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【社会】韓国の竹島不法占拠を考える 独島義勇守備隊をめぐる論議 [01/24]

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2016/01/24(日) 21:41:57.25 ID:???
★談論風発 : 韓国の竹島不法占拠を考える/独島義勇守備隊をめぐる論議
島根県竹島問題研究顧問 藤井 賢二

2014年11月21日、韓国の国家報勲処(ほうくんしょ)は大田顕忠院
(テジョンけんちゅういん)(国立墓地)で「独島大捷(トクトたいしょう)」
60周年記念式を行った。「独島大捷」とは、1954(昭和29)年11月21日に
竹島で海上保安庁巡視船「へくら」「おき」を韓国人が砲撃した事件である。巡視船への
銃撃は前年の7月と、同年8月にも起きていたが、この砲撃事件で韓国の竹島不法占拠は
決定的になった。

当時、日本政府は問題をあくまでも平和的に解決する方針で、危うく難を逃れた巡視船が
韓国と交戦したわけではなく、その実態は「独島大捷(勝利)」などではない。

「独島大捷」記念式に合わせて行われたのが、その功労者とされる独島義勇守備隊元隊員の
埋葬式だった。洪淳七(ホンスンチル)隊長の証言によれば、「傷痍(しょうい)軍人
などで構成された33名の守備隊員は、53年4月20日独島に上陸して、56年12月
30日に独島警備を警察に引き継いで解散するまで、独島に接近する日本の巡視船を阻止
するなど独島守護のため活動した」のだという(「独島辞典」より)。

この証言は極めて疑わしい。53年6月に島根県と海上保安庁が竹島合同調査を実施した。
その時竹島にいたのは、ワカメを採る6人の密入国韓国人であり、彼らは2日前に隠岐高校
実習船・鵬丸から米6升を与えられて飢えをしのいでいた。島根県の報告書に残る彼らの
名簿に独島義勇守備隊員の名前はない。

54年5月の鳥取県水産試験場試験船・鳥取丸の竹島調査の時に日本人が見たのは、
50人ほどの韓国人が不法漁撈(ぎょろう)する姿だった。彼らの中には、「日本に連れて
行ってくれ」と哀願し、5日ごとに来る警備艇がいる時は危ないから来るなと忠告する
韓国人がいた(「日本海新聞」より)。

96年に韓国政府は元守備隊員を叙勲し、2005年には独島義勇守備隊支援法を制定した。
これに対して守備隊は3年8カ月も駐留していない、33人の中にはニセ隊員がいる、
日本の巡視船を攻撃したのは守備隊ではないなど、顕彰事業を非難する声があった。

非難に対応して06年に監査が実施されたが、結局、独島義勇守備隊記念館設立など
顕彰事業は中止されなかった。金明基(キムミョンギ)の「独島義勇守備隊と国際法」
では、守備隊の活動は韓国の実効支配を証明するものだと評価され、国家報勲処OBが
書いた「独島義勇守備隊−独島を守った英雄33名の活動相」は、洪淳七の証言を
全面的に採用している。

独島義勇守備隊を称賛することで、韓国は日本からの独立戦争に勝って建国したのでは
ないという、過去の埋め合わせをしているかのようである(33人という数字も1919年の
朝鮮三一独立運動の民族代表33人を連想させる)。

収まらない顕彰事業反対派は非難の声を上げ続け、リーダーが「竹島の日」に松江に来て
日本人と小競り合いを起こし、存在を印象づけたこともある。

そのリーダーは、「独島義勇守備隊の歴史歪曲(わいきょく)」は韓国政府が
「独島を放任した」と日本につけ込まれる口実になると警告している
(2015年8月3日付「メディアトゥデイ」より)。

彼の言い分は興味深い。この論議で浮かび上がるのは、1954年夏ごろまでの韓国政府の
竹島支配は、必ずしも確固としたものではなかった事実である。竹島占拠はわずかの差で
韓国が成功したもので、もしかすると日本にも実効支配維持の可能性を認めうるかもしれない、
という微妙さを孕(はら)んでのことなのではないか。そんな想像すらさせるのである。

http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=557138035

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