2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【終戦】南方で日本軍に降伏を迫られたマッカーサの部下による報復も 戦勝国による「戦犯」認定は矛盾と疑問だらけ

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/08/17(日) 14:44:01.38 ID:???
★(71)「戦犯」認定は矛盾と疑問だらけ 戦勝国の報復だった裁判
2014.8.17 13:51

終戦から1カ月後の昭和20(1945)年9月15日、対米英戦開戦時の東条英機内閣商工相で、
後に首相となる岸信介は療養中の故郷、山口県の田布施から憲兵らに連行され東京へ向かった。
横浜の刑務所や大森の元陸軍捕虜収容所などを経て12月8日、巣鴨拘置所に収容される。

9月11日、GHQ(連合国軍総司令部)により、岸ら39人に戦争犯罪人として逮捕令状が発令
されたからだ。いわゆる「A級戦犯」の第1次逮捕で、東条をはじめ岸や東郷茂徳元外相ら
開戦時の閣僚が中心だった。

このうち東条は11日の逮捕直前にピストルで自殺をはかるが一命をとりとめた。
また東条内閣の厚相、小泉親彦や文相、橋田邦彦も自決した。

この後、逮捕は翌21年4月まで数次にわたって続き、計100人余りの軍人、政治家らが容疑者となった。
そして昭和天皇の誕生日の4月29日、28人がA級戦犯として起訴され、5月3日には東京・市谷の
旧陸軍省大講堂で極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が始まった。

だが岸は起訴を免れる。同じ東条内閣の閣僚で文官の東郷や蔵相だった賀屋興宣、内閣書記官長、
星野直樹らは起訴されただけに、覚悟していた岸自身も意外に思ったらしい。

GHQが「主犯」と見なしていた東条とサイパン陥落後に衝突、和平を主張したことなどが考えられたが、
正確な理由は明らかにならなかった。そうでなくとも「戦犯」認定には納得しにくいケースも多く、
東京裁判の持つ大きな「矛盾点」といえた。

A級戦犯の「罪名」は「平和に対する罪」だったが、これは明らかに、戦争後に勝者が敗者を裁くために
作られた事後法だった。東条を中心とした日本の一部が「共同謀議」のうえ、侵略を犯した罪とされたのだ。
むろん戦前の国際法にはなかった。

どうみても「無理筋」だった。戦勝国が当初に描いた通りの「犯罪」に仕立てようとしたため、
論拠もなく恣意(しい)的に逮捕や起訴・不起訴を決め、あちこちに矛盾や混乱が生じたのである。

その背景には、戦犯の裁判そのものに、米国による日本に対する復讐(ふくしゅう)という面が色濃かったことがあった。
そのことを示しているのが東京裁判以前に行われた山下奉文陸軍大将、本間雅晴同中将への「判決」だった。

第二十五軍を率いてマレー半島からシンガポールを陥落させた山下は19年9月、フィリピンの第十四方面軍
司令官としてマニラに赴任した。翌20年2月のマニラ市街戦で、日本軍が行ったとされる市民虐殺の責任者
として戦後、マニラ軍事法廷に立たされる。

裁判では山下の責任どころか、虐殺の事実も立証されなかった。だが連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの
部下の軍人からなる裁判官は12月7日、一方的に死刑を宣告、21年2月執行された。シンガポール陥落のさい敵将に
「イエスかノーか」と降伏を迫り連合国側の恨みを買ったうえ、フィリピンでマッカーサーと戦った山下への報復といえた。

本間の場合はもっとはっきりしている。17年4月のフィリピン・バターン半島攻略戦に勝利した日本の第十四軍は
米・比軍の捕虜を徒歩で北方へ移動させた。しかしその数が7万6千と想定外の多さで食料を十分にまかなえず、
マラリアにかかっている者の治療もできなかった。このため何千人もが死亡したとされる。

米軍はこれを「死の行進」と非難、当時の軍司令官だった本間を責任者としてやはり軍事法廷にかけた。
そしてこちらも責任を立証できないまま21年2月、銃殺刑の判決が下った。本間によってフィリピンから
オーストラリアへの脱出を余儀なくされ、軍歴に傷がついたマッカーサーの「意趣返し」と言われても仕方なかった。

東京裁判も日本側の異議申し立てをすべて却下、報復的な判決に向かって突き進むことになる。(皿木喜久)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140817/art14081713510003-n1.htm

2 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/08/17(日) 14:44:10.28 ID:???
【用語解説】BC級戦犯

連合国は日本人の戦犯をA、B、Cの3クラスに分けた。A級は「平和に対する罪」とされ東京裁判で裁かれた。
B級は「通常の戦争法規違反」、C級は捕虜虐待など「人道に対する罪」であり各国がそれぞれ裁判を行い処刑した。
いずれも戦勝国側が一方的に決めた「罪」の区分だった。

A級よりもB、C級の方がはるかに多かったが、その記録を公表したのは米国(死刑141人)だけで不明な部分は多い。
岩川隆氏の『孤島の土となるとも−BC級戦犯裁判』などによると、少なくとも6カ国で971人が死刑判決を受けたといわれる。

総レス数 2
5 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★