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【戦後70年】家族思う言葉ちりばめ…親類宅に残る戦艦「大和」乗組員の手紙40通、資料館などに寄贈へ

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/04/06(月) 14:51:27.93 ID:???
★家族思う言葉ちりばめ…大和乗組員の手紙40通
2015年04月06日 08時52分

太平洋戦争末期、戦艦「大和」が米軍の攻撃を受けて鹿児島県沖に沈没してから、7日で70年となる。

戦死した乗組員は3056人。このうちの一人が、海軍軍人として家族に宛てた40通ほどの手紙が、
東京都江戸川区の親類宅に残る。「兄姉ご一同も変わったことはないでしょうか」。
文面には家族への気遣いと、死が避けがたい戦闘を前にしての覚悟がにじみ出ている。

無骨な男ですが、女性に対して関心は持たなかった事でもなかった。皆がこれと決めてくれたら、
(妻を)よろこんでもらうつもりでおります(記述は読みやすくした。以下、同じ)

宇田川秋三郎さんは、26歳だった1945年(昭和20年)春頃に出したとみられる長兄への手紙に、そう記した。

戦況は悪化し、日本は追い詰められていた。同年4月6日、大和は沖縄に上陸した米軍を
攻撃するため、瀬戸内海を出発した。帰還するあてのない特攻だった。

江戸川区の農家の三男に生まれ、20歳で海軍入りした秋三郎さんに、両親と7人いる兄姉妹は縁談を勧めた。
手紙はそれに対する返事だが、訪れる運命を予感したように、こうも書いてあった。

軍人故(ゆえ)に時機がないというのでしたら、私には一生良い時機はないと思います

投函時期が不明な手紙には、厳しい戦いへの思いをしたためた一文もある。

戦友が敵の攻撃を受け、自艦が沈没に瀕せんとしたる時、万策を施した後、笑って死んでいく姿こそ、
難関に処する心とすべきことと思います

手紙には「軍事郵便」「検閲済」の印が押され、いつ、どこから出したか分からないようになっているものが多い。
文面も、「目下○○の地において」と地名が伏せられている。ただ、家族を思う言葉が必ずちりばめられている。

お母様の体の具合はいかがですか。私も元気で太平洋のただ中で焼け付くような日光を浴びて、
一生懸命軍務に従任いたしておりますから御安心下さい

太平洋戦争開戦前の40年7月、父親に宛てた絵はがきでは、母親の体調を心配した。

皆も十分健康に注意して働いて下さい。姉さんたちも達者でしょうね。
我々の一番の楽しみは皆からの便りです。先日の手紙及び同封の写真届きました。ありがとう

妹への手紙には、便りをくれたことへの喜びと感謝の気持ちがあふれていた。

秋三郎さんは、戦艦「武蔵」でも勤務した。武蔵は44年10月、フィリピンのレイテ沖海戦で沈没した。
この時に乗艦していたかどうか、家族も聞かされていない。ただ、大和に乗り込むことが決まると、
秋三郎さんは実家に戻り、自分の髪と爪を家族に手渡したという。

現在、手紙は秋三郎さんのおいの妻・好子さん(68)が保管している。好子さんは「手紙を読むと、
大切な家族への思いは今も昔も変わりないことがわかる。多くの若者が命を落とした戦争の悲惨さを
伝えるためにも教育の場などで活用してほしい」と話しており、資料館などに寄贈する意向だ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20150405-OYT1T50120.html

2 :名無しさん@13周年:2015/04/06(月) 18:11:36.71 ID:4Dtk59RMm
泣いた

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