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【歴史戦】中国が称賛する元朝日新聞・本多勝一氏 “南京大虐殺”の宣伝に加担 [05/01]

1 :ちゅら猫φ ★:2016/05/01(日) 11:22:27.08 ID:???
2016.5.1 07:27
★【歴史戦 南京が顕彰した男(上)】南京記念館が賛美する元朝日記者 “大虐殺”の宣伝に貢献「小日本にもスゴい記者が…尊敬するよ」

「小日本(日本人に対する蔑称)の中にもスゴい記者がいたんだね。尊敬するよ」

中国・江蘇省南京の「南京大虐殺記念館」。展示の後半にある「南京大虐殺史学研究及(およ)び
その影響」というコーナーに掲げられたある男性の写真や著作に見入っていた50代の女性が、
複数の同行者に大声で話しかけた。団体旅行とおぼしき年配の集団で、おそろいのピンクの帽子
には浙江省寧波の地名が読み取れた。

1997年に『ザ・レイプ・オブ・南京』を著した中国系米国人アイリス・チャンの紹介の左隣に
大きなサングラスをかけ、素顔を隠した人物の写真が並ぶ。男性は元朝日新聞記者、本多勝一。
「大虐殺」を世界に周知するうえで大きな貢献をした数人の日本人のひとりとして本多は顕彰されているのだ。

館内の展示は大半が中国語と英語のほか、日本語の説明も記されている。顔写真の真下に展示
されていた本多の著書。ガラスケースの中には『南京への道』『裁かれた南京大虐殺』
『中国の日本軍』など5冊が並べられていた。

のぞき込んだ60代の男性は「日本人が研究した南京大虐殺の真相の本なんだから、
なんで日本人全員が読んで謝罪しないんだ?」と、横にいた女性に向かって話した。

本多が取材で使ったというフィルム式の小型カメラ2台と、使い捨てのノック式ボールペン1本が
仰々しく飾られていた。証言を丹念に集めた取材で「真相」を本多が突き止めて告発した、
とアピールしたかったようだ。

団体旅行の男女に話しかけたい衝動に一瞬かられたが、4年前に記念館で取材していた共同通信の
男性記者が「おまえは日本人か」などと叫んだ中年の中国人の男から首を絞め上げられ、
別の男からも殴る蹴るの暴行を受けた事件が頭をよぎった。

このため展示の前でしばらく黙って観察していたが本多の存在を事前に知っていたと思われる
中国人は見当たらなかった。参観者の多くは展示をみて、初めて「本多勝一」の名を知り、
その上で「朝日新聞」に好印象を抱いたようだった。

同じコーナーには、旧日本軍人としての南京での経験から「南京大虐殺」を告発したという著書
『わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺』を昭和62年に出版した東(あずま)
史郎の顔写真のほかに、「中日友好」と東が書いた色紙も飾られていた。日本では日中両国に
ついて記す場合、「日中」と表現するのが通例だが、東はあえて「中日」と中国を先にした。

東は元上官から名誉毀損(きそん)で提訴され、東京地裁で「残虐行為を裏付ける客観的証拠はない」
として損害賠償を命じられたが、控訴した。平成12年1月には最高裁で敗訴が確定している。
記念館の展示ではそうした事実にはなんら触れず、本多やアイリス・チャンと並ぶ尊敬すべき
人物としてスポットライトを浴びていた。

記念館であえて日本人の名前を出し、写真や物品まで展示して中国人にシンパシーを感じさせ
ようとする狙いについて、南京のある歴史研究家は、「『少数の日本軍国主義者と大多数の
日本人民を厳格に区分せよ』という毛沢東の対日政策『二分法』が南京でも生きている」と語る。

二分法は「共通の敵を打倒するため連帯できる諸勢力と共闘する」との毛の理論。
日本人全員を敵に回すことは中国にとっても得策ではないという。記念館は熊本地震に対し、
4月15日にインターネット上で「友人のみなさんご無事ですか?」
とする異例の見舞いメッセージを発表した。中国語のただし書きで、「熊本出身者を中心に編成
された日本陸軍の師団が南京大虐殺の元凶だったが、熊本県日中友好協会の関係者が20年以上も
記念館を訪れ、犠牲者を悼んでいる事実がある」などと説明した。善意に基づくメッセージと
思いたいが、本多らを展示でたたえた手法に近い印象も残った。

「愛国教育基地」として、地元や周辺地域の小中学校の児童や生徒の必須の参観場所となっている
記念館。中国の主張に同調する発言を行う日本人や関係者のみを“味方”と位置づけて、
それ以外を敵視するという「二分法」を実践するほか、日本国内の世論を分断させることも
対日工作の基本だと植え付けようとしているようにみえる。>>2へ続く

http://www.sankei.com/premium/news/160501/prm1605010031-n1.html

2 :ちゅら猫φ ★:2016/05/01(日) 11:23:15.05 ID:???
>>1より

■根拠なき「30万人殺害」 南京での取材「2日間で4人」

「南京大虐殺記念館」で顕彰されている元朝日新聞記者、本多勝一はカナダ北極圏の先住民に
密着取材したルポルタージュなどで評価を高め、かつて「『朝日』のエース」(「週刊新潮」
昭和46年9月25日号)ともてはやされたジャーナリズム界の“寵児(ちょうじ)”だった。

その本多と「南京」のかかわりは46年、朝日新聞夕刊での連載記事に始まる。タイトルは「中国の旅」。
この年6月から7月にかけ約40日間、本多が中国各地を回った際の取材ルポだ。

連載は8月から12月まで全40回に及び、旧日本軍兵士らが中国各地で行ったという生々しい
「残虐行為」を毎回のように克明に伝えた。

「強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。
日本兵はあとで煮て食ったという」

「日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その面前で地面に力いっぱいたたきつけた。
末子は声も出ずに即死した」

これらは、本多が中国で取材した「生き証人」らが語った内容だった。にわかには信じがたい
「蛮行」の数々は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。

反発も大きく、一連の記事は、旧日本軍関係者らが否定したり、多数の疑義が呈されたりした。
朝日に対しては「ごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(朝日新聞社史大正・昭和戦前編)
といい、論壇では「中国の旅」が報じた「南京大虐殺」などをめぐって論争が巻き起こる。

「日本軍は長江に近い二つの門も突破して、南京城外へくりだした。(中略)南京城北七キロの
燕子磯では十万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追出しておいて、機関銃で皆殺しにした。(中略)
南京城内も合わせて約二十万人が殺されたとみられている」(46年11月5日朝日夕刊)

これは9歳のころ、「南京大虐殺」を体験したという南京港務局内河船員の姜根福
(連載当時43歳)が、本多に語った12年12月の南京陥落後の状況だ。

「中国の旅」第3部は「『南京大虐殺』の被害者たち」の証言を10回にわたり伝えた。
46年7月、空路南京入りした本多が、「二日間に四人から取材した」内容だ。

四人のうちの一人、姜の話を基に本多は「紫金山でも二千人が生埋めにされている。
こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二カ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された」
(46年11月5日)とも伝えた。

広島、長崎への原爆投下による合計犠牲者(推定)に匹敵する20万人や、「南京大虐殺記念館」
の入り口に大書されている30万人が犠牲者数としてさらりと登場する。だが、姜は何ら根拠は示していない。

一方、12年12月の南京攻略戦時、取材団80人あまりを現地に送り込んだ朝日新聞は、
本多の記事とは全く異なる情景を報じている。

「中山路の本社臨時支局にゐても、もう銃声も砲声も聞えない。(中略)もう全く戦争を忘れて
平常な南京に居るやうな錯覚を起す。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十万の避難民が
残留する。ここにも又南京が息を吹返して居る」(「東京朝日新聞」12年12月16日)

連載当時、南京攻略戦に参加した元兵士や従軍取材した朝日新聞記者が多数存命していた。
にもかかわらず、本多が日本側の証人に、裏取り取材をした形跡は見られない。

「南京事件」をめぐるプロパガンダ(政治宣伝)を研究している明星大学戦後教育史研究センターの
勝岡寛次はこう指摘する。

「彼のルポルタージュは中国の“御用聞き”よろしく、史実に対する一切の検証も批判も度外視し、
中国側の言い分を朝日新聞を通じて、一方的に垂れ流すものにすぎない」

>>3

3 :ちゅら猫φ ★:2016/05/01(日) 11:23:39.46 ID:???
>>2より

「歴史戦」取材班は4月、本多が編集委員を務める週刊金曜日編集部を通じ、「中国の旅」
第3部で取り上げた中国人の証言や証言に基づいて報じた内容がすべて「歴史的事実であると
考えるか」と質問した。同編集部によると、本多からは「『産経新聞』の取材・報道姿勢等に
これまで多くの疑義を抱いているため、回答は差し控えたい」という趣旨の連絡があったという。

取材班は朝日新聞広報部にも「中国の旅」に関して「事実と異なる部分」について今後紙面で
訂正や取り消しをする予定はあるか質問した。広報部は「古い話であり、現時点では回答
できることはありません」としている。(敬称略)



中国が「南京大虐殺」を広めるうえで大きな役割を果たした本多勝一。「歴史戦」第16部では、
本多の記事が与えた影響について検証する。(敬称略)

関連スレ
【ソウルからヨボセヨ】理想に生きた“良心的日本人”…元朝日・若宮啓文氏を悼む [04/30]
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1462021439/
【南京事件】中国中央テレビに登場した元朝日記者の本多勝一「“虐殺”の記憶」今も説き続け…
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1419392921/
【南京記憶遺産登録】来年の「孔子平和賞」は元朝日新聞の本多勝一氏が受賞するかもしれぬ [10/12]
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1444625551/

4 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 11:25:05.79 ID:ac8SBJdeA
中国の独裁支配に加担したわけですわ。

5 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 12:02:47.30 ID:PaXAqHJlW
ナチスドイツと同盟関係にあった日本にも同じ罪を着せようと
画策されたのが南京大虐殺のでたらめだ。ユダヤ人のホロコースト
もイスラエル建国のためにでっちあげられたものだ。世界の
同情を買うためだ。600万人とかでたらめもいいところだ。
実際は50万人、老衰の死をふくめてだ。名簿上WW2の前後の数の差
が50万人ということである。ガス室もでたらめだ。アウシュビッツの
遺体を焼いたという焼却炉の煙突もあとから建設されたものと
いわれる。アンネの日記も確かにアンネは実在し、日記も存在した
のだろうが脚色をして出版したのはゴーストライターの書いた
日記と思われる。ドイツではそれらの検証も法律で禁止されてる
らしい。それをまねているのが在日だ。ウソで塗り固められた
真実で自分らへ向けられたヘイトスピーチを通して在日の
存在そのものを合法化し、批判さえ封じ込めようとしている。

6 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 13:33:06.90 ID:b6deSzIDV
ま、今更な話題だけど定期的に話を出すべきではあるな
朝日新聞の戦略としての神輿役なだけだったかもしれんが
それであってもこの大罪は消せんよな

7 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:00:01.02 ID:1LNSDDDR9
日本人の研究者は他にいくらでもいるんだけどな
やっぱり紅衛兵のみなさんは本多くん以外に取り上げることはできないか
何しろ中国共産党の首長の根拠は本多くんの記事だもんな

8 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:22:49.70 ID:/QB2cJJoV
支那土人どもが嘘と理解しない限り戦争で理解させるしかないわな
死にたくなければ朝日はじめサヨクは支那共産党を止めてみせろw

9 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:37:59.70 ID:XSKAxxZk5
本多勝一さん、嫌いな日本を捨て大好きな中国に帰化しよう
愛する国家に暮らし、そこで死ぬ事こそが幸せではないかな

10 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:51:44.75 ID:WQGco9LHl
日本国民は、かような国賊を絶対許さない。
近いうちにホテルの浴室で怪死を遂げるのでは?

11 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:52:12.63 ID:cXCyUMJId
支那には「屠城」という言葉があり、これは城(都市)の住民を殺し尽くす大虐殺をいいます。

中国は 3000年以上に亘り、血で血を洗う戦乱を繰り返して来た。敗残兵は、その度に相手の「食料」にされた。
その度に、敗者の歴史を根絶やしにして勝者の歴史が新たに始まるので、そこに成熟はなく、
「接木の歴史」であると言える。ゆえに中国の歴史は、4000年どころかせいぜい100年程度である。 
漢族の王朝・明が滅亡後、満州人(ツングース系民族)の王朝・清 が最後の王朝になった。 
そもそも中国大陸には近代まで「国」という概念はなく、皇帝は中華思想のもと自らを地上で唯一の王だと考えた。 


国民党が、中国市民に対し殺人略奪レイプをしてそれを日本兵のせいにする工作は当時記事になってる。
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙
『チャイナ・プレス』1938年1月25日
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】

被害者の数は、というのがあるが、調査方法からも下記のものが一番信用できる。
南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)
市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したもの
加害者を誰か問わず被害だけだしたものだが、
南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、
さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。

南京場外については、国民党が焦土作戦をおこしたのでそれで死んだ人が多くを占める。
市街地について
南京陥落時に中国兵が略奪暴行殺人をしてたという記録がある。
拉致についても中国軍が男を労役に使うために頻繁に拉致、女も夜は拉致してたという記録がある


「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞 1937年12月24日(南京陥落の11日後)
日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。調べてみてください

12 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:54:40.83 ID:cXCyUMJId
《国際連盟議事録の資料としての価値》

 検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする1937年12月13日から翌38年2月までの公文書を重要な一次資料と判断して、
第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日〜2月2日)の議事録を入手した。
 その中で、顧維鈞中国代表は「南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと
演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、国際連盟は、1937年10月6日の
南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、
東京裁判での20万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解30万人と桁が違う。
 また、その国際連盟議事録の「2万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、
米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの
新聞報道に基づくものだった。ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる
「第三者」ではなかったのである。
 フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、
ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。
 蒋介石軍の将兵は、1938年1月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に
南京城陥落に関した軍事報告をしている。
 その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、
顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。
 顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく
新聞記事を援用せざるを得なかった。
(『南京の実相 − 国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった』日新報道)

13 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:56:04.18 ID:OHUCHW575
月刊Hanadaの読みどころ|ちょっと右よりですが・・・特番
http://live.nicovideo.jp/watch/lv260914752

14 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:56:39.53 ID:cXCyUMJId
虐殺するような相手を助けるか?

-南京戦を行った直後の徐州会戦での日本軍の活躍 -
☆黄河決壊事件は日中戦争初期の1938年6月に、支那国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。

事件当時は黄河決潰事件と表記された。支那では花?口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。
犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。

日本軍の対応
1.日本軍の2個工兵大隊と住民組織が決壊箇所の修理に当たる
2.日本軍が渡河用舟艇を200隻出して被災住民の救出に当たる
3.日本軍が嵩上げされた線路沿いに住民の避難誘導を行う。
4.冠水した地域の排水のために、日本軍は住民と協力して排水路の建設、堤防の建設に当たる。
5.陸軍航空隊が大量の土嚢袋を投下し、地上部隊が住民と協力して土嚢積み上げ作業を被災地で行う。

支那(中国)軍の対応
6.支那(中国)軍は黄河堤防決壊箇所の北岸に陣地を構築し、支那住民と協力して堤防決壊箇所の補修工事をする日本軍に激しい攻撃を仕掛けた。
支那一般住民を避難誘導する日本軍に対して支那(中国)軍便衣兵が攻撃した。

 日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.AF.BE.E5.BF.9C

15 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 14:59:34.27 ID:cXCyUMJId
以下の事件はいずれも大虐殺と呼ばれていません。補償問題にもなって無い

ソ連秘密警察によるカティンの森事件:ポーランド人2万5千人を裁判無しに銃殺(文民含む)
韓国軍によるベトナム戦争時の悪行:ブガツ省で3万5千人を拷問の上に皆殺し(殆ど文民)
英米連合国軍による、ドレスデン大空襲:2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡
ソ連によるシベリア抑留中に死亡した日本人:軍民合わせて25万4千人、行方不明・推定死亡者9万3千人
ドイツの捕虜収容所で死亡したソ連兵320万人
米軍による東京大空襲の死者10万人(1945年3月10日だけの死者数)
米軍による広島原爆投下による死者23万7062人(2004年8月6日時点)
米軍による長崎原爆投下による死者13万4592人(2004年8月9日時点)

カティンの森事件以下の犠牲者数を、ことさら大虐殺と強調する事は歴史的に見ても
バランス感覚に欠けた主張と言えます。ましてや文民殺害を目的としていない、若しくは
文民の犠牲者が僅かな事件に関して、大虐殺と名前が付く事は非常に例外的なのです。



「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力 2011.6.23 (1/2)
h t t p://sankei.jp.msn.com/world/news/110623/chn11062305000001-n1.htm

「『南京大虐殺』という戦時プロパガンダが行われた経緯を解明する新たな糸口になるかもしれない」。
発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党 野望と謀略の90年」)の編集を終え、
そんな期待が膨らんできました。中国の国民党が主導
したと考えられてきた「大虐殺」の宣伝に、中国共産党またはソ連が大きく関与していた可能性が、
論文筆者たちの指摘で浮かび上がってきたのです。

虚実不明の「南京大虐殺」を初めて世に紹介したのは、英マンチェスター・ガーディアン紙特派員、
ティンパーリーが1938(昭和13)年に刊行した『戦争とは何か』です。ティンパーリーは当時、
国民党中央宣伝部顧問で、資金提供も受けていたことが北村稔・立命館大教授らの研究で判明しています。
同著の出版をはじめとする「大虐殺」宣伝は、世界中で反日世論を高める戦時プロパガンダだったのです。

『別冊正論』15号では、3人の筆者が、このプロパガンダへの中国共産党または
ソ連の関与を示す根拠を提示しています。

16 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 15:00:55.19 ID:cXCyUMJId
「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力 2011.6.23 (2/2)
h t t p://sankei.jp.msn.com/world/news/110623/chn11062305000001-n2.htm

(1)『戦争とは何か』中国版の序文を書いた有名文化人の郭沫若(かくまつじゃく)は、日中戦争勃発にあわせ、
亡命先の日本から中国共産党やコミンテルン(戦前〜戦中の国際共産主義運動指導組織。本部・モスクワ)
の支援で極秘帰国し、戦時宣伝を担当した(中西輝政・京大教授)
(2)同著の日本語版序文を書いた青山和夫こと黒田善治という人物は、コミンテルン秘密工作員とともに
中国で活動していた(近現代史研究家、長塩守旦氏)
(3)「大虐殺」の証拠の一つとされた『ラーベ日記』筆者、ジョン・ラーベは、ソ連の大物スパイ、
ゾルゲの活動を上海で支援していた赤軍諜報部員の友人だった (江崎道朗・日本会議専任研究員)−。

『戦争とは何か』英語版にコミンテルンの影が見え隠れすることは、北村教授も著書 『「南京事件」の探究』で
指摘しています。「大虐殺」宣伝に国際共産主義勢力が積極的にかかわっていたとすれば、
相当の規模をもった対日宣伝戦だったことを意味します。
アメリカでは近年、第二次世界大戦前後のルーズベルト政権内にソ連と通じた秘密共産党員が多数潜入して
政策に影響を与えていたという実証研究が進み、共産主義の世界革命戦略が当時の情勢分析に欠かせない
という見方が強まっています。
「大虐殺」宣伝もその中に位置づけられるとしたら…。今後の検証が待たれます。

●支那事変1周年の蒋介石の声名 1938/7/7 漢口
《(略)戦場や、日本占領地域では、資源財産の計り知れない損失に加えて、経験豊かな
数限りない青壮年、婦女子、年老いた人々が、大量殺戮、強姦、その他の無慈悲な蛮行を
免れることができなかった。(略)
広東を例にとろう。この町は過去2週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。
機関銃が悪魔のように狂いまくり、家屋が粉々になり、市民の血や肉が飛び交った。(略)》

これは「友好国への声名」の中で、「日本人の残虐行為」という章の中の文言です。
後に30万人が虐殺されたと主張する南京を挙げずに、数千人の犠牲者の広東を例に挙げてます。
つまり南京大虐殺とは作られた事件なのです。1938/7月にティンパーリの、『WHAT WAR MEANS
The Japanese Terror in China』が英国で出版され。1938年末にその漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』
が支那で出版されました。ここからプロパガンダが始まったと言っても過言ではありません。

17 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 15:03:43.08 ID:cXCyUMJId
◇上海から南京まで日本軍に追撃された中国軍に従軍していたNYタイムズのティルマン・ダーディン通信員は
1989年10月号の『文芸春秋』で従軍中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことはないし、当時、
虐殺に類することは何も目撃しなかったし聞いたことも無いと断言。
日本軍が南京に入城後も南京市民の世話をした外国人からなる南京国際安全区委員会が
1939年に刊行した活動記録には、日本軍が南京入城直前の人口20万人が一ヵ月後には25万人になった
ことと、日本軍の非行、殺人が26件あったとある。但し、目撃されたのは1件で合法殺人と注記されている。
(『Documents of the Nanking Safety Zone』)

145D 南京アメリカ大使館通信---エスピー報告  1938年Vol.14 ・・・1938年1月25日 南京 (抜粋)
12月10日後の南京の状況
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。 人口のおよそ5分の4が市を脱出し、
主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京の防衛は、わずか5万の兵士に任されていた。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編 P239

南京戦には、内外合わせて170人前後の従軍記者がいたが、誰一人として南京で虐殺があったと
記事を書いた者はいない、後になっても南京で虐殺があったとも言っていない、
外国人の記者は70人程度どいたがやはり誰一人として、後ですら虐殺があったと言っている者はいない、
毎日・朝日とも南京陥落時に各社7〜8人の記者が南京市内に入ったが、誰一人として虐殺を見ていない。

当時反日だった国連に、1938年1月末に、国民党が2万人の虐殺を訴えたが否定されてる、
1938年1月末に、約一週間にわたり世界的なニュースになっていたのは、
日本の軍人がアメリカの外交官を平手打ちした事件である。
虐殺が行われていたとされる間、ラーベら外国人は頻繁に外出してるが、日本軍による不法殺人を見たことが一度もない。
ラーベは、1938年1月14日にドイツ大使館にあてた手紙に、被害者数千人と記しているが、
その二週間後イギリス大使館にあてた手紙には被害者数百人と記している。
(現場を知っている者に対して付ける嘘は、数百人が限界。)
ラーベたち安全区委員会が記録した日本軍の暴行の報告書には殺人事件「25件」、 被害者「49人」としか記されていない。

18 :名無しさん@13周年:2016/05/01(日) 15:07:02.77 ID:cXCyUMJId
当時、南京での日本軍の殺戮行為は第一報こそ新聞等で報道されましたが、その後は
全く記述がありません。むしろ殺戮の記述は訂正されているのです。

『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…過去の主な出来事の南京の項目で
出てくるのは昭和2年の南京暴行事件(第一次南京事件)である。南京大虐殺の記述は無し。

『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938/2月発行…日本軍による
掠奪・強姦・破壊の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938/夏季号…日本軍による
恐怖の支配の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938/4月発行…金と掠奪品と女を求めて隈なく町を歩き
回る日本兵の記述あり。殺戮の記述は無し。

日本軍の殺戮行為の報が、一時期、新聞・雑誌で書かれていたのは事実です。しかしやがて噂は
収束に向かったのです。



■松井石根は1947年11月24日極東軍事裁判で自身により証言台に立った。以下はその口述である。

予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、
忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。これ予の甚だ遺憾とするところなり。
因みに南京陥落当時、予は南京を去る40哩の蘇州に於いて病臥中にて、予の命令に拘わらず、
之等非行の行われたることにつき之を知らず、又、何等の報告に接せず。
17日、南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。
(中略)
予は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任せるが、其間、昭和12年12月下旬、
南京に於いて只若干の不法事件ありたりとの噂を関知したるのみにて、
何等斯かる事実に就き公的報告を受けたることなく、
当法廷に於いて検事側の主張するが如き大規模なり虐殺・暴行事件に関しては、
1945年終戦後、東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確信す。

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