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【政治】 佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

1 :擬古牛φ ★:2019/04/07(日) 11:43:51.12 ID:???
★佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(柳原三佳・ノンフィクション作家)

 山口県の下関市と福岡県を結ぶ「下関北九州道路」の整備に関する発言をきっかけに、塚田一郎国土交通副大臣が辞任しました。
いうまでもなく、山口県は安倍晋三首相の、そして福岡県は麻生太郎副総理・財務相の地元ですが、
そのことをことさらに強調したうえで「忖度しました」とまで言い切ったとなれば、
野党から「利益誘導だ」と批判を浴びても仕方がないでしょう。

 ご本人は、「事実と異なる発言だった」とおっしゃっているようですのでこれ以上の言及は避けますが、
一般論として、首相や国会議員に縁が深い地域や人物の私的利益のために、
公職に就く人がその権力を乱用することは「汚職」にあたり、本来あってはならないことです。

●維新直後、長州人脈の中から起こった大疑獄

 さて、「汚職」の歴史をさかのぼってみると、明治の初期に兵部省(明治5年に陸軍省に改名)で、桁違いの、
まさに「度肝を抜く」レベルの疑獄事件が起こっていました。近代日本初の大汚職事件ともいわれている「山城屋事件」です。

 じつは、「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、このとき、事件の舞台となった兵部省に籍を置いていました。
そして、わずか2年余りで退官しています。その時期がちょうど「山城屋事件」と重なるのは興味深い事実です。

 明治初期に「共立学校」(現在の開成学園の前身)を創立した教育者として名を残している佐野鼎ですが、元々は西洋砲術の専門家でした。
富国強兵という目標を高らかに掲げ、西洋式の軍制を推し進めていた新政府にとって、西洋砲術や航海術の知識のみならず、
複数回の海外渡航経験を持つ鼎の存在は、得難いものだったのでしょう。

●陸軍の資金を流用しパリで豪遊

 その経験と能力を買われ、彼は明治維新の後も、新政府の兵部省で“造兵司権正准席”という役職に就いていたのです。

 では、「山城屋事件」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
 この事件については、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中にも登場しますが、
まずは、『世界大百科事典 第2版』から抜粋してみたいと思います。

■やましろやじけん【山城屋事件】
 明治初年の陸軍部内の汚職事件。陸軍省御用商山城屋和助は長州藩奇兵隊の出身で、同じ奇兵隊出身の山縣有朋と親しく、
兵部大輔のち陸軍大輔の山縣を通じて陸軍省官金約65万円の不正融資を受けた。名目は輸入物仕入代金であった。
これを流用してパリで豪遊していることが外務省の報告により問題化し、山縣はあわてて返却を要求したが、
山城屋はこれに応じることができず1872年(明治5)11月陸軍省内で割腹自殺した。

 当時の65万円という金額がどれほどの額だったのかは想像もつきませんが、一説には、
当時の陸軍省の予算の1割に当たるほどの大金だったと言われています。
山縣有朋がいくら大きな権力を握っていたとしても、それだけの大金を無担保で貸してしまうのですから、
山城屋和助=本名・野村三千三(のむら みちぞう)とは、奇兵隊時代から個人的に相当懇意にしていたと考えられます。
「パリでの豪遊」の中身もかなり豪快で、観劇や競馬に興じるほか、女優とパリのホテルで逢瀬を重ねたり、
富豪の娘と婚約話まで出ていたというのですから驚きです。(続く)

JBPress http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56033

続きは>>2-4

2 :擬古牛φ ★:2019/04/07(日) 11:44:16.12 ID:???
>>1の続き

 その後、山城屋和助は、山縣から借りた金を元手に生糸相場に手を出したものの、暴落に見舞われ大損失を出します。
それでも、見返りに金銭的な賄賂を受けていた山縣は、あろうことかさらに公金を投入したそうですが、
山城屋は、仕事らしい仕事はほとんどせず、パリで豪遊しているところを発見され、ついに日本に連れ戻されました。

 そして、結局、金を返すことができなかった山城屋は、明治5年(1872年)の11月29日、関係書類をすべて焼き尽くした末に、
兵部省(当時は陸軍省)の中で割腹自殺するという結末を迎えたのです。
切腹という手段は、いかにも幕末の時代を生きた者らしい最期でした。

●長州閥が幅を利かす兵部省に嫌気が差したのか

 佐野鼎はこの年の7月20日に兵部省を退官していますので、山城屋が自殺したときには出勤していなかったはずですが、
同省に勤めていた役人たちは、どのような思いで、省のトップである山縣が関わったこの事件を見ていたのでしょうか。

 ちなみに、維新後、兵部省の初代大輔(次官)となった大村益次郎も長州出身でした。
彼は明治2年に京都で暗殺されますが、その後を受けたのも、長州出身の山縣有朋だったわけです。

 これだけの疑獄事件を起こしながら、当の山縣は一時的に辞職をしただけで、大したお咎めはありませんでした。

 その証拠に、彼はその後、内閣総理大臣を二度も務めています。
明治政府という組織の中で、長州閥がいかに大きな力を持っていたかを思い知らされる象徴的な出来事だったと言えるでしょう。

 佐野鼎は、明治4年(1871年)、兵部省に務めながら、社中と呼ばれる出資者を募り、「共立学校」を開校させます。
しかし、その翌年には官職を退き、学校経営と教育の世界に専念することになるのです。

 ここからはあくまでも私の推測ですが、長州や薩摩出身の官僚が中心となって軍備強化と徴兵制を推し進める中、
西洋式の軍事を知り尽くした佐野鼎は、自身の意見を押し挟むこともできず、忸怩たる思いで任務にあたってきたのではないでしょうか。
加賀藩から兵部省に移った彼にとって、長州閥に牛耳られ、金にまみれた官僚組織の中に身を置いていることは苦痛でならなかったのではないか・・・。

 今回の「忖度」ニュースを見ながら、いつの時代にも、こうした葛藤はあるものだと、改めてしみじみ考えさせられた新年度のスタートでした。

以上

3 :名無しさん@15周年:2019/04/09(火) 06:39:18.26 ID:wJFtFonGc
『垂水市立垂水南中学校』開校。

http://timeline.sakura.ne.jp/02/n/x/jupdate.html

http://timeline.sakura.ne.jp/02/n/1/9/5/9/n1959.html#4_01

http://consp.skr.jp/cc/02/d/04/0401.html#1959

( 個人的意見 )

4 :名無しさん@15周年:2019/04/11(木) 20:28:06.13 ID:ZjSarHL//
ジャック・アタリ「日本に1000万人の移民を入れなければならない」
https://youtu.be/ERH6IJcWnxk

総レス数 4
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