者のルーズベルトは、副大統領だったトルーマンにも計画を教えなかった。45年4月12日に
ルーズベルトが死亡し、後を継いだトルーマンはスティムソンから計画を聞かされ、さぞ驚いたに違いない。
すでに原爆は完成間近で4月27日の目標検討委員会の第1回会合では、日本の17都市を「研究対象」に選定した。
5月11日の第2回会合では、京都、広島、横浜、小倉の4カ所を目標に選んだ。原爆の効果を正確に測定するため、
4都市への空襲は禁止された。
7月に入ると、B29爆撃機による投下訓練が始まり、ファットマンとほぼ同一形状、同一重量の爆弾
「パンプキン」が目標都市周辺に次々と投下された。
米公文書によると、米軍内で広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投じるよう命令書が出たのは
7月25日だった。ということは、トルーマンはポツダム宣言発表前に原爆投下を命じていたことになる。
トルーマンはなぜこれほど日本への原爆投下にこだわったのか。
ポツダム宣言発表時、海軍の戦艦、空母など主力部隊は壊滅に近く、制空権、制海権はほぼ失われ、
日本陸海軍は戦闘機による特攻などでわずかな抵抗を続けているにすぎなかった。
B29爆撃機はほぼ連日空襲を続け、ほとんどの都市は焼け野原と化し、首都・東京も市街地の5割強が焼失。
原爆を使用せずとも降伏は時間の問題だった。 >>3へ
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