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1993年のプロ野球

535 :神様仏様名無し様:2018/08/04(土) 01:58:36.82 ID:SjpeM+mW.net
「最多浪人記録」

91年頃を初めとした大相撲の若貴フィーバー、F1ブーム、92年5月に発足の全容を発表したサッカーJリーグといった日本スポーツの多様化から、
“野球離れ”が囁かれていた。しかし、91年と92年のプロ野球が人気低下するほどの内容かといえば、共に西武日本一の結果とはいえ近鉄との
激戦だったパ・リーグと、2年とも混戦のセ・リーグの戦いを見ても決して退屈するものではなく、日本シリーズは2年連続で7戦までもつれる大接戦
だった。野球人気について球界関係者が焦っていたといわれたが、その間巨人は4位と2位で92年の2位も前半の低迷が目立つ戦いぶり、即ち
当時の野球人気低下は巨人人気の低下といった時代だった。

読売グループにとって人気復活の切り札は長嶋茂雄だった。巨人の不振に加えて、91年には長嶋復帰に反対していた務台光雄の死去があり準備の
流れは着々と進んではいた。前年に続き優勝を逃した巨人は92年に10月7日に全日程終了、その翌日に長嶋の復帰が球団から発表された。さらに
4日後の12日には、長嶋の華やかな復帰会見といった動きは実に速かった。
会場となった東京・九段のホテルには48社のマスコミに、228人の報道陣が集まった。会見で「チームで戦うキメの細かい野球」と話していた長嶋、
監督復帰までの十二浪は“最多浪人記録”だったが、その間に五輪や世界陸上など色々なスポーツに触れて幅広く知識を身に付けてきた。就任時に
掲げた「スピード&チャージ」は、そんな取材から得た「スピードこそスポーツの原点」という感想からだった。本業の野球でもゲスト解説の席で、
進塁打の重要性を熱く語って“カンピュータ”のイメージ脱却を図ってきた。マスコミはその長嶋を「充電期間で視野を広げた」「視聴率と人気アップの
救世主」「「選手が蘇り若手が育つ」などと祭り上げた。

ただ長嶋によると、復帰について「降ってわいたような話、もう来年のスケジュールは決まっていた」と吐露していた。しかも第一次政権時の川上哲治
ほどでは無いにせよ、二回目も前任者の藤田元司が二度の監督生活7年間でリーグ優勝4回、日本一2回の実績を挙げていた事が長嶋には重圧と
して重くのしかかっていた。長嶋にとって謙虚に神妙にスタートするはずだった第二次政権を、周囲の鳴り止まない賛辞が戸惑いを与え発進を
微妙に遅らせた。 (了)

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