2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【産経正論】朝日新聞の凋落の始まりと黄昏迫る「戦後民主主義」の虚妄 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/11/25(火) 15:59:46.77 ID:???
★【正論】朝日新聞の凋落の始まりと黄昏迫る「戦後民主主義」の虚妄 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
2014.11.25 05:01

昨今の朝日新聞の一連の問題は、「戦後民主主義」中で「偶像」とされてきたものが、
実は「贋(にせ)の偶像」であったことを暴露するものであった。

来年は、戦後70年の節目である。これを機に「戦後民主主義」の虚妄が問い直されなければならないが、
それを予告するかのように、朝日新聞の凋落(ちょうらく)が始まったのは、単なる偶然とは思われない。

やはり、歴史の審判はあるのであり、戦後69年の長きにわたって、日本人の思考を巧妙に支配してきた
メディアは没落する運命にある。日本人の目からは、戦後になってからくっつけられた鱗(うろこ)が
落ちつつある。そして、日本人の再生した目には、新鮮な本来の日本が見えてきているのである。

≪「贋の偶像」が作られた時代≫

ドイツの哲学者・ニーチェは『偶像の黄昏』を著したが、今後の日本に起きて来るであろうことは、
「贋の偶像」の黄昏である。

「戦後民主主義」の欺瞞(ぎまん)を日本人の精神に浸透させてきたメディアの没落は、
「戦後民主主義」が持ち上げてきた「贋の偶像」の黄昏をもたらすはずだからである。

思えば、戦後の日本という進歩的事大主義が幅をきかせていた時代は、
「贋の偶像」が数多く作り上げられた時代でもあった。

文芸評論家・中村光夫の小説に『贋の偶像』という長篇がある。明治の文学者・長田秋濤を扱った
伝記体小説である。秋濤という生前はかなりの名声を得ていた文学者を「贋の偶像」として描いている。

明治33年の週刊誌『太平洋』に載った「文士内閣大見立」によると、秋濤は尾崎紅葉の大蔵大臣、
坪内逍遥の文部大臣、幸田露伴の海軍大臣などと並んで、外務大臣に擬せられているほどである。
しかし、秋濤は、中村にいわせれば「贋の偶像」にすぎなかった。

朝日新聞をはじめとする進歩的事大主義によって権威づけられた「贋の偶像」が、現在もまだ、政治、経済、
思想、文学、絵画、音楽などの領域で、贋物性が隠蔽(いんぺい)されたまま生きながらえている例が
少なくあるまい。朝日新聞の虚構の権威が崩れ去ってみれば、「贋の偶像」たちには黄昏が迫ってきているわけである。

≪「配給された」個人主義≫

人間の評価にも、戦後的な歪(ゆが)みが広く行きわたっていた。「戦後民主主義」に適合した人物を
持ち上げることになっていたからである。陸軍の軍医総監の森鴎外よりも、朝日新聞社員の夏目漱石の方が
千円札の肖像になる。童謡「赤とんぼ」の山田耕筰の方が「海ゆかば」の信時潔より有名である。
軍神・広瀬武夫を歌った文部省唱歌「広瀬中佐」も今やそれを知る日本人は稀(まれ)であろう。
同じ軍神・乃木大将よりも、児玉源太郎の方が功績があったようにいわれる。

このような人間の真贋(しんがん)が分からなくなってしまった人物評価をはじめとする戦後的な価値観を、
今回の「戦後民主主義」を支えたメディアの黄昏を機に終焉(しゅうえん)させなければならないであろう。

では、その戦後的な価値観とは何か。河上徹太郎は「配給された自由」といういい方で敗戦後の日本の
在り方を批判したが、中村は『明治・大正・昭和』の中で「個人主義」が「敗戦という事実によって、
いきなり人々の間に普及してしまった」と指摘している。

占領軍によって「配給された」個人主義にすぎないといっているわけである。占領下に「配給された」
憲法の下で「自由」や「個人主義」を外発的に与えられた日本人は、結局戦後70年ほどたって
精神の内発性を失い、今日の如(ごと)く肥大化した「自由」や「個人主義」に押しつぶされているのである。
>>2へ続く

http://www.sankei.com/column/news/141125/clm1411250001-n1.html

2 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/11/25(火) 15:59:53.98 ID:???
>>1より

≪真の保守としての他者実現≫

このような精神の自立とは無縁な「自由」や「個人主義」を喧伝(けんでん)してきたのが、進歩的事大主義の
マスメディアであるが、その言説がやむとき、新しい日本が出現するであろう。その暁に、日本人はどのような
人間として世界に立っていなければならないか。

5月に亡くなった名編集者・粕谷一希氏は、宗教哲学者・波多野精一の『時と永遠』が愛読書であったが、
波多野哲学について「人格の成長・発展こそ人生究極の目標であるとする近代の個人主義的人格主義に、
薄い膜が張ったように納得できなかったのは、まさに愛の世界・愛の行為としての他者実現が視野に
入っていないからであった。人間の活動として、自己実現としての文化(自我)の世界よりも、
愛としての他者実現の方が重い価値をもつことを明言した波多野哲学と出合って、私はある安らぎを
初めて感じたのであった」と書いている。

戦後とは、この「自己実現」がほとんど無前提によいこととされた時代であった。
「戦後民主主義」が問い直されるとは、人間の欲望としての「自己実現」から転向し「他者実現」の
「重い価値」に気がつくことに他ならない。

これから保守の反撃が起きて来るであろうが、真の保守とは「他者実現」の保守でなければならない。
そういう保守が、求められるべき保守の品格を持つのである。(しんぽ ゆうじ)

3 :名無しさん@13周年:2014/11/26(水) 05:21:54.87 ID:r5/uAoy3y
日本人はいないのだろう
日本人とは日本と日本人を愛し守るものを言う

総レス数 3
5 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★