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【国際】戦後、真っ先に日本に対する賠償請求権を放棄したカンボジア その苦難の歴史、現在は投資先として急成長

2 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/06/12(金) 15:31:27.26 ID:???
>>1より

政権を獲った後のポル・ポト派の行状はすさまじい。プノンペンなどの都市部に住む数百万人の
住民を強制的に農村部に移住させ、強制労働させる、旧支配階級や知識層、富裕層、反抗者を虐殺する、
無計画な農業開発によりカンボジアの農業を崩壊させ飢饉を招く、など枚挙にいとまがない。
シハヌークは家族とともにプノンペン王宮に幽閉された。このポル・ポト政権下で当時の総人口
約800万人のうち140万人とも200万人とも推計される人々が犠牲になったと言われている。

◆ポル・ポト政権が終焉しても内戦は終わらず

4年弱続いたポル・ポト政権の幕引きは、ベトナムの手により行われた。

カンボジアとベトナムの間には古くから領土をめぐる争いがあり、多くのカンボジア人は
反ベトナム感情を持っていた。また、ポル・ポト政権は1975年以降、ベトナム南部に侵攻し、
数十万人の住民を虐殺するなどの事件を起こしていた。

これを受け、78年末にベトナム軍は、ベトナムに難を逃れていたヘン・サムリンやフン・センが
所属していた「カンボジア救国民族統一戦線」と共にカンボジアに侵攻した。ベトナム軍は翌年1月
にはプノンペンを陥落させ、ポル・ポトはタイ国境付近の山間部に逃亡し、虐殺はようやく終焉した。

カンボジアでは、新たな政府として親ベトナム系の「カンボジア人民共和国」が成立した。
だが、ベトナム戦争や中越戦争により対ベトナムの態度を硬化させていた米国・中国は親ベトナム系の
政権を認めず、82年には、シハヌーク派、ポル・ポト派などの3派による「民主カンボジア連立政府」が、
中国、ASEANの支援により成立した。民主カンボジア連立政府は「カンボジア人民共和国」政府と
対立し、内戦が継続した。

国連においては79年以降89年まで、ベトナムの「カンボジア介入」を非難する決議が採択され続けた。
その間、日本は米国、中国、ASEANと歩調を合わせ「民主カンボジア連立政府」を支援した。
一方、ソ連、ベトナム、東欧諸国が「カンボジア人民共和国」政府を支援した。
この対立構造は冷戦時代の所産であるだろう。

◆中国、韓国の後塵を拝する日本の投資

それゆえ、冷戦時代の終結とともにカンボジアの情勢も大きく変わる。

87年頃からカンボジア人民共和国首相のフン・センと民主カンボジア連立政府のシハヌークが、
和平に向けた会談を継続して持つようになり、91年のカンボジア和平パリ協定調印、
93年の国連監視下での総選挙実施を経て内戦状態はようやく終結した。

ポル・ポト派は総選挙には加わらずその後もゲリラ活動を続けたが、98年にポル・ポトが
密林地帯で死去する。遺体は当時の妻と娘が見守るなか、タイ国境近くの密林の中に埋葬された。

長い内戦が終結した後、カンボジアはようやく復興と発展の道を歩み始める。ポル・ポト政権から
内戦に続く困難な時代に国内産業は徹底的に破壊されたが、積極的な外資誘致政策により中国や韓国
などからの投資を呼び込んでいる。国民議会選挙もすでに5回実施され、安定した政権下で着実に
成長を遂げている。

残念ながら日本の投資額はいまだ中国、韓国に比べはるかに少ない。だが、ミャンマーと並んで
東南アジアの次の有望な投資先として成長しているカンボジアに目を向け、新たな関係を構築する
時期に来ているだろう。 (了)

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