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アンパンマンが郷田ほづみを鉄パイプで殴り殺した
- 1 :ドルアーガ殺す暴力団:2016/08/16(火) 19:40:34.37 ID:89qA1Ipo.net
- ほんま
- 2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/18(火) 17:48:29.61 ID:ZRGeUnSX.net
- hanryu:韓流[重要削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1334837321/8-
- 3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:34:35.83 ID:H4pp1BzCk
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:46:06.43 ID:H4pp1BzCk
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 17:57:36.94 ID:H4pp1BzCk
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:09:07.44 ID:H4pp1BzCk
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:27:38.04 ID:H4pp1BzCk
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 18:50:23.75 ID:H4pp1BzCk
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:13:09.23 ID:H4pp1BzCk
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:24:39.74 ID:H4pp1BzCk
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:36:10.31 ID:H4pp1BzCk
- が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
- 12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:47:43.73 ID:H4pp1BzCk
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 19:59:14.40 ID:H4pp1BzCk
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:10:45.36 ID:H4pp1BzCk
- 太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。
- 15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:22:16.06 ID:H4pp1BzCk
- 眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。
- 16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:33:46.68 ID:H4pp1BzCk
- 馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。
- 17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:45:17.64 ID:H4pp1BzCk
- そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。
- 18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 20:56:49.08 ID:H4pp1BzCk
- 「まだ何かあるかい?」
- 19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:08:19.66 ID:H4pp1BzCk
- いろんなことがあるの。」
- 20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:19:50.26 ID:H4pp1BzCk
- 今にもっとえらくなりますからね。」
- 21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:31:20.88 ID:H4pp1BzCk
- 「えらくなりますから?」
- 22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:42:51.48 ID:H4pp1BzCk
- 辛抱おしなさいって。」
- 23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 21:54:22.00 ID:H4pp1BzCk
- 馬琴は思わず、真面目な声を出した。
- 24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:05:53.43 ID:H4pp1BzCk
- 「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
- 25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:17:23.99 ID:H4pp1BzCk
- 「誰がそんなことを言ったのだい。」
- 26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:28:54.47 ID:H4pp1BzCk
- 太郎は悪戯そうに、ちょいと彼の顔を見た。
- 27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:40:24.93 ID:H4pp1BzCk
- 今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
- 28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 22:59:55.38 ID:H4pp1BzCk
- 断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋を少し前へ出すようにして、
- 29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:08:40.68 ID:H4pp1BzCk
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:20:11.25 ID:H4pp1BzCk
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:37:14.84 ID:H4pp1BzCk
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/09(土) 23:55:47.49 ID:H4pp1BzCk
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:07:18.01 ID:B+J4nl9au
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:20:18.83 ID:B+J4nl9au
- うちの中は森としている。
- 35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:31:49.29 ID:B+J4nl9au
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:43:19.79 ID:B+J4nl9au
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 00:54:50.34 ID:B+J4nl9au
- それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。
- 38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:06:20.92 ID:B+J4nl9au
- 彼は昔から「先王の道」
- 39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:17:52.02 ID:B+J4nl9au
- 彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」
- 40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:29:23.32 ID:B+J4nl9au
- だから、そこに矛盾はない。
- 41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:40:53.84 ID:B+J4nl9au
- が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。
- 42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 01:52:24.88 ID:B+J4nl9au
- 従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。
- 43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:03:55.40 ID:B+J4nl9au
- もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。
- 44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:15:25.95 ID:B+J4nl9au
- 実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。
- 45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:26:56.65 ID:B+J4nl9au
- しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。
- 46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:38:27.99 ID:B+J4nl9au
- 彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」
- 47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 02:49:58.78 ID:B+J4nl9au
- と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――
- 48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:01:29.70 ID:B+J4nl9au
- 水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
- 49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:13:00.20 ID:B+J4nl9au
- この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。
- 50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 03:24:30.74 ID:B+J4nl9au
- が、彼の前には水滸伝がある。
- 51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 15:54:21.98 ID:uspfWFP6c
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:05:53.24 ID:uspfWFP6c
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:17:24.12 ID:uspfWFP6c
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:28:55.07 ID:uspfWFP6c
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:40:25.88 ID:uspfWFP6c
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 16:51:56.75 ID:uspfWFP6c
- 「いや、大いにありますよ。」
- 57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:03:27.63 ID:uspfWFP6c
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:14:58.47 ID:uspfWFP6c
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:26:29.15 ID:uspfWFP6c
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:38:00.03 ID:uspfWFP6c
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 17:49:31.16 ID:uspfWFP6c
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:01:01.97 ID:uspfWFP6c
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:12:33.12 ID:uspfWFP6c
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:24:03.86 ID:uspfWFP6c
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:35:34.58 ID:uspfWFP6c
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:47:05.59 ID:uspfWFP6c
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 18:58:36.30 ID:uspfWFP6c
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:10:08.84 ID:uspfWFP6c
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:21:40.29 ID:uspfWFP6c
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:33:11.08 ID:uspfWFP6c
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:44:41.88 ID:uspfWFP6c
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 19:56:12.83 ID:uspfWFP6c
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:07:43.87 ID:uspfWFP6c
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:19:14.73 ID:uspfWFP6c
- 私にはそうも思われませんが。」
- 75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:30:45.75 ID:uspfWFP6c
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:42:17.53 ID:uspfWFP6c
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 20:53:48.42 ID:uspfWFP6c
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:05:19.23 ID:uspfWFP6c
- 「私が心細いのではない。
- 79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:16:50.15 ID:uspfWFP6c
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:28:21.01 ID:uspfWFP6c
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:39:52.12 ID:uspfWFP6c
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 21:51:22.85 ID:uspfWFP6c
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:02:53.73 ID:uspfWFP6c
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:14:25.13 ID:uspfWFP6c
- 笑わなかったばかりではない。
- 85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:25:55.78 ID:uspfWFP6c
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:37:26.50 ID:uspfWFP6c
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 22:48:57.45 ID:uspfWFP6c
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:00:28.23 ID:uspfWFP6c
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:11:59.06 ID:uspfWFP6c
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:23:30.37 ID:uspfWFP6c
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:35:01.05 ID:uspfWFP6c
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:46:31.80 ID:uspfWFP6c
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/10(日) 23:58:02.93 ID:uspfWFP6c
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:09:34.81 ID:yl2QHhepN
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:21:05.82 ID:yl2QHhepN
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:32:36.64 ID:yl2QHhepN
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:44:07.41 ID:yl2QHhepN
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 00:55:38.33 ID:yl2QHhepN
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:16:30.70 ID:ND6Ti9W7f
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:38:03.61 ID:ND6Ti9W7f
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 21:49:34.20 ID:ND6Ti9W7f
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:01:04.77 ID:ND6Ti9W7f
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:12:35.40 ID:ND6Ti9W7f
- 笑わなかったばかりではない。
- 104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:24:06.80 ID:ND6Ti9W7f
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:35:37.32 ID:ND6Ti9W7f
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:47:07.93 ID:ND6Ti9W7f
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 22:58:38.42 ID:ND6Ti9W7f
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:10:08.99 ID:ND6Ti9W7f
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:21:39.55 ID:ND6Ti9W7f
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:33:10.96 ID:ND6Ti9W7f
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:44:41.55 ID:ND6Ti9W7f
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/13(水) 23:56:12.13 ID:ND6Ti9W7f
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:07:42.70 ID:4sVDlTSQV
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:19:13.25 ID:4sVDlTSQV
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:30:44.03 ID:4sVDlTSQV
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:42:15.51 ID:4sVDlTSQV
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 00:53:46.03 ID:4sVDlTSQV
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:05:17.11 ID:4sVDlTSQV
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:16:47.75 ID:4sVDlTSQV
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:28:18.40 ID:4sVDlTSQV
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:39:49.49 ID:4sVDlTSQV
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 01:51:21.06 ID:4sVDlTSQV
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:02:51.59 ID:4sVDlTSQV
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:14:22.10 ID:4sVDlTSQV
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:25:52.68 ID:4sVDlTSQV
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:37:23.19 ID:4sVDlTSQV
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 02:48:53.74 ID:4sVDlTSQV
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:00:25.06 ID:4sVDlTSQV
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:11:55.60 ID:4sVDlTSQV
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:23:26.12 ID:4sVDlTSQV
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:34:56.88 ID:4sVDlTSQV
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:46:27.40 ID:4sVDlTSQV
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 03:57:57.96 ID:4sVDlTSQV
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:09:29.29 ID:4sVDlTSQV
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:20:59.84 ID:4sVDlTSQV
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:32:30.37 ID:4sVDlTSQV
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:44:00.90 ID:4sVDlTSQV
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 04:55:31.44 ID:4sVDlTSQV
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:07:02.03 ID:4sVDlTSQV
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:18:33.55 ID:4sVDlTSQV
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:30:04.17 ID:4sVDlTSQV
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:41:34.72 ID:4sVDlTSQV
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 05:53:05.64 ID:4sVDlTSQV
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:04:36.10 ID:4sVDlTSQV
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:16:06.60 ID:4sVDlTSQV
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 06:27:38.03 ID:4sVDlTSQV
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:33:24.11 ID:9aByzEFlS
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:45:10.15 ID:9aByzEFlS
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 11:56:55.72 ID:9aByzEFlS
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:08:41.27 ID:9aByzEFlS
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:20:26.87 ID:9aByzEFlS
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:32:12.50 ID:9aByzEFlS
- 「いや、大いにありますよ。」
- 153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:43:58.53 ID:9aByzEFlS
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 12:55:44.25 ID:9aByzEFlS
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:07:29.89 ID:9aByzEFlS
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:19:15.58 ID:9aByzEFlS
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:31:01.16 ID:9aByzEFlS
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:42:46.86 ID:9aByzEFlS
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 13:54:32.73 ID:9aByzEFlS
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:06:18.35 ID:9aByzEFlS
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:18:03.96 ID:9aByzEFlS
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:29:49.80 ID:9aByzEFlS
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:41:35.39 ID:9aByzEFlS
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 14:53:21.35 ID:9aByzEFlS
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:05:07.09 ID:9aByzEFlS
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:16:52.71 ID:9aByzEFlS
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:28:38.32 ID:9aByzEFlS
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:40:23.95 ID:9aByzEFlS
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 15:52:09.52 ID:9aByzEFlS
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:03:55.20 ID:9aByzEFlS
- 私にはそうも思われませんが。」
- 171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:15:40.89 ID:9aByzEFlS
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:27:26.53 ID:9aByzEFlS
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:39:12.22 ID:9aByzEFlS
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 16:50:57.84 ID:9aByzEFlS
- 「私が心細いのではない。
- 175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:02:43.47 ID:9aByzEFlS
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:14:29.06 ID:9aByzEFlS
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:26:14.77 ID:9aByzEFlS
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:38:00.59 ID:9aByzEFlS
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 17:49:46.83 ID:9aByzEFlS
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:01:33.24 ID:9aByzEFlS
- 笑わなかったばかりではない。
- 181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:13:19.30 ID:9aByzEFlS
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:25:05.25 ID:9aByzEFlS
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:36:51.72 ID:9aByzEFlS
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 18:48:38.64 ID:9aByzEFlS
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:00:24.60 ID:9aByzEFlS
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:12:10.59 ID:9aByzEFlS
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:23:56.30 ID:9aByzEFlS
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:35:42.09 ID:9aByzEFlS
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:47:27.98 ID:9aByzEFlS
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 19:59:13.72 ID:9aByzEFlS
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:10:59.49 ID:9aByzEFlS
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:22:45.17 ID:9aByzEFlS
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:34:30.88 ID:9aByzEFlS
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/14(木) 20:46:16.55 ID:9aByzEFlS
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:16:20.22 ID:OZmVxgT13
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:28:21.00 ID:OZmVxgT13
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:40:21.85 ID:pXG75gLYF
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 10:52:22.92 ID:pXG75gLYF
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:04:23.69 ID:pXG75gLYF
- 「いや、大いにありますよ。」
- 200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:16:24.34 ID:pXG75gLYF
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:28:25.00 ID:pXG75gLYF
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:40:25.79 ID:pXG75gLYF
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 11:52:26.68 ID:pXG75gLYF
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 12:04:27.37 ID:pXG75gLYF
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 12:16:28.01 ID:pXG75gLYF
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 12:28:28.77 ID:pXG75gLYF
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 12:40:29.89 ID:pXG75gLYF
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 12:52:30.90 ID:pXG75gLYF
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:04:31.75 ID:pXG75gLYF
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:16:32.52 ID:pXG75gLYF
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:28:33.20 ID:pXG75gLYF
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:40:34.22 ID:pXG75gLYF
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 13:52:35.45 ID:pXG75gLYF
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:04:36.10 ID:pXG75gLYF
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:16:36.73 ID:pXG75gLYF
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:28:37.36 ID:pXG75gLYF
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:40:38.28 ID:pXG75gLYF
- 私にはそうも思われませんが。」
- 218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 14:52:39.12 ID:pXG75gLYF
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:04:39.78 ID:pXG75gLYF
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:16:40.39 ID:pXG75gLYF
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:28:41.02 ID:pXG75gLYF
- 「私が心細いのではない。
- 222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:40:42.00 ID:pXG75gLYF
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 15:52:42.80 ID:pXG75gLYF
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 16:28:44.96 ID:pXG75gLYF
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 16:40:46.43 ID:pXG75gLYF
- 笑わなかったばかりではない。
- 226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 17:28:50.08 ID:pXG75gLYF
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 17:40:51.19 ID:pXG75gLYF
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:28:59.50 ID:pXG75gLYF
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 19:57:15.05 ID:zdOVU+Wxv
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:09:31.59 ID:zdOVU+Wxv
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:21:48.20 ID:zdOVU+Wxv
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:34:03.86 ID:zdOVU+Wxv
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:46:19.84 ID:zdOVU+Wxv
- なども到底この「西遊記」
- 234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 20:58:35.43 ID:zdOVU+Wxv
- も愛読書の一つである。
- 235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:10:51.92 ID:zdOVU+Wxv
- これも今以て愛読してゐる。
- 236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:23:08.05 ID:zdOVU+Wxv
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:35:23.70 ID:zdOVU+Wxv
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:47:39.21 ID:zdOVU+Wxv
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 21:59:54.76 ID:zdOVU+Wxv
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:12:13.71 ID:zdOVU+Wxv
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:24:29.53 ID:zdOVU+Wxv
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:36:45.04 ID:zdOVU+Wxv
- だから人の事は笑へない。
- 243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 22:49:00.54 ID:zdOVU+Wxv
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:01:16.07 ID:zdOVU+Wxv
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:13:32.42 ID:zdOVU+Wxv
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:25:47.90 ID:zdOVU+Wxv
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:38:03.44 ID:zdOVU+Wxv
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/15(金) 23:50:19.34 ID:zdOVU+Wxv
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:02:34.90 ID:HxuxZBceW
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:14:51.39 ID:HxuxZBceW
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:27:06.94 ID:HxuxZBceW
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:39:22.50 ID:HxuxZBceW
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 00:51:38.04 ID:HxuxZBceW
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:03:53.60 ID:HxuxZBceW
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:16:10.09 ID:HxuxZBceW
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:28:26.00 ID:HxuxZBceW
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:40:41.53 ID:HxuxZBceW
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 01:52:57.04 ID:HxuxZBceW
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:05:12.55 ID:HxuxZBceW
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:17:28.89 ID:HxuxZBceW
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:29:44.43 ID:HxuxZBceW
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:41:59.94 ID:HxuxZBceW
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 02:54:15.46 ID:HxuxZBceW
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:06:30.97 ID:HxuxZBceW
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:18:47.64 ID:HxuxZBceW
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:31:03.17 ID:HxuxZBceW
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:43:18.70 ID:HxuxZBceW
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 03:55:34.26 ID:HxuxZBceW
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:07:49.78 ID:HxuxZBceW
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:20:06.16 ID:HxuxZBceW
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:32:21.94 ID:HxuxZBceW
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:44:37.45 ID:HxuxZBceW
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 04:56:52.98 ID:HxuxZBceW
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:09:08.67 ID:HxuxZBceW
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:21:25.10 ID:HxuxZBceW
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/16(土) 05:37:40.63 ID:HxuxZBceW
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:08:41.05 ID:yOjLwHqHN
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:21:12.09 ID:yOjLwHqHN
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:33:42.70 ID:yOjLwHqHN
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:46:13.29 ID:yOjLwHqHN
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 14:58:43.91 ID:yOjLwHqHN
- なども到底この「西遊記」
- 282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:11:14.63 ID:yOjLwHqHN
- も愛読書の一つである。
- 283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:23:45.23 ID:yOjLwHqHN
- これも今以て愛読してゐる。
- 284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:36:16.18 ID:yOjLwHqHN
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 15:48:47.31 ID:yOjLwHqHN
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:01:17.89 ID:yOjLwHqHN
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:13:48.65 ID:yOjLwHqHN
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:26:19.35 ID:yOjLwHqHN
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:38:49.96 ID:yOjLwHqHN
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 16:51:20.54 ID:yOjLwHqHN
- だから人の事は笑へない。
- 291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:03:51.14 ID:yOjLwHqHN
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:16:22.28 ID:yOjLwHqHN
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:28:53.15 ID:yOjLwHqHN
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:41:23.75 ID:yOjLwHqHN
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 17:53:54.37 ID:yOjLwHqHN
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:06:25.08 ID:yOjLwHqHN
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:18:55.89 ID:yOjLwHqHN
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:31:26.47 ID:yOjLwHqHN
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:43:57.28 ID:yOjLwHqHN
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 18:56:27.99 ID:yOjLwHqHN
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:08:58.59 ID:yOjLwHqHN
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:21:29.45 ID:yOjLwHqHN
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:34:00.35 ID:yOjLwHqHN
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:46:31.11 ID:yOjLwHqHN
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 19:59:01.92 ID:yOjLwHqHN
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:11:32.68 ID:yOjLwHqHN
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:24:03.47 ID:yOjLwHqHN
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:36:34.45 ID:yOjLwHqHN
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 20:49:05.10 ID:yOjLwHqHN
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:01:35.86 ID:yOjLwHqHN
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:14:06.83 ID:yOjLwHqHN
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:26:40.05 ID:yOjLwHqHN
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:39:10.78 ID:yOjLwHqHN
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 21:51:41.42 ID:yOjLwHqHN
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:04:12.21 ID:yOjLwHqHN
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:16:42.80 ID:yOjLwHqHN
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:29:13.74 ID:yOjLwHqHN
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:41:44.41 ID:yOjLwHqHN
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 22:54:15.82 ID:yOjLwHqHN
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 23:06:46.87 ID:yOjLwHqHN
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 23:19:17.78 ID:yOjLwHqHN
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 23:31:48.79 ID:yOjLwHqHN
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 23:44:19.94 ID:yOjLwHqHN
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/18(月) 23:56:50.61 ID:yOjLwHqHN
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 15:35:02.38 ID:4f0VCBUDa
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 15:47:48.52 ID:4f0VCBUDa
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:00:34.24 ID:4f0VCBUDa
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:13:20.34 ID:4f0VCBUDa
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:26:06.22 ID:4f0VCBUDa
- なども到底この「西遊記」
- 330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:38:52.01 ID:4f0VCBUDa
- も愛読書の一つである。
- 331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 16:51:37.72 ID:4f0VCBUDa
- これも今以て愛読してゐる。
- 332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:04:24.55 ID:4f0VCBUDa
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:17:10.26 ID:4f0VCBUDa
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:29:56.28 ID:4f0VCBUDa
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:42:42.43 ID:4f0VCBUDa
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 17:55:28.41 ID:4f0VCBUDa
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:08:14.06 ID:4f0VCBUDa
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:20:59.75 ID:4f0VCBUDa
- だから人の事は笑へない。
- 339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:33:45.55 ID:4f0VCBUDa
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:46:31.53 ID:4f0VCBUDa
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 18:59:17.73 ID:4f0VCBUDa
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:12:04.13 ID:4f0VCBUDa
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:24:50.14 ID:4f0VCBUDa
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:37:36.03 ID:4f0VCBUDa
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 19:50:22.40 ID:4f0VCBUDa
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:03:08.28 ID:4f0VCBUDa
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:15:54.13 ID:4f0VCBUDa
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:28:39.97 ID:4f0VCBUDa
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:41:26.73 ID:4f0VCBUDa
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 20:54:13.06 ID:4f0VCBUDa
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:06:59.12 ID:4f0VCBUDa
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:19:45.15 ID:4f0VCBUDa
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:32:30.99 ID:4f0VCBUDa
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:45:16.78 ID:4f0VCBUDa
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 21:58:02.92 ID:4f0VCBUDa
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:10:48.84 ID:4f0VCBUDa
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:23:34.53 ID:4f0VCBUDa
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:36:20.34 ID:4f0VCBUDa
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 22:49:06.16 ID:4f0VCBUDa
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:01:52.49 ID:4f0VCBUDa
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:14:38.29 ID:4f0VCBUDa
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:27:24.09 ID:4f0VCBUDa
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:40:09.72 ID:4f0VCBUDa
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/19(火) 23:52:55.44 ID:4f0VCBUDa
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:05:44.67 ID:c/v1N1XAw
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:18:30.89 ID:c/v1N1XAw
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:31:16.53 ID:c/v1N1XAw
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:44:02.25 ID:c/v1N1XAw
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 00:56:48.01 ID:c/v1N1XAw
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:09:33.89 ID:c/v1N1XAw
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:22:20.37 ID:c/v1N1XAw
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 01:35:06.25 ID:c/v1N1XAw
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 09:55:11.54 ID:xH4AHKz3g
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 10:34:13.45 ID:xH4AHKz3g
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 10:47:14.04 ID:xH4AHKz3g
- なども到底この「西遊記」
- 376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:00:15.50 ID:xH4AHKz3g
- も愛読書の一つである。
- 377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 11:13:16.04 ID:xH4AHKz3g
- これも今以て愛読してゐる。
- 378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:18:20.13 ID:xH4AHKz3g
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:31:21.06 ID:xH4AHKz3g
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 12:44:21.93 ID:xH4AHKz3g
- だから人の事は笑へない。
- 381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 14:28:28.92 ID:xH4AHKz3g
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 17:17:39.32 ID:xH4AHKz3g
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 20:27:21.54 ID:Dz6nCfQmC
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:07:09.09 ID:Dz6nCfQmC
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:20:27.22 ID:Dz6nCfQmC
- なども到底この「西遊記」
- 386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:33:44.02 ID:Dz6nCfQmC
- も愛読書の一つである。
- 387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 21:46:59.79 ID:Dz6nCfQmC
- これも今以て愛読してゐる。
- 388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 22:53:18.22 ID:Dz6nCfQmC
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:06:33.95 ID:Dz6nCfQmC
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/20(水) 23:19:49.64 ID:Dz6nCfQmC
- だから人の事は笑へない。
- 391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 01:05:57.71 ID:p3UiZfGyr
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 03:58:22.59 ID:p3UiZfGyr
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 13:41:29.38 ID:g9ASoaxAK
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 13:55:00.52 ID:g9ASoaxAK
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:08:31.43 ID:g9ASoaxAK
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:22:02.06 ID:g9ASoaxAK
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:35:32.84 ID:g9ASoaxAK
- なども到底この「西遊記」
- 398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 14:49:03.62 ID:g9ASoaxAK
- も愛読書の一つである。
- 399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:02:34.27 ID:g9ASoaxAK
- これも今以て愛読してゐる。
- 400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:16:05.16 ID:g9ASoaxAK
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:29:35.89 ID:g9ASoaxAK
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:43:06.54 ID:g9ASoaxAK
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 15:56:37.43 ID:g9ASoaxAK
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:10:08.05 ID:g9ASoaxAK
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:23:38.69 ID:g9ASoaxAK
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:37:09.52 ID:g9ASoaxAK
- だから人の事は笑へない。
- 407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 16:50:40.17 ID:g9ASoaxAK
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:04:11.23 ID:g9ASoaxAK
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:17:42.05 ID:g9ASoaxAK
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:31:12.97 ID:g9ASoaxAK
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:44:43.67 ID:g9ASoaxAK
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 17:58:14.49 ID:g9ASoaxAK
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:11:45.42 ID:g9ASoaxAK
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:25:16.27 ID:g9ASoaxAK
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:38:47.40 ID:g9ASoaxAK
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 18:52:18.08 ID:g9ASoaxAK
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:05:49.05 ID:g9ASoaxAK
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:19:19.88 ID:g9ASoaxAK
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:32:50.73 ID:g9ASoaxAK
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:46:21.77 ID:g9ASoaxAK
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 19:59:53.39 ID:g9ASoaxAK
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:13:24.64 ID:g9ASoaxAK
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:26:56.03 ID:g9ASoaxAK
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:40:26.91 ID:g9ASoaxAK
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 20:53:57.69 ID:g9ASoaxAK
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:07:28.96 ID:g9ASoaxAK
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:21:00.42 ID:g9ASoaxAK
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:34:32.91 ID:g9ASoaxAK
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 21:48:04.99 ID:g9ASoaxAK
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:01:36.46 ID:g9ASoaxAK
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:15:07.14 ID:g9ASoaxAK
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:28:37.93 ID:g9ASoaxAK
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:42:08.68 ID:g9ASoaxAK
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 22:55:40.81 ID:g9ASoaxAK
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:09:13.32 ID:g9ASoaxAK
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:22:44.04 ID:g9ASoaxAK
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:36:14.97 ID:g9ASoaxAK
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/21(木) 23:49:45.64 ID:g9ASoaxAK
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 00:03:19.08 ID:2SaRe391C
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 00:16:50.06 ID:2SaRe391C
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:07:00.77 ID:U1go06C3o
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 08:48:17.69 ID:U1go06C3o
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:02:03.20 ID:U1go06C3o
- なども到底この「西遊記」
- 444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:15:49.67 ID:U1go06C3o
- も愛読書の一つである。
- 445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 09:29:35.14 ID:U1go06C3o
- これも今以て愛読してゐる。
- 446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:38:22.57 ID:U1go06C3o
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 10:52:08.13 ID:U1go06C3o
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 11:07:07.04 ID:U1go06C3o
- だから人の事は笑へない。
- 449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 12:57:13.39 ID:U1go06C3o
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 15:56:08.79 ID:U1go06C3o
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:18:02.61 ID:U1go06C3o
- トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。
- 452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:31:48.18 ID:U1go06C3o
- 私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。
- 453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:45:34.72 ID:U1go06C3o
- デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』
- 454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 16:59:20.27 ID:U1go06C3o
- ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。
- 455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:13:05.78 ID:U1go06C3o
- 今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』
- 456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:26:51.54 ID:U1go06C3o
- ノ神ヲ乗リ移ラセマス。
- 457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:40:38.36 ID:U1go06C3o
- イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。
- 458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 17:54:24.70 ID:U1go06C3o
- ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』
- 459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:08:10.28 ID:U1go06C3o
- ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。
- 460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:21:55.76 ID:U1go06C3o
- オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』
- 461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:35:41.33 ID:U1go06C3o
- ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。
- 462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:49:27.36 ID:U1go06C3o
- ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。
- 463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 19:03:12.91 ID:U1go06C3o
- コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。
- 464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 20:51:25.18 ID:HV1fOXB+O
- テエブルの前の子供椅子の上に上半身を見せた前の子供。
- 465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:05:11.20 ID:HV1fOXB+O
- 子供はにこにこ笑いながら、首を振ったり手を挙げたりしている。
- 466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:18:56.92 ID:HV1fOXB+O
- 子供の後ろには何も見えない。
- 467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:32:44.35 ID:HV1fOXB+O
- そこへいつか薔薇の花が一つずつ静かに落ちはじめる。
- 468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 21:46:30.26 ID:HV1fOXB+O
- 斜めに見える自動計算器。
- 469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:00:16.23 ID:HV1fOXB+O
- 計算器の前には手が二つしきりなしに動いている。
- 470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:14:01.82 ID:HV1fOXB+O
- 勿論女の手に違いない。
- 471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:27:47.61 ID:HV1fOXB+O
- それから絶えず開かれる抽斗。
- 472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:41:33.34 ID:HV1fOXB+O
- 抽斗の中は銭ばかりである。
- 473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 22:55:19.02 ID:HV1fOXB+O
- 前のカッフェの飾り窓。
- 474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:09:04.76 ID:HV1fOXB+O
- 少年の姿も変りはない。
- 475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:22:50.37 ID:HV1fOXB+O
- しばらくの後、少年は徐ろに振り返り、足早にこちらへ歩いて来る。
- 476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:36:36.05 ID:HV1fOXB+O
- が、顔ばかりになった時、ちょっと立ちどまって何かを見る。
- 477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 23:50:21.68 ID:HV1fOXB+O
- 人だかりのまん中に立った糶り商人。
- 478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:04:11.38 ID:gzBSja6Zd
- 彼は呉服ものをひろげた中に立ち、一本の帯をふりながら、熱心に人だかりに呼びかけている。
- 479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:17:57.52 ID:gzBSja6Zd
- 彼の手に持った一本の帯。
- 480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:31:43.13 ID:gzBSja6Zd
- 帯は前後左右に振られながら、片はしを二三尺現している。
- 481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:45:28.73 ID:gzBSja6Zd
- 帯の模様は廓大した雪片。
- 482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 00:59:14.30 ID:gzBSja6Zd
- 雪片は次第にまわりながら、くるくる帯の外へも落ちはじめる。
- 483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:13:00.00 ID:gzBSja6Zd
- シャツやズボン下を吊った下に婆さんが一人行火に当っている。
- 484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:26:45.83 ID:gzBSja6Zd
- 婆さんの前にもメリヤス類。
- 485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:40:31.76 ID:gzBSja6Zd
- 毛糸の編みものも交っていないことはない。
- 486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 01:54:18.59 ID:gzBSja6Zd
- 行火の裾には黒猫が一匹時々前足を嘗めている。
- 487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:08:04.28 ID:gzBSja6Zd
- 行火の裾に坐っている黒猫。
- 488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:21:49.97 ID:gzBSja6Zd
- 左に少年の下半身も見える。
- 489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:35:35.78 ID:gzBSja6Zd
- 黒猫も始めは変りはない。
- 490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 02:49:21.49 ID:gzBSja6Zd
- しかしいつか頭の上に流蘇の長いトルコ帽をかぶっている。
- 491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:03:07.12 ID:gzBSja6Zd
- 「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」
- 492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:16:52.89 ID:gzBSja6Zd
- 「僕は帽子さえ買えないんだよ。」
- 493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:30:38.84 ID:gzBSja6Zd
- メリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。
- 494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:44:24.91 ID:gzBSja6Zd
- 少年は涙を流しはじめる。
- 495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 03:58:10.62 ID:gzBSja6Zd
- が、やっと気をとり直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩きはじめる。
- 496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:11:56.23 ID:gzBSja6Zd
- かすかに星のかがやいた夕空。
- 497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:25:41.85 ID:gzBSja6Zd
- そこへ大きい顔が一つおのずからぼんやりと浮かんで来る。
- 498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:39:27.42 ID:gzBSja6Zd
- 顔は少年の父親らしい。
- 499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 04:53:13.10 ID:gzBSja6Zd
- 愛情はこもっているものの、何か無限にもの悲しい表情。
- 500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:06:58.86 ID:gzBSja6Zd
- しかしこの顔もしばらくの後、霧のようにどこかへ消えてしまう。
- 501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:20:44.48 ID:gzBSja6Zd
- 少年はこちらへ後ろを見せたまま、この往来を歩いて行く。
- 502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:34:30.13 ID:gzBSja6Zd
- 往来は余り人通りはない。
- 503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 05:48:16.18 ID:gzBSja6Zd
- 少年の後ろから歩いて行く男。
- 504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:02:02.01 ID:gzBSja6Zd
- この男はちょっと振り返り、マスクをかけた顔を見せる。
- 505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:15:47.59 ID:gzBSja6Zd
- 少年は一度も後ろを見ない。
- 506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:29:33.22 ID:gzBSja6Zd
- 斜めに見た格子戸造りの家の外部。
- 507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:43:19.12 ID:gzBSja6Zd
- 家の前には人力車が三台後ろ向きに止まっている。
- 508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 06:57:05.19 ID:gzBSja6Zd
- 人通りはやはり沢山ない。
- 509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:10:50.99 ID:gzBSja6Zd
- 角隠しをつけた花嫁が一人、何人かの人々と一しょに格子戸を出、静かに前の人力車に乗る。
- 510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:24:36.59 ID:gzBSja6Zd
- 人力車は三台とも人を乗せると、花嫁を先に走って行く。
- 511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 07:38:22.31 ID:gzBSja6Zd
- そのあとから少年の後ろ姿。
- 512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:11:28.52 ID:Ff+of+1t1
- 「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」
- 513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:25:30.42 ID:Ff+of+1t1
- これもこの板を前後にしたサンドウィッチ・マンに変ってしまう。
- 514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:39:31.29 ID:Ff+of+1t1
- サンドウィッチ・マンは年をとっているものの、どこか仲店を歩いていた、都会人らしい紳士に似ている。
- 515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 11:53:31.98 ID:Ff+of+1t1
- 後ろは前よりも人通りは多い、いろいろの店の並んだ往来。
- 516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 12:07:32.63 ID:Ff+of+1t1
- 少年はそこを通りかかり、サンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚貰って行く。
- 517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 12:21:30.52 ID:Ff+of+1t1
- 松葉杖をついた癈兵が一人ゆっくりと向うへ歩いて行く。
- 518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 12:35:31.24 ID:Ff+of+1t1
- 癈兵はいつか駝鳥に変っている。
- 519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 12:49:31.99 ID:Ff+of+1t1
- が、しばらく歩いて行くうちにまた癈兵になってしまう。
- 520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:03:32.69 ID:Ff+of+1t1
- 横町の角にはポストが一つ。
- 521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:17:33.33 ID:Ff+of+1t1
- いつ何時死ぬかも知れない。」
- 522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:43:39.21 ID:Ff+of+1t1
- 往来の角に立っているポスト。
- 523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 13:57:41.48 ID:Ff+of+1t1
- ポストはいつか透明になり、無数の手紙の折り重なった円筒の内部を現して見せる。
- 524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:11:42.29 ID:Ff+of+1t1
- が、見る見る前のようにただのポストに変ってしまう。
- 525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:25:43.81 ID:Ff+of+1t1
- ポストの後ろには暗のあるばかり。
- 526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:39:44.47 ID:Ff+of+1t1
- お座敷へ出る芸者が二人ある御神燈のともった格子戸を出、静かにこちらへ歩いて来る。
- 527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 14:53:45.21 ID:Ff+of+1t1
- どちらも何の表情も見せない。
- 528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:07:46.01 ID:Ff+of+1t1
- 二人の芸者の通りすぎた後、向うへ歩いて行く少年の姿。
- 529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:21:46.76 ID:Ff+of+1t1
- 少年はちょっとふり返って見る。
- 530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:35:47.61 ID:Ff+of+1t1
- 前よりもさらに寂しい表情。
- 531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 15:49:48.66 ID:Ff+of+1t1
- 少年はだんだん小さくなって行く。
- 532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:03:49.35 ID:Ff+of+1t1
- そこへ向うに立っていた、背の低い声色遣いが一人やはりこちらへ歩いて来る。
- 533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:17:50.05 ID:Ff+of+1t1
- 彼の目のあたりへ近づいたのを見ると、どこか少年に似ていないことはない。
- 534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:31:50.88 ID:Ff+of+1t1
- 大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。
- 535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:45:51.75 ID:Ff+of+1t1
- かもじの中には「すき毛入り前髪立て」
- 536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 16:59:52.52 ID:Ff+of+1t1
- と書いた札も下っている。
- 537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:13:53.19 ID:Ff+of+1t1
- これ等のかもじはいつの間にか理髪店の棒に変ってしまう。
- 538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:27:54.27 ID:Ff+of+1t1
- 棒の後ろにも暗のあるばかり。
- 539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:41:54.97 ID:Ff+of+1t1
- 大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。
- 540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 17:55:55.99 ID:Ff+of+1t1
- 少年はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗いて見る。
- 541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:09:56.82 ID:Ff+of+1t1
- 頭を刈っている男の横顔。
- 542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:23:57.67 ID:Ff+of+1t1
- これもしばらくたった後、大きい針金の環にぶら下げた何本かのかもじに変ってしまう。
- 543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:37:58.47 ID:Ff+of+1t1
- かもじの中に下った札が一枚。
- 544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 18:51:59.11 ID:Ff+of+1t1
- 札には今度は「入れ毛」
- 545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:05:59.76 ID:Ff+of+1t1
- セセッション風に出来上った病院。
- 546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:20:00.43 ID:Ff+of+1t1
- 少年はこちらから歩み寄り、石の階段を登って行く、しかし戸の中へはいったと思うと、すぐにまた階段を下って来る。
- 547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:34:01.20 ID:Ff+of+1t1
- 少年の左へ行った後、病院は静かにこちらへ近づき、とうとう玄関だけになってしまう。
- 548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 19:48:02.20 ID:Ff+of+1t1
- その硝子戸を押しあけて外へ出て来る看護婦が一人。
- 549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:02:03.97 ID:Ff+of+1t1
- 看護婦は玄関に佇んだまま、何か遠いものを眺めている。
- 550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:16:04.78 ID:Ff+of+1t1
- 膝の上に組んだ看護婦の両手。
- 551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:30:05.95 ID:Ff+of+1t1
- 前になった左の手には婚約の指環が一つはまっている。
- 552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:44:06.78 ID:Ff+of+1t1
- が、指環はおのずから急に下へ落ちてしまう。
- 553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 20:58:08.22 ID:Ff+of+1t1
- わずかに空を残したコンクリイトの塀。
- 554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:12:09.42 ID:Ff+of+1t1
- これもおのずから透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿を現して見せる。
- 555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:26:10.17 ID:Ff+of+1t1
- それからまた塀全体は操り人形の舞台に変ってしまう。
- 556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:40:11.04 ID:Ff+of+1t1
- 舞台はとにかく西洋じみた室内。
- 557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 21:54:11.97 ID:Ff+of+1t1
- そこに西洋人の人形が一つ怯ず怯ずあたりを窺っている。
- 558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:08:13.14 ID:Ff+of+1t1
- 覆面をかけているのを見ると、この室へ忍びこんだ盗人らしい。
- 559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:22:14.48 ID:Ff+of+1t1
- 室の隅には金庫が一つ。
- 560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:36:31.55 ID:gzBSja6Zd
- 金庫をこじあけている西洋人の人形。
- 561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 22:50:47.44 ID:gzBSja6Zd
- ただしこの人形の手足についた、細い糸も何本かははっきりと見える。……
- 562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:05:03.04 ID:gzBSja6Zd
- 斜めに見た前のコンクリイトの塀。
- 563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:19:18.76 ID:gzBSja6Zd
- 塀はもう何も現していない。
- 564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:33:34.41 ID:gzBSja6Zd
- そこを通りすぎる少年の影。
- 565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/23(土) 23:47:50.55 ID:gzBSja6Zd
- そのあとから今度は背むしの影。
- 566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:02:13.68 ID:4fVyp//Rd
- 前から斜めに見おろした往来。
- 567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:16:29.43 ID:4fVyp//Rd
- 往来の上には落ち葉が一枚風に吹かれてまわっている。
- 568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:30:45.04 ID:4fVyp//Rd
- そこへまた舞い下って来る前よりも小さい落葉が一枚。
- 569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:45:00.76 ID:4fVyp//Rd
- 最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って来る。
- 570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 00:59:16.73 ID:4fVyp//Rd
- 紙は生憎引き裂かれているらしい。
- 571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:13:32.48 ID:4fVyp//Rd
- が、はっきりと見えるのは「生活、正月号」
- 572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:27:48.28 ID:4fVyp//Rd
- と云う初号活字である。
- 573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:42:04.43 ID:4fVyp//Rd
- 大きい常磐木の下にあるベンチ。
- 574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 01:56:20.34 ID:4fVyp//Rd
- 木々の向うに見えているのは前の池の一部らしい。
- 575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:10:36.14 ID:4fVyp//Rd
- 少年はそこへ歩み寄り、がっかりしたように腰をかける。
- 576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:24:51.80 ID:4fVyp//Rd
- それから涙を拭いはじめる。
- 577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:39:07.45 ID:4fVyp//Rd
- すると前の背むしが一人やはりベンチへ来て腰をかける。
- 578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 02:53:23.19 ID:4fVyp//Rd
- 時々風に揺れる後ろの常磐木。
- 579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:07:39.60 ID:4fVyp//Rd
- 少年はふと背むしを見つめる。
- 580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:21:55.24 ID:4fVyp//Rd
- が、背むしはふり返りもしない。
- 581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:36:10.81 ID:4fVyp//Rd
- のみならず懐から焼き芋を出し、がつがつしているように食いはじめる。
- 582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 03:50:26.75 ID:4fVyp//Rd
- 焼き芋を食っている背むしの顔。
- 583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:04:42.92 ID:4fVyp//Rd
- 前の常磐木のかげにあるベンチ。
- 584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:18:58.58 ID:4fVyp//Rd
- 背むしはやはり焼き芋を食っている。
- 585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:33:14.31 ID:4fVyp//Rd
- 少年はやっと立ち上り、頭を垂れてどこかへ歩いて行く。
- 586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 04:47:30.03 ID:4fVyp//Rd
- 斜めに上から見おろしたベンチ。
- 587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:01:45.87 ID:4fVyp//Rd
- 板を透かしたベンチの上には蟇口が一つ残っている。
- 588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:16:01.56 ID:4fVyp//Rd
- すると誰かの手が一つそっとその蟇口をとり上げてしまう。
- 589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:30:17.17 ID:4fVyp//Rd
- 前の常磐木のかげにあるベンチ。
- 590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:44:32.80 ID:4fVyp//Rd
- ただし今度は斜めになっている。
- 591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 05:58:48.75 ID:4fVyp//Rd
- ベンチの上には背むしが一人蟇口の中を検べている。
- 592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:13:04.43 ID:4fVyp//Rd
- そのうちにいつか背むしの左右に背むしが何人も現れはじめ、とうとうしまいにはベンチの上は背むしばかりになってしまう。
- 593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:27:20.20 ID:4fVyp//Rd
- しかも彼等は同じようにそれぞれ皆熱心に蟇口の中を検べている。
- 594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:41:35.89 ID:4fVyp//Rd
- 互に何か話し合いながら。
- 595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 06:55:51.56 ID:4fVyp//Rd
- 男女の写真が何枚もそれぞれ額縁にはいって懸っている。
- 596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:10:07.29 ID:4fVyp//Rd
- が、それ等の男女の顔もいつか老人に変ってしまう。
- 597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:24:23.10 ID:4fVyp//Rd
- しかしその中にたった一枚、フロック・コオトに勲章をつけた、顋髭のある老人の半身だけは変らない。
- 598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:38:38.99 ID:4fVyp//Rd
- ただその顔はいつの間にか前の背むしの顔になっている。
- 599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 07:52:54.70 ID:4fVyp//Rd
- 少年はその下を歩いて行く。
- 600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:07:11.01 ID:4fVyp//Rd
- 観音堂の上には三日月が一つ。
- 601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:21:26.93 ID:4fVyp//Rd
- ただし扉はしまっている。
- 602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:35:42.53 ID:4fVyp//Rd
- その前に礼拝している何人かの人々。
- 603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 08:49:58.14 ID:4fVyp//Rd
- 少年はそこへ歩みより、こちらへ後ろを見せたまま、ちょっと観音堂を仰いで見る。
- 604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:04:14.00 ID:4fVyp//Rd
- それから突然こちらを向き、さっさと斜めに歩いて行ってしまう。
- 605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:18:30.00 ID:4fVyp//Rd
- 斜めに上から見おろした、大きい長方形の手水鉢。
- 606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:32:45.93 ID:4fVyp//Rd
- 柄杓が何本も浮かんだ水には火かげもちらちら映っている。
- 607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 09:47:01.72 ID:4fVyp//Rd
- そこへまた映って来る、憔悴し切った少年の顔。
- 608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 13:54:01.54 ID:6fiO94iPX
- 前の石燈籠の下部の後ろ。
- 609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:08:32.33 ID:6fiO94iPX
- 男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。
- 610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:23:02.84 ID:6fiO94iPX
- もっとも顔だけはこちらを向いていない。
- 611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:37:33.87 ID:6fiO94iPX
- が、静かに振り返ったのを見ると、マスクをかけた前の男である。
- 612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 14:52:04.38 ID:6fiO94iPX
- のみならずその顔もしばらくの後、少年の父親に変ってしまう。
- 613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:06:34.88 ID:6fiO94iPX
- 石燈籠は柱を残したまま、おのずから炎になって燃え上ってしまう。
- 614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:21:05.89 ID:6fiO94iPX
- 炎の下火になった後、そこに開き始める菊の花が一輪。
- 615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:35:36.47 ID:6fiO94iPX
- 菊の花は石燈籠の笠よりも大きい。
- 616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 15:50:07.00 ID:6fiO94iPX
- 少年は前と変りはない。
- 617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:04:38.31 ID:6fiO94iPX
- そこへ帽を目深にかぶった巡査が一人歩みより、少年の肩へ手をかける。
- 618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:19:08.88 ID:6fiO94iPX
- 少年は驚いて立ち上り、何か巡査と話をする。
- 619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:33:39.41 ID:6fiO94iPX
- それから巡査に手を引かれたまま、静かに向うへ歩いて行く。
- 620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 16:48:09.95 ID:6fiO94iPX
- 前の石燈籠の下部の後ろ。
- 621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:02:40.51 ID:6fiO94iPX
- 今度はもう誰もいない。
- 622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:17:11.97 ID:6fiO94iPX
- 大提灯は次第に上へあがり、前のように仲店を見渡すようになる。
- 623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:31:42.51 ID:6fiO94iPX
- ただし大提灯の下部だけは消え失せない。
- 624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 17:46:13.05 ID:6fiO94iPX
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:00:43.58 ID:6fiO94iPX
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:15:16.02 ID:6fiO94iPX
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:29:46.55 ID:6fiO94iPX
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:44:17.04 ID:6fiO94iPX
- なども到底この「西遊記」
- 629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 18:58:47.56 ID:6fiO94iPX
- も愛読書の一つである。
- 630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:13:18.59 ID:6fiO94iPX
- これも今以て愛読してゐる。
- 631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:27:49.16 ID:6fiO94iPX
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:42:19.82 ID:6fiO94iPX
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 19:56:50.43 ID:6fiO94iPX
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:11:21.43 ID:6fiO94iPX
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:25:53.17 ID:6fiO94iPX
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:40:23.83 ID:6fiO94iPX
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 20:54:54.56 ID:6fiO94iPX
- だから人の事は笑へない。
- 638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:09:25.66 ID:6fiO94iPX
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:23:56.27 ID:6fiO94iPX
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:38:26.93 ID:6fiO94iPX
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 21:52:58.16 ID:6fiO94iPX
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:07:28.68 ID:6fiO94iPX
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:21:59.52 ID:6fiO94iPX
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:36:31.02 ID:6fiO94iPX
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 22:51:02.09 ID:6fiO94iPX
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:05:32.66 ID:6fiO94iPX
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:20:03.19 ID:6fiO94iPX
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:34:33.96 ID:6fiO94iPX
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/24(日) 23:49:04.60 ID:6fiO94iPX
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:03:35.43 ID:7CB++zc5U
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:18:05.97 ID:7CB++zc5U
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:32:36.99 ID:7CB++zc5U
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 00:47:08.43 ID:7CB++zc5U
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:01:39.02 ID:7CB++zc5U
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 01:16:10.22 ID:7CB++zc5U
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:22:42.16 ID:ljst/GJT7
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:37:29.32 ID:ljst/GJT7
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 08:52:15.20 ID:ljst/GJT7
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:07:13.00 ID:ljst/GJT7
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:21:58.98 ID:ljst/GJT7
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:36:44.70 ID:ljst/GJT7
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 09:51:30.35 ID:ljst/GJT7
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:06:16.00 ID:ljst/GJT7
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:21:02.05 ID:ljst/GJT7
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:35:48.86 ID:ljst/GJT7
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 10:50:34.62 ID:ljst/GJT7
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:05:20.29 ID:ljst/GJT7
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:20:05.96 ID:ljst/GJT7
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:34:51.62 ID:ljst/GJT7
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 11:49:38.29 ID:ljst/GJT7
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:04:24.10 ID:ljst/GJT7
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:19:09.83 ID:ljst/GJT7
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:33:55.82 ID:ljst/GJT7
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 12:48:42.21 ID:ljst/GJT7
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:03:27.91 ID:ljst/GJT7
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:18:13.58 ID:ljst/GJT7
- 一層これが甚しかつた。
- 677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:32:59.28 ID:ljst/GJT7
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 13:47:45.05 ID:ljst/GJT7
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:02:30.81 ID:ljst/GJT7
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:17:16.47 ID:ljst/GJT7
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:32:02.29 ID:ljst/GJT7
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 14:46:47.97 ID:ljst/GJT7
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:01:34.14 ID:ljst/GJT7
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:18:00.23 ID:ljst/GJT7
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:32:48.37 ID:ljst/GJT7
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 15:47:34.14 ID:ljst/GJT7
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:02:20.20 ID:ljst/GJT7
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:17:05.90 ID:ljst/GJT7
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:31:51.64 ID:ljst/GJT7
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 16:46:37.25 ID:ljst/GJT7
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:01:24.16 ID:ljst/GJT7
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:16:10.40 ID:ljst/GJT7
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:30:56.13 ID:ljst/GJT7
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 17:45:42.71 ID:ljst/GJT7
- 松脂の匂と日の光と、――
- 695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:00:32.83 ID:ljst/GJT7
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:15:21.68 ID:ljst/GJT7
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:30:07.53 ID:A7evjla0j
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:44:53.62 ID:A7evjla0j
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 18:59:39.39 ID:A7evjla0j
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:14:25.04 ID:A7evjla0j
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:29:10.84 ID:A7evjla0j
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:43:56.64 ID:A7evjla0j
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 19:58:42.42 ID:A7evjla0j
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:13:44.88 ID:9jNavkoJj
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:28:45.86 ID:9jNavkoJj
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:43:47.18 ID:9jNavkoJj
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 20:58:48.68 ID:9jNavkoJj
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:13:50.02 ID:9jNavkoJj
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:28:50.73 ID:9jNavkoJj
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:43:51.36 ID:9jNavkoJj
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 21:58:52.03 ID:9jNavkoJj
- (御隠しになつてはいや。
- 712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:13:52.73 ID:9jNavkoJj
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:28:53.85 ID:9jNavkoJj
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:43:54.48 ID:9jNavkoJj
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:58:55.10 ID:9jNavkoJj
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:13:55.93 ID:9jNavkoJj
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:28:56.75 ID:9jNavkoJj
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:43:57.37 ID:9jNavkoJj
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 23:58:58.00 ID:9jNavkoJj
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:14:00.90 ID:nUif67yFf
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:29:01.53 ID:nUif67yFf
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:44:02.13 ID:nUif67yFf
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 00:59:02.83 ID:nUif67yFf
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:14:03.59 ID:nUif67yFf
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:29:04.27 ID:nUif67yFf
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:44:04.92 ID:nUif67yFf
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 01:59:05.55 ID:nUif67yFf
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:14:06.26 ID:nUif67yFf
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:29:07.54 ID:nUif67yFf
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:44:08.19 ID:nUif67yFf
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 02:59:08.77 ID:nUif67yFf
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:14:09.69 ID:nUif67yFf
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:29:10.57 ID:nUif67yFf
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:44:11.72 ID:nUif67yFf
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 03:59:12.53 ID:nUif67yFf
- 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
- 736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:14:13.44 ID:nUif67yFf
- それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
- 737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:29:14.14 ID:nUif67yFf
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:44:15.02 ID:nUif67yFf
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 04:59:16.19 ID:nUif67yFf
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:14:17.24 ID:nUif67yFf
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:29:18.28 ID:nUif67yFf
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:44:19.60 ID:nUif67yFf
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 05:59:20.50 ID:nUif67yFf
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:14:21.48 ID:nUif67yFf
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:29:22.71 ID:nUif67yFf
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:44:23.55 ID:nUif67yFf
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 06:59:24.30 ID:nUif67yFf
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:14:25.22 ID:nUif67yFf
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:29:26.18 ID:nUif67yFf
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:44:26.83 ID:nUif67yFf
- と何時になく厭味を云つた。
- 751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 07:59:27.49 ID:nUif67yFf
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:03:34.51 ID:AEm4y6vsB
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:18:50.55 ID:AEm4y6vsB
- そんな事も口へ出した。
- 754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:34:06.06 ID:AEm4y6vsB
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 10:49:21.60 ID:AEm4y6vsB
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:04:38.38 ID:AEm4y6vsB
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:19:53.96 ID:AEm4y6vsB
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:35:09.89 ID:AEm4y6vsB
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 11:50:25.62 ID:AEm4y6vsB
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:05:42.49 ID:AEm4y6vsB
- と、囁くやうな声で云つた。
- 761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:20:58.29 ID:AEm4y6vsB
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:36:14.27 ID:AEm4y6vsB
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 12:51:30.05 ID:AEm4y6vsB
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:06:46.80 ID:AEm4y6vsB
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:22:02.72 ID:AEm4y6vsB
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:37:19.06 ID:AEm4y6vsB
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 13:52:34.80 ID:AEm4y6vsB
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:07:51.83 ID:AEm4y6vsB
- と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
- 769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:23:07.58 ID:AEm4y6vsB
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:38:23.81 ID:AEm4y6vsB
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 14:53:39.55 ID:AEm4y6vsB
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:08:55.95 ID:AEm4y6vsB
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:24:11.62 ID:AEm4y6vsB
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:39:27.92 ID:AEm4y6vsB
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 15:54:43.88 ID:AEm4y6vsB
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:10:00.63 ID:AEm4y6vsB
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:25:16.64 ID:AEm4y6vsB
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:40:32.88 ID:AEm4y6vsB
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 16:55:48.59 ID:AEm4y6vsB
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:11:04.95 ID:AEm4y6vsB
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:26:20.60 ID:AEm4y6vsB
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:41:36.55 ID:AEm4y6vsB
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 17:56:52.33 ID:AEm4y6vsB
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:12:38.33 ID:AEm4y6vsB
- それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
- 785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:27:54.14 ID:AEm4y6vsB
- が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
- 786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:43:09.76 ID:AEm4y6vsB
- なぞと、考へ考へ話してゐた。
- 787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 19:58:25.39 ID:AEm4y6vsB
- するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
- 788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:13:40.95 ID:AEm4y6vsB
- 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
- 789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:28:56.52 ID:AEm4y6vsB
- 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
- 790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:44:12.02 ID:AEm4y6vsB
- 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
- 791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 20:59:27.66 ID:AEm4y6vsB
- が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
- 792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:14:43.23 ID:AEm4y6vsB
- 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
- 793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:29:58.80 ID:AEm4y6vsB
- 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
- 794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 21:45:14.33 ID:AEm4y6vsB
- 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
- 795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:00:29.83 ID:AEm4y6vsB
- と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
- 796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:15:45.35 ID:AEm4y6vsB
- 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
- 797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:31:00.87 ID:AEm4y6vsB
- 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
- 798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 22:46:16.41 ID:AEm4y6vsB
- その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
- 799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/26(火) 23:01:32.09 ID:AEm4y6vsB
- 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
- 800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:16:13.36 ID:J/VW9ljG0
- 「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
- 801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:31:45.37 ID:Lq9WLMwZf
- 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
- 802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 11:47:16.31 ID:J/VW9ljG0
- が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
- 803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:02:47.01 ID:Lq9WLMwZf
- それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
- 804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:18:17.96 ID:J/VW9ljG0
- その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
- 805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:33:48.78 ID:Lq9WLMwZf
- 彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
- 806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 12:49:19.49 ID:J/VW9ljG0
- 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
- 807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:04:50.08 ID:Lq9WLMwZf
- そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
- 808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:20:21.12 ID:J/VW9ljG0
- 筆の渋る事も再三あつた。
- 809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 13:35:51.89 ID:Lq9WLMwZf
- すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
- 810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 14:51:53.13 ID:J/VW9ljG0
- 松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
- 811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:07:23.84 ID:Lq9WLMwZf
- その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
- 812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:22:54.44 ID:J/VW9ljG0
- 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
- 813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:38:25.08 ID:Lq9WLMwZf
- が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
- 814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 15:53:55.76 ID:J/VW9ljG0
- 「どれ、寝るかな。」――
- 815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:09:26.60 ID:Lq9WLMwZf
- 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
- 816 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:24:57.28 ID:J/VW9ljG0
- 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
- 817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:40:28.01 ID:Lq9WLMwZf
- 「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
- 818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 16:55:58.72 ID:J/VW9ljG0
- 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
- 819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:11:29.37 ID:Lq9WLMwZf
- 照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
- 820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:27:00.17 ID:J/VW9ljG0
- 当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
- 821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:42:30.77 ID:Lq9WLMwZf
- 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
- 822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 17:58:01.50 ID:J/VW9ljG0
- 「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
- 823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:13:32.13 ID:Lq9WLMwZf
- こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
- 824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:29:02.76 ID:J/VW9ljG0
- が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
- 825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 18:44:33.35 ID:Lq9WLMwZf
- 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
- 826 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:00:04.30 ID:J/VW9ljG0
- が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
- 827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:15:35.07 ID:Lq9WLMwZf
- 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
- 828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:31:06.11 ID:J/VW9ljG0
- 彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
- 829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:46:37.21 ID:Lq9WLMwZf
- しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
- 830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 19:56:23.04 ID:J/VW9ljG0
- のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
- 831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:04:08.84 ID:Lq9WLMwZf
- すべてがどの家も変りはなかつた。
- 832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:11:54.52 ID:J/VW9ljG0
- この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
- 833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:19:40.16 ID:Lq9WLMwZf
- が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
- 834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:27:25.97 ID:J/VW9ljG0
- 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
- 835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:35:11.89 ID:Lq9WLMwZf
- 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
- 836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:42:58.07 ID:J/VW9ljG0
- 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
- 837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:50:44.05 ID:Lq9WLMwZf
- 俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
- 838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 20:58:30.17 ID:J/VW9ljG0
- 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
- 839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:06:15.92 ID:Lq9WLMwZf
- 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
- 840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:14:01.63 ID:J/VW9ljG0
- その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
- 841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:21:47.39 ID:Lq9WLMwZf
- 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
- 842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:29:33.15 ID:J/VW9ljG0
- 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
- 843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:37:19.01 ID:Lq9WLMwZf
- 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
- 844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:45:05.15 ID:J/VW9ljG0
- 「どうです、大阪の御生活は?」
- 845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 21:52:50.91 ID:Lq9WLMwZf
- 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
- 846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:00:36.60 ID:J/VW9ljG0
- 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
- 847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:08:22.25 ID:Lq9WLMwZf
- 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
- 848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:16:07.90 ID:J/VW9ljG0
- 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
- 849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:23:53.64 ID:Lq9WLMwZf
- が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
- 850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:31:39.33 ID:J/VW9ljG0
- それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
- 851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:39:25.02 ID:Lq9WLMwZf
- 時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
- 852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:47:10.99 ID:J/VW9ljG0
- その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
- 853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 22:54:56.83 ID:Lq9WLMwZf
- 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
- 854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:02:42.52 ID:J/VW9ljG0
- すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
- 855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:10:28.18 ID:Lq9WLMwZf
- 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
- 856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:18:13.88 ID:J/VW9ljG0
- が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
- 857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:25:59.51 ID:Lq9WLMwZf
- その内に照子が帰つて来た。
- 858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:33:45.14 ID:J/VW9ljG0
- 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
- 859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:41:31.07 ID:Lq9WLMwZf
- 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
- 860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:49:17.20 ID:J/VW9ljG0
- 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
- 861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/27(水) 23:57:03.01 ID:Lq9WLMwZf
- 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
- 862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:04:49.96 ID:BmlO5bsK8
- 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
- 863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:12:35.71 ID:2T4LEQdyY
- 其処へ女中も帰つて来た。
- 864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:20:21.43 ID:BmlO5bsK8
- 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
- 865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:28:07.14 ID:2T4LEQdyY
- 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
- 866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:35:52.81 ID:BmlO5bsK8
- 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
- 867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:43:38.43 ID:2T4LEQdyY
- 「ええ、俊さんだけ。」――
- 868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:51:24.44 ID:BmlO5bsK8
- 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
- 869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 00:59:10.33 ID:2T4LEQdyY
- すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
- 870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:06:56.04 ID:BmlO5bsK8
- その茶も僕が入れたんだ。」
- 871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:14:41.66 ID:2T4LEQdyY
- 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
- 872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:22:27.39 ID:BmlO5bsK8
- が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
- 873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:30:12.99 ID:2T4LEQdyY
- 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
- 874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:37:58.69 ID:BmlO5bsK8
- 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
- 875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:45:44.37 ID:2T4LEQdyY
- 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
- 876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 01:53:30.75 ID:BmlO5bsK8
- 小はこの玉子から」――
- 877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:01:16.60 ID:2T4LEQdyY
- なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
- 878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:09:02.23 ID:BmlO5bsK8
- その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
- 879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:16:47.83 ID:2T4LEQdyY
- 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
- 880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:24:33.46 ID:BmlO5bsK8
- 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
- 881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:32:19.05 ID:2T4LEQdyY
- 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
- 882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:40:04.76 ID:BmlO5bsK8
- 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
- 883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:47:50.77 ID:2T4LEQdyY
- その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
- 884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 02:55:36.79 ID:BmlO5bsK8
- 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
- 885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:03:22.54 ID:2T4LEQdyY
- すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
- 886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:11:08.57 ID:eeoI2zx/p
- それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
- 887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:18:54.66 ID:2T4LEQdyY
- 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
- 888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:26:40.30 ID:eeoI2zx/p
- 「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
- 889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:34:25.97 ID:2T4LEQdyY
- アポロは男ぢやありませんか。」――
- 890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:42:12.19 ID:eeoI2zx/p
- 照子は真面目にこんな事まで云つた。
- 891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:49:57.89 ID:2T4LEQdyY
- 信子はとうとう泊る事になつた。
- 892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 03:57:43.58 ID:eeoI2zx/p
- 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
- 893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:05:29.37 ID:2T4LEQdyY
- それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
- 894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:13:15.49 ID:eeoI2zx/p
- 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
- 895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:21:01.27 ID:2T4LEQdyY
- 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
- 896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:28:46.96 ID:eeoI2zx/p
- 月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
- 897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:36:32.57 ID:2T4LEQdyY
- 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
- 898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:44:18.21 ID:eeoI2zx/p
- 「大へん草が生えてゐるのね。」――
- 899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:52:04.24 ID:2T4LEQdyY
- 信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
- 900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 04:59:49.96 ID:eeoI2zx/p
- が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
- 901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:07:35.82 ID:2T4LEQdyY
- と呟いただけであつた。
- 902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:15:21.81 ID:eeoI2zx/p
- 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
- 903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:23:07.48 ID:2T4LEQdyY
- 鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
- 904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:30:53.12 ID:eeoI2zx/p
- 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
- 905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:38:38.90 ID:2T4LEQdyY
- しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
- 906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:46:24.57 ID:eeoI2zx/p
- 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
- 907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 05:54:10.17 ID:2T4LEQdyY
- 「玉子を人に取られた鶏が。」――
- 908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:01:56.26 ID:eeoI2zx/p
- 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
- 909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:09:42.02 ID:2T4LEQdyY
- 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
- 910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:17:28.41 ID:eeoI2zx/p
- 青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
- 911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:25:14.27 ID:2T4LEQdyY
- 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
- 912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:33:00.01 ID:eeoI2zx/p
- 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
- 913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:40:45.59 ID:2T4LEQdyY
- 午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
- 914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:48:31.38 ID:eeoI2zx/p
- 彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
- 915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 06:56:17.03 ID:2T4LEQdyY
- が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
- 916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:04:02.87 ID:eeoI2zx/p
- 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
- 917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:11:48.67 ID:2T4LEQdyY
- 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
- 918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:19:34.73 ID:eeoI2zx/p
- その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
- 919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:27:20.77 ID:2T4LEQdyY
- が、信子の心は沈んでゐた。
- 920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:35:06.38 ID:eeoI2zx/p
- 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
- 921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:42:52.10 ID:2T4LEQdyY
- それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
- 922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:50:37.79 ID:eeoI2zx/p
- 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
- 923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 07:58:23.54 ID:2T4LEQdyY
- と尋ねてくれたりした。
- 924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:06:09.17 ID:eeoI2zx/p
- しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
- 925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:13:54.92 ID:2T4LEQdyY
- 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
- 926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:21:40.87 ID:eeoI2zx/p
- 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
- 927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:29:26.60 ID:2T4LEQdyY
- とだけしか答へなかつた。
- 928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:37:13.20 ID:eeoI2zx/p
- 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
- 929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:44:58.85 ID:2T4LEQdyY
- さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
- 930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 08:52:44.52 ID:eeoI2zx/p
- 「照さんは幸福ね。」――
- 931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:00:30.25 ID:2T4LEQdyY
- 信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
- 932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:08:15.98 ID:eeoI2zx/p
- が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
- 933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:16:01.76 ID:2T4LEQdyY
- 照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」
- 934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:23:48.09 ID:eeoI2zx/p
- それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
- 935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:31:34.73 ID:2T4LEQdyY
- と、甘えるやうにつけ加へた。
- 936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:39:20.75 ID:eeoI2zx/p
- その言葉がぴしりと信子を打つた。
- 937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:47:06.39 ID:2T4LEQdyY
- 彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」
- 938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 09:54:52.11 ID:eeoI2zx/p
- 問ひ返して、すぐに後悔した。
- 939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:02:37.71 ID:2T4LEQdyY
- 照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
- 940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:10:23.33 ID:eeoI2zx/p
- その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
- 941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:18:09.52 ID:2T4LEQdyY
- 信子は強ひて微笑した。――
- 942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:25:55.54 ID:eeoI2zx/p
- 「さう思はれるだけでも幸福ね。」
- 943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:33:41.19 ID:2T4LEQdyY
- 二人の間には沈黙が来た。
- 944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:41:26.86 ID:eeoI2zx/p
- 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
- 945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:49:12.54 ID:2T4LEQdyY
- 「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
- 946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 10:56:58.21 ID:eeoI2zx/p
- やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
- 947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:04:43.84 ID:2T4LEQdyY
- その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
- 948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:12:29.60 ID:eeoI2zx/p
- 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
- 949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:20:15.30 ID:2T4LEQdyY
- 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
- 950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:28:01.34 ID:eeoI2zx/p
- その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
- 951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:35:48.62 ID:2T4LEQdyY
- 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
- 952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:43:34.22 ID:eeoI2zx/p
- 「泣かなくつたつて好いのよ。」――
- 953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:51:19.85 ID:2T4LEQdyY
- 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
- 954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 11:59:05.66 ID:eeoI2zx/p
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:06:51.34 ID:2T4LEQdyY
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:14:37.03 ID:eeoI2zx/p
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:22:22.75 ID:2T4LEQdyY
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:30:09.02 ID:eeoI2zx/p
- と、低い声で云ひ続けた。
- 959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:37:55.05 ID:2T4LEQdyY
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:45:40.77 ID:eeoI2zx/p
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 12:53:26.37 ID:2T4LEQdyY
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:01:12.04 ID:eeoI2zx/p
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:08:57.73 ID:2T4LEQdyY
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:16:43.39 ID:eeoI2zx/p
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:24:29.16 ID:2T4LEQdyY
- 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
- 966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:32:15.18 ID:eeoI2zx/p
- 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
- 967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:40:00.83 ID:2T4LEQdyY
- 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
- 968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:47:46.71 ID:eeoI2zx/p
- もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
- 969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 13:55:32.33 ID:2T4LEQdyY
- 彼女の心は静かであつた。
- 970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:03:18.01 ID:eeoI2zx/p
- が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
- 971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:11:03.70 ID:2T4LEQdyY
- 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
- 972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:18:49.44 ID:eeoI2zx/p
- しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
- 973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:26:35.19 ID:2T4LEQdyY
- 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
- 974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:34:21.22 ID:eeoI2zx/p
- 信子はふと眼を挙げた。
- 975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:42:06.82 ID:2T4LEQdyY
- その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
- 976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:49:52.47 ID:eeoI2zx/p
- それともこの儘行き違はうか。
- 977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 14:57:38.23 ID:2T4LEQdyY
- 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
- 978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:05:23.87 ID:eeoI2zx/p
- が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
- 979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:13:09.50 ID:2T4LEQdyY
- 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
- 980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:20:55.13 ID:eeoI2zx/p
- さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
- 981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:28:40.97 ID:2T4LEQdyY
- 実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
- 982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:36:27.27 ID:eeoI2zx/p
- が、彼女は又ためらつた。
- 983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:44:13.15 ID:2T4LEQdyY
- その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
- 984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:51:58.89 ID:eeoI2zx/p
- 薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――
- 985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 15:59:44.52 ID:2T4LEQdyY
- 後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
- 986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:07:30.64 ID:eeoI2zx/p
- 信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
- 987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:15:16.29 ID:2T4LEQdyY
- やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
- 988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:23:01.96 ID:eeoI2zx/p
- いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨
- 989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:30:47.77 ID:2T4LEQdyY
- ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」
- 990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:38:33.96 ID:eeoI2zx/p
- の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)
- 991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:46:20.32 ID:2T4LEQdyY
- 戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり
- 992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 16:54:06.41 ID:eeoI2zx/p
- なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく
- 993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:01:52.07 ID:2T4LEQdyY
- 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)
- 994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:09:37.82 ID:eeoI2zx/p
- 片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり
- 995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:17:23.47 ID:2T4LEQdyY
- 恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ
- 996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:25:09.16 ID:eeoI2zx/p
- 麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく
- 997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:32:56.14 ID:2T4LEQdyY
- 五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
- 998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:40:42.34 ID:eeoI2zx/p
- 刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋
- 999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:48:28.01 ID:2T4LEQdyY
- うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ
- 1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 17:56:13.69 ID:eeoI2zx/p
- 桐 (To Signorina Y. Y.)
- 1001 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 18:03:59.30 ID:2T4LEQdyY
- 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける
- 1002 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/28(木) 18:11:45.02 ID:eeoI2zx/p
- 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも
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