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【訃報】 中曽根康弘死去で振り返る従軍慰安婦 強制連行に関与か? 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書
- 2 :擬古牛φ ★:2019/11/30(土) 08:22:30.52 ID:???
- >>1の続き
●中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢
何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする
保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。
中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、
防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。
●「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」
まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。
同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。
タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。
当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、
いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。
そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。
かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。
そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。
その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。
ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、
アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。
●防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!
このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」
「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」
「具体的なことは知らない」と完全否定している。
だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、
「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、
『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。
だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に
「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」
「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。
いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。
国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。
戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。
資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。
第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、
飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経て
バリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。
同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
続く
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