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【創氏改名】ウキウキしながら「私、どんな日本名にしようかしら」 元小学校教諭の朝鮮半島回想録 [04/11] 

1 :ちゅら猫φ ★:2016/04/11(月) 12:50:21.17 ID:???
2016.4.9 07:06
★元小学校教諭の朝鮮半島回想録 ありのまま後世に 福岡

■「私、どんな日本名にしようかしら」創氏改名で同僚の教師

日本統治下の朝鮮半島で小学校教師を務めた上野瓏子(ろうこ)氏(96)による
『おばあちゃんの回想録 木槿(むくげ)の国の学校』が出版された。日本人と朝鮮人教師が
手を取り合って子供の教育にあたる様子や、創氏改名で楽しそうに日本名を選ぶ朝鮮人教師−。
上野氏が伝えるありのままの姿に、「日本人=加害者、朝鮮人=被害者」という図式は当てはまらない。
(九州総局 中村雅和)



上野氏は大正9(1920)年、朝鮮半島全羅南道羅州郡で生まれた。
父親の西見省三氏は、西見家が所有する農園で、綿花の栽培指導や農業振興に取り組んだ。
記念碑が建立されるほど慕われたという。

上野氏は高等女学校を卒業後の昭和14年、19歳で全羅南道の栄山浦南小学校の代用教員
として採用され、後に正規教員になった。

同小学校に通うのは、半島出身の子供だった。教職員は日本人も朝鮮人もいた。
校長は日本人、教頭職は朝鮮人だったという。

◆争いなかった

教師同士の関係は良好で、校内で大声で冗談を言い合うほどだった。

「日本人でも朝鮮人でも、すばらしい先生はすばらしい」と振り返る。
正規の教員資格取得に向けた講習会では、半島出身の教諭とともに1カ月間、合宿した。

ただ、教頭は日本の朝鮮統治に反感を持っていたという。上野氏は「この先生の前では、
特に言動には気をつけるように心がけました」と記す。日本人教師の方が、配慮していた様子が分かる。

回想録は、朝鮮総督府が昭和14(1939)年に出した創氏改名にも触れる。
「朝鮮名と日本名を持つことが許された。もちろん、自主的なものでした」と説明する。

職員室で「私、どんな日本名にしようかな」と楽しそうに談笑する同僚の姿も鮮明に覚えているという。
「日本が本当に嫌いであれば、自ら日本名を名乗るということはなかったはずです」と断言した。

当時、住んでいた町の様子についても、日本人と朝鮮人が争っている場面を見たことは一度もないという。

「軍の命令による朝鮮人の強制連行といった話など、私の周りではまったく聞いたことはありません」
「植民地という言葉は使われても、同じ人間として平等であったし、皆仲良く暮らしていた」

もっとも、日本統治に対し、朝鮮人が複雑な心情を抱いていたことは事実だ。
学校で日章旗を掲揚する際、同僚の朝鮮人教師をみると、皆寂しそうな表情だったという。

その様子を見た上野氏は疑問を抱いた。

日本は道路や鉄道、学校などに多額の資金を投入したが、朝鮮の人たちに感謝されていると思えなかったからだ。
「そこまで日本が負担し、統治する意味があるのだろうか」。回想録ではこう記した。

◆「また一等国に」

昭和20年8月15日、日本は敗れた。

この日の夜、遠くから響き渡ってきた「マンシー(万歳)」の声が、今も耳に残る。

戦争に負けたことで、日本人に対する目は、冷めたものになったという。

駅員から「これで日本も五等国だ。切符は売ってやらない」とあしらわれ、
「日本は、きっとまた一等国になってみせます」と言い返した。

ただ、上野氏や父の西見氏を慕う地元住民もいた。半島永住を願う声も多かったが、
内地への引き揚げを決めた。混乱はしていたが、半島に進駐した米軍の警備もあり、無事に帰還できた。

家族ぐるみで付き合っていたある朝鮮人一家との交流は、戦後も続いた。

西見さんが亡くなった後来日した一家の主人は、墓参を済ませ「韓国では反日教育が行われているが、
本当の日本はそうではない。すばらしい国だ。しっかり自分の目で見ておくように」と息子らに伝えた。

しかし、この一家は「親日的」であることを理由に、迫害を受けたという。 >>2へ続く

http://www.sankei.com/region/news/160409/rgn1604090019-n1.html

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