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【政治】吉田茂が邪魔をしなければ竹島問題は今日存在しなかった説 [05/06]

1 :ちゅら猫φ ★:2016/05/06(金) 13:18:24.04 ID:???
★吉田茂が邪魔をしなければ竹島問題は今日存在しなかった説
2016.05.05 ポストセブン

竹島をめぐる、現在の日本と韓国の間に横たわる問題は、1952年の日本の総理大臣が野村吉三郎だったら、
存在していなかったかもしれない。戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を
読み解く『SAPIO』の連載から、吉田茂に代わりCIAが日本の総理大臣になることを望んでいた男について綴る。

***

野村吉三郎といえば、日米開戦回避のために日米交渉にあたりながら果たせず、不手際から宣戦布告文も
真珠湾攻撃の後にコーデル・ハル国務長官に渡してしまった駐米大使(もともとは海軍大将)として知られる。
その野村が戦後なにをしていたのか、アメリカとくにCIAとどんな関係を築いていたのかを知る人はまずいないだろう。

野村は、彼が戦後に悲願としたことのゆえに、CIAが総理大臣にと望んだ男だった。
その悲願とは、日本海軍と日本の国防力の再建だった。降伏し、武装解除されたその日から、
海軍であれ、陸軍であれ旧軍人は日本軍と自立的国防力の再建を悲願とした。

アメリカ側からみれば、これは日本にアジアの安全保障の一部を分担させることで、野村はそのために
利用できる優良なアセット(工作に使える人材)だった。本稿では野村が悲願を達成できたのか、
そこにアメリカ側、とくにCIAはどのようにかかわったのかを明らかにしていこう。

占領軍は日本の旧陸軍軍人を対共産主義国戦略のために積極的に利用したのに対し、野村ら旧海軍軍人には
当初冷淡だった。というのも陸上兵力は独力で海外進出できないが、海軍力が加われば可能になるからだ。
アメリカは、初めは日本に本州4島の専守防衛しか認めるつもりはなかった。

野村とは旧知の間柄のリチャード・バーキー米海軍中将が極東海軍の初代司令官として日本に赴任してきた
ときも、野村の「海軍再建」の打診に対して、自分個人としては野村の考えに賛成だが、アメリカ海軍と
しては野村の「海軍再建」を許容する気持ちはまったくないと返答している。

しかし、この態度は1950年(以下西暦は下二桁のみ)の朝鮮戦争勃発のあと劇的に変わる。
アメリカはまず日本政府に警察予備隊の設立を命じ、中核を担う幹部に旧陸軍の軍人を多数起用させた。

朝鮮戦争が泥沼化し、犠牲者の数が相当な数にのぼると、アメリカ政府は、日本にも相応の再軍備をさせ、
アメリカとともに戦わせるべきだという考えに傾いていった。

だが、日本本土の兵力を海外に送るためには海軍力が必要になる。
最小限の海上兵力を日本が持つのを許さざるを得ないという結論に行き着く。

1950年の夏に2代目の極東アメリカ海軍司令官ターナー・ジョイ中将と吉田茂首相が会談する機会が設けられ、
この席にはアメリカ海軍関係者をよく知る野村も呼ばれた。この席でジョイは、野村にこのように提案した。

“朝鮮戦争も始まったので、この際日本も海上兵力を持つべきだ、ソ連に武器貸与法で貸与し、
その後返還をうけたフリゲート艦18隻が横須賀にあるが、これを使ってはどうか”

これは野村にすればわたりに舟だが、この18隻を受け取るためには受け皿となる機関を作る必要がある。
つまりのちの海上警備隊(そのあとは海上自衛隊)となるものだ。ところが、警察予備隊を作れという
占領軍の命令さえ面従腹背だった吉田は、これに難色を示した。
旧軍人が勢いづくことで自分の地位が脅かされることを恐れたからだ。

1年後の9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、7年に及んだアメリカの日本占領が翌年に
終わることが決定した。この講和条約と表裏一体をなす日米安全保障条約の調印式もそのすぐあとに行われた。

その40日後の1951年10月19日、マッカーサーに代わって連合国最高司令官になったマシュー・リッジウェイ
大将は吉田首相と直々に会い、18隻のフリゲート艦に加えて50隻の大型上陸支援艇を貸与すると申し出た。
吉田はこの申し出を拒否できなかった。

>>2へ続く

※SAPIO2016年6月号
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160505/frn1605051145005-n1.htm

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