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 卍 仏教以外でもよしっ! 卍

1 ::2012/12/24(月) 10:39:59.14 ID:pVWgNl+r.net
 
test

2 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:04:35.66 ID:pVWgNl+r.net
 
652 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/12/24(月) 09:34:00.94 ID:bCG4o6fs

> 「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。

横槍ですけど、成る程そうですか?
「迷う」といふのが、私には理解できませんですね。
お気に触ったのでしたら御免なさいね。

思い返せば、私が仏教に深く傾倒していったのは「生死一如」のフレーズでした。
このフレーズがもしなかったら、私はかくも宗教には関わらんかっただろうね?

私は今、日本経済に関心がありますですが、
この経済にしても虚妄でありますね。
なんの実体もない、それは揺れ動くユラギのようなもんで、これを文字列にした途端に
人の心も揺れ動くのであります。

そして、この揺れ動く様こそ人生なんでしょうね。
空即是色であります。

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」。
                        【梁塵秘抄より】

3 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:06:58.29 ID:pVWgNl+r.net
 
653 名前:644[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 10:24:09.88 ID:oKqbtVGr

> 「迷う」といふのが、私には理解できませんですね
教えを聞いて、その教えを「見解」として持ってしまう、ということです
例えば、仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説きます。
それは、悪を転じて善ならしめんとするためです。
(世俗諦:悪 → 勝義諦:善)
しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、
「見解」として持ってしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、
「善悪」を説いたという理解がないのです。
「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑みます。
そこで大乗になると、「善悪」は、縁起によって生じた虚妄なるもので、それを仮に善悪と仮説したということ、
それは、更なる勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃・戯論寂滅)」へ
至らしめるための教法、筏だったことを明かします。
(世俗諦:善、悪 → 勝義諦:善にもあらず、悪にもあらず)
このように、善にも悪にも偏らないことが中道です。「苦・楽」や「有・無」を代入してもOKです。

ですから、「善・悪」という言葉は、諸仏が用いれば戯論寂滅へ導く方便になりますが、
凡夫が使うと、見解・戯論にもなり得ます。有所得とも言います。

> お気に触ったのでしたら御免なさいね
いえいえ、興味を持って聞いてくださる分には全然大丈夫ですよ

4 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:17:29.89 ID:pVWgNl+r.net
 
644 名前:Classical名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 14:19:47.63 ID:noEr/GcP [1/3]
確かに、究極の勝義から言えば非虚妄非非虚妄ですね…では、そこまで順を追ってそこまで議論を進めます。
まず、部派や実在論者や常見に陥っている者は、「xは常に変わることなくxである」
という、誤った理解に陥っています。虚妄なる法を、虚妄ならざる法だと顛倒している者です。
諸仏は、これを破るために、「それは虚妄であり、xはxであると思ってもいずれ非xになってしまう」と諭します。
これは、世俗的には「虚妄ではない」が真実とされますが、勝義諦としては「虚妄である」となります。
この話には続きがあります。もし、ここで、「虚妄である」と教えを聞いて、
「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。
そこで初めて、諸仏は虚妄、非虚妄、これはどちらも世俗的な真理であり、勝義から見れば非虚妄非非虚妄である、と明かします。
(なぜならば、xは非xに変わると言っても、人々は依然としてそれをxと仮説して意思疎通ができるから)
何を言いたいのかといいますと、「xは常にxだ!」というレベルの者に、「非虚妄非非虚妄」という教えは早すぎます。

別の例で云いますと、十二縁起の順観、「生」を釈尊は 〔 正しからぬ道 〕 とし、逆観の「滅」を 〔 正しい道 〕 としました。

世俗諦:生 → 勝義諦:滅 となります。生を転じて滅にならしめます。
ところが、教えに迷って「滅こそ至高!」と考える者が出てきます。実在の滅を考えてしまいます。
そこで初めて、世俗諦:生、滅 → 勝義諦:不生不滅 という教えが出てくるのです。
「生」と「滅」には「常」と「無常」、「有」と「無」を代入しても同じです。

5 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:19:47.34 ID:pVWgNl+r.net
 
645 名前:Classical名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 14:25:59.23 ID:noEr/GcP [2/3]
ちなみに、私は『中論』13-1は大滝さんの言うように、反対者の偈頌として仮に処理したとしても、
事態はそう大きくは変わらないと思います。
諸仏の言う「虚妄である」は、「虚妄ではない、人は常に人である」という見解を破るための、
方便・仮説・正説となりますが、反対者の言う「虚妄である」は、諸仏の「虚妄である」という
教えを受け取っては、「虚妄こそ真理」というように、教えに迷って言われたものなので、戯論・見解となります。
「虚妄である」という言葉1つをとっても、その発言者がどのような意図で言うのかどうかで、教えにもなれば、戯論にもなります。
諸仏は、「非虚妄非非虚妄」であると知って、「虚妄である」と言います。導くために。

6 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:25:09.76 ID:pVWgNl+r.net
 
622 名前:1/2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 16:58:11.56 ID:lQuvX9hz [1/3]

おじゃます。野暮用で、大変遅くなりました。
急いでますので、中論13章について現在は以下のように把握している、ということで返事代わりにさせてください。

・13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
   それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』

★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。「非虚妄非非虚妄」(四句第4)というべきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が拙劣です。チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?

・13-2『もしも、執着されたものが虚妄ならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。
   ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空であることを明らかにするためである。』

    ★同じく、これが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
     拙劣な編集です。まともなら、誰の偈なのか明解にすべきです。公案集じゃないんだから。

・13―3『もろもろのものについて<自性の無いこと>(無自性)が成立する。なぜなら、それらのものについて変化することがみられるから。
    しかし、それ自体(自性)を有しないものは、(実体として)存在しない。なぜなら、もろもろのものに空性があるから。』

    ★後段を実体としての様相を問うものと解するなら、龍樹の偈として一貫します。
     ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はありません(空観)。
     仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道なのです。
     自性を機能的に定義すれば、自立性・単一性・恒常性であって、「無為法」や「超越主義」は縁起撥無の反仏法としかいえません。

7 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:26:55.06 ID:pVWgNl+r.net
 
623 名前:1/2-2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 17:04:45.23 ID:lQuvX9hz [2/3]
・13-4『もしも、自性を有しないならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はある)。
   もしも、自性を有するならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はない)。』

    ★このように解すると龍樹の偈として一貫します。

・13-5『(実体としての)ものには<変化するという性質>が無い。
    また(実体としての)他のもの(他の状態に達したもの)にも<変化すると言う性質>は適合しない。
    なぜなら、(実体としての)青年は老いることがないし、(実体としての)老いた者も老いるということがないから。』

    ★非無常非恒常(四句第4)が中道示唆です。
    「老いる」は「老いる」ではない、「老いる」そのものがない。ゆえに「老いる」といいます。

・13-6『もしも(実体としての)そのものに<変化するという性質>が有るならば、
    例えば(実体としての)乳そのものが乳であることを捨てないで酪となるであろう。
    また、乳とは異なる何ものか(例えば水)について、(実体としての)それが水であることを捨てないで酪となる、ということがありうるであろう。』

     ★実体のものに<変化するという性質>はありえないのです。

8 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:28:21.53 ID:pVWgNl+r.net
 
624 名前:2/2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 17:11:30.18 ID:lQuvX9hz [3/3]
・13-7『もしもなにか不空(非空)というもの(実体)が有るならば、(その否定としての)空というものが有るであろう。
    しかるに不空(非空)というものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するだろうか。』

    ★空であるとはものではなく様相(方便)です。

・13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
    しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』

    ★この偈は重要です。
     Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
     空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)

     本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。

                                 以上

9 :644:2012/12/24(月) 11:32:06.65 ID:oKqbtVGr.net
>>1
乙です〜
あれ、精神疾患スレってもう2度と書き込めない感じですか?
ちなみに>>1さんは何者…?

10 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 11:45:36.26 ID:pVWgNl+r.net
 
467 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/11/13(火) 09:40:58.10 ID:3ZE7Eotv [1/2]

>諸仏は二諦に依り衆生に説法される

この二締といふのは理論物理学で説明した方が早い。

電車が動いてる(走ってる)状態で、その中におる乗客は果して動いておるだろうか?
アインシュタインはこのようなことを考えた。
電車は動いておったとしても、乗客は停止したまんま。だと理論ではなる。
試しに、
乗客が電車内でジャンプをした場合、もし動いておったのならば、
着地点は後退するだろ?
アインシュタインは、着地点は後退するどころか発地点になることを発見した。
これが相対性理論の基本になるところでつ。

@乗客は動いていない。→これは正解
A第三者からすると、乗客は動いている。→これは正解。

そして・・・
静止しておるはずの第三者が、実は動いておるんですね。
これを発見して、そしてアインシュタインは、こう言うたんでつ。それは、
「あらゆるものは、必ず動態であり静止しておるんものは無い」。これですね。

じつは覚者というもんは、高度は理論物理学をマスターしておったのです。

しかし私が掲示板に、このような事を書いても、
その意味というのがチンプンカンプンののではないですか?
(つづく)

11 ::2012/12/24(月) 12:01:26.92 ID:pVWgNl+r.net
 
>>9 644 さんへ
> あれ、精神疾患スレってもう2度と書き込めない感じですか?

ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!

↑ これが表示されて書き込み出来ないようです
  _  _  _

> ちなみに>>1さんは何者…?

私は小学4年生の頃に
落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来
オカルト原理主義に傾倒している状態の者です

一応、教学として
唯識・根本仏典・中論・般若経などの解説書を読んで
勉強している所です

私の場合は
オカルト原理主義に傾倒している状態なので

仏教スレの偉い先生の方々から
頭ごなしに叩かれている者です

12 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 12:09:51.16 ID:pVWgNl+r.net
 
468 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/11/13(火) 09:42:06.01 ID:3ZE7Eotv [2/2]
(つづき)
実は、相対性理論においても、大学生くらいの学力で本当に理解できるのは10パーセント
くらいだそうです。

つまりそれだけのアタマしかないのは事実であります。
しかしながら・・・
禅者は無意識のうちに宇宙論にまでそれは到達できるのであります。
これがいわゆる多次元論であります。

多次元でモチーフとなるのは、ブラックホールですね。
しかし今の理論物理学は、陰因子を通り越して、それで暗黒物質らしいです。
ここまでくると、私もどうにもなりません。
アタマが狂ってしまいそうです。
そこまでやる必要性はないのです。
相対性理論で充分ですから、これを先ずマスターすることが肝要でしょうね。

13 :虚妄の如く1/3 大滝秀治:2012/12/24(月) 12:12:28.45 ID:JlULTfZr.net
なんや?ややこしいいなw
ん〜〜、身体が二つ欲しいw

>「xは常にxだ!」というレベルの者に、「非虚妄非非虚妄」という教えは早すぎます。
>「虚妄である」という言葉1つをとっても、その発言者がどのような意図で言うのかどうかで、

たしかに相手を見て法を説くということはあると思います。
例えば、中論18‐6では説法シーン毎の待機説法ノウハウマニュアルを開示し、
『もろもろのブッダは(1)「我(アートマン)が有る」と“仮設”し、*←自我を無視する唯物論者用の仮設&仮説法
   (2)「無我(アナートマン)である(我が無い)」とも説き、*←我執者用の「一切内」説法
   (3)また「我なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。』
      *↑無我執者用の説法(無我との「想い」からの解脱Sn.1072)、 四句第4:非有我非無我

 これらはコンサルティングの現場でのコンサルタント用マニュアルです。

14 :644:2012/12/24(月) 12:14:50.07 ID:oKqbtVGr.net
>>11
>↑ これが表示されて書き込み出来ないようです
了解です

>オカルト原理主義に傾倒している状態の者です
そうでしたか。だとすれば、やはり縁起を学ばれて体感されるのがぴったりだと思います。
といっても、私も全然体感できませんけどorz

15 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 12:15:20.83 ID:pVWgNl+r.net
 
472 名前:Classical名無しさん[] 投稿日:2012/11/14(水) 09:59:59.56 ID:NFFH0whw [1/2]

 ,/   ,..:::=ー,..:-=-::、
     (( 、、_/ i'´ / _....,_ `ヽ
  、ヽ ミゞ ゝ ヽ/ ; r','"⌒~^'ー::、
  ''=,ミ -- ' ^ ~ ^ ニ _ ^ヾー-:、 ミ:、
  ∠./,:=ニニ - 二 =ー::、 ^ ミ 、 ー
,.::-=ニ'レ,.:--‐   ー--:: 、ヽ ヽ ミ ヾヽ
/,,.-‐i ;::::::-、  !  .;:::::;;;::;、 ; ヽ  ミ  、ヽ、
〃./'i ,,:=:, 、   _ ,:=::.、  .;   ニ  ヾミ、_
,! i l,γ @> ゙:.  .: k @ ミ:、 .i ,:-'   、^ミ=-
ノ. !,tゞニ彡'ノ : . ^ミ=ニイ、、  彡ソヘ ヾヽヽ、
/. レ   /  :. '-、     :,  / ,ソミ:、 〉 )
  | / /ゝ、_ノ..,)ヽ   、 l  i /ヽヾ j λ
  ! ヘノ/ノ川 !.ヘヾ、ミ、 i  :l  ハノ .)ノ人 ヽ、
   !.i^'=ァ〜'T''⌒ナヾヘ !  i /`´
   ヽ、`l  ;  /,/ / ./ノ
    ヾ、i. ;  〃゙  / ,.ノ'´ ほぉ〜 そうかい ホッホッホッ
      ヾゝi_,ノ   ノ/
      ヽ、_,,../゙          ば〜〜〜〜〜〜かw
                  時空は縁起なんじゃよ

そんなことより、四諦はどーした。

16 :虚妄の如く2/3 大滝秀治:2012/12/24(月) 12:16:55.30 ID:JlULTfZr.net
>>9
ところが中論13章はそういう類の説法マニュアルのシーンを想定したものではありません。

『自性』という重大な根本タームを問題にする以上、まさにプロ同士の激しい哲学的論争の章というべきです。
中論はまさに論戦で海千山千のスコラ部派(説一切有部など)連中をブチ倒すことを直接的な目的で書かれたものです。
そんな“〜という教えは早すぎます”とか、「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です。 
法有論で「自性」を堅く理論構築している知的エリート連中は従順な子供ではないのです。
それどころか、必死であらゆるレトリックを駆使して相手を論破し党派としての優位性を確立しなければならず、
二諦説をストレートにぶち込まなければハナシにならなかったはずです。

ポイントは法有論(自性有り)を破説することですから、自性(svabhāva स्वभाव)批判が中心となります。

<自性・実体がない> → <虚妄である>は空見(中論13-8)です。
縁起しているものは虚妄ではありません。勝義(空)に直指表現はありえません。成立文字はありません。
無自性とは、ものはあるように見えるだけで真実には無いのだ(虚妄)、というような表層的なことを言っているのではないのです。
般若智直覚の空(の如く)である(直接現実:無分別勝義)は、分別知覚の有⇔無の二項相対である(間接現実:分別世俗)とは相が違うのです。

ところが<自性・実体がない> ⇒ <虚妄の如く(←示唆)である>は成立します。
比喩ですから、言語不立の勝義(空)を直指しているわけではないのです。間接現実での示唆なのです。

従って、アタシの掴みは上記>>622->>624や質問箱>>175>>185となります。

17 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 12:20:48.48 ID:pVWgNl+r.net
 
>>13 虚妄の如く1/3 大滝秀治さんへ

いつも有り難う御座います

だけど

世俗の人にも、わかるような文章表現で御願い致します

18 :虚妄の如く3/3 大滝秀治:2012/12/24(月) 12:22:16.76 ID:JlULTfZr.net
>『中論』13-1は大滝さんの言うように、反対者の偈頌として仮に処理したとしても

あまりに拙劣な編集なので、あたしは必ずしもどちらとも言ってません。

・13-1・2の『虚妄である』のままでは、まさに13-8のいう“虚妄である”との『空見』です。
*↑たしかに帰謬論法なら反対者の偈として俎上にあげた、ともみえます。
・しかし、13-2で<「一切は空である」ことを明らかにするため>の文言は『法有論(自性有り)』ではありえず、龍樹の偈と言わざるを得ません。
 となれば13-1も龍樹の偈とするのが自然です(両偈とも「虚妄」です)。
そうなら(1)透徹していない(⇔中論7-34、大智度論初品中十喩釈論第十一、金剛般若経32の仮観と矛盾)と龍樹を批判するか、
         (2)原本がない以上、編集者自身が分かっていないか、誤記か、ということになります。
       
従って、正しくは、
・13-1『「およそ執着されたものは、あたかも虚妄のようである」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
     それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄のようのである。』
・13-2『もしも、執着されたものが虚妄のようならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。
    ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空(の如く)であることを明らかにするためである。』となります。

                                               以上

19 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 12:30:47.83 ID:pVWgNl+r.net
 
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/175

175 名前:大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 18:15:04.08 ID:pVqiw4ZX [2/2]
中論13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
    しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』

    ★この偈は重要です。
     Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
     空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)

     本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。

> 「一切はファンタジー」ってのが、お釈迦さんの喝破の内容なんじゃないかい?

中論13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
   それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』

★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。
「非虚妄(ファンタジー)非非虚妄(ファンタジー)」(四句第4)と示唆べきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。

しかし、編集が極めて拙劣です。誰の偈か明解に編集すべきです。
現に中観派の論師たちでも混乱しています。
チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?

20 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 12:37:00.89 ID:pVWgNl+r.net
 
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/185

185 名前:虚妄の如く 大滝秀治[] 投稿日:2012/12/23(日) 11:28:17.86 ID:5kMRGUZJ

レスありがとうございます。『議論スレなら放っておくつもりでしたが、 質問スレなのでついつい』レス返ししておきます。
休憩中の気休め?wになります。 
> 虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。

そうではありません。虚妄だから言語表現するのです。
『虚妄』論者はすべてを世俗諦(間接現実)でしか見えていない虚妄=物語・ファンタジー・イリュージョンだからこそ、
逆に虚妄だと直接肯定言辞で言語表現してしまうのです。
たとえば、無想家の宝珠や、オイラ氏や、Sn.757にいう『愚者』のようにね(議論スレッド51など)
→まさに虚妄だ、とは『空見』です(中論13-8)。
石飛道子は完全に読み間違っています。

直接現実においては直接肯定的言辞はありえません。
間接現実からは“虚妄の『如く』”(←比喩)、“非虚妄非非虚妄”(←四句第4)、沈黙(維摩など)、気合音(喝〜ツなど)などのスタイルで示唆するしかありません。
これを> 『それはしばしのものでしかない』ゆえに仮設→仮観(中論24-18の趣旨)というのです。
あなたは中論24-18を掴めていない。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はない(空観)からこそ、言語ゲームとしてプレイするのです(中観)。

> 中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」
もしこれが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。

仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道(の如く)なのです。

21 :644:2012/12/24(月) 12:37:31.29 ID:oKqbtVGr.net
>「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です。
うわぁ…この一言は、大滝さんと私の考え方の、大きな違いを表してますね…残念です。

> <虚妄である>は空見(中論13-8)です
「虚妄である」が空見になるかどうかは、言う人の態度によります。

吉蔵の『大乗玄論』の言葉を引用します。
「一往、相対して論ずるなら、常は戯論であり、無常は非戯論である。
また、無常は戯論であり、常は非戯論である。
また、常と無常を倶とすれば戯論である。非常非無常は非戯論である。」
「有所得の四句は並びに(四句すべて)戯論である。
無所得は方便をもって四句を説くため、悉く(四句すべて)非戯論である。
また、これは正説である。」
(常は非虚妄、無常は虚妄と置き変えても同じでしょう。
四句は、虚妄、非虚妄、虚妄非虚妄、非虚妄非非虚妄、ですね)

また、
「五蘊は我意識から生じたものであって、その我意識は真実には虚妄である。
もし種が虚妄であるならば、その芽がどうして真実に存在し得ようか。」
(龍樹「宝行王正論」1−29)
とありますが、「我意識は真実には虚妄である」は、空見ではないでしょう。
「これあるとき、かれある」の「これ」と「かれ」に代入されるものを、虚妄や無自性と言っています。

22 :虚妄の如く 大滝秀治:2012/12/24(月) 12:42:08.66 ID:JlULTfZr.net
>>15

おお懐かしいアインシュタインの肖像ではないか。
それは、以前アタシが投稿したものさw

ところで、アインシュタインもモーツアルトが好きだった。
◆シゲティの演奏:「モーツァルト:ヴァイオリンソナタ K454 変ロ長調」

「音楽再生」http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=628 (Vn)シゲティ (P)セル 1950年代前半録音
を今聴いているが、
シゲティもいいが、ジョージ・セルのピアノがめっちゃイイ!
極めて構成的だが、音の粒立ちが鮮やかで、闊達な推進力がある。
実に偉大な指揮者だったが、指揮者にしておくのはもったいない!w

23 :644:2012/12/24(月) 12:43:27.43 ID:oKqbtVGr.net
>『自性』という重大な根本タームを問題にする以上、まさにプロ同士の激しい哲学的論争の章というべきです

まあ、そういう見方が多いかもしれませんね。中村先生もそう解釈してるように見えます。

>法有論で「自性」を堅く理論構築している知的エリート連中は従順な子供ではないのです。
>それどころか、必死であらゆるレトリックを駆使して相手を論破し党派としての優位性を確立しなければならず、

これは、その通りだと思います。この論争、戯論を鎮めるために、『中論』は書かれたということでしょう。
石飛先生はこれを、「言い争わない論法」と言いますね。「論争(戯論)」を鎮めるための「論争(非戯論)」というところです。

24 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:03:47.04 ID:pVWgNl+r.net
 
>> 「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です

> うわぁ…この一言は、大滝さんと私の考え方の、大きな違いを表してますね…残念です

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm
  _  _  _

中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二

空は則ち説けない!空でなくても説けない!

空、非空は共であろうと共でなかろうと説けない!

但だ仮名を以って説くのみだ!
  _  _  _

中論觀四諦品第二十四

衆因縁より生ずる法を、わたしは即ち是れは空だ!と説いた

何故ならば衆縁が具足、和合して而も物が生ずる!

是の物は衆因縁に属するが故に自性が無い!

自性が無いが故に空である!但だ

衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた!

25 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:11:21.16 ID:pVWgNl+r.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

インドにおける成立と展開

唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで
中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した
そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる

論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した

「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした

「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学的傾向や生物学的傾向を示した

26 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:12:55.85 ID:pVWgNl+r.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku88/B088R001.pdf

異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 絶対不滅・常住不変のアートマン

経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮説する
  _  _  _

チベット仏教ゲルク派
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

「空」の本当の意味を知るには、中観自立論証派と帰謬派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
中観自立論証派と帰謬派の見解の僅かな差を吟味することによって「空」の意味を知ることができるのです

自立論証派と帰謬派の本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です

自立論証派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を
世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します

自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです

27 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:16:12.58 ID:pVWgNl+r.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku90/B090L031.pdf

プラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない

なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している

この実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ

また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

末那識(まなしき)

唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である

睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける

この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

28 :644:2012/12/24(月) 13:18:18.52 ID:oKqbtVGr.net
>般若智直覚の空(の如く)である(直接現実:無分別勝義)は>、分別知覚の有⇔無の二項相対である(間接現実:分別世俗)とは相が違うのです
いえ、二諦は相即します。「世諦即第一義諦」、「生死即涅槃」と言われる所以です。
「諸法(は)実相(である)」と言っても良いでしょう。『大乗玄論』には、
「唯だ一つの実諦なのであるが、方便によって二諦と説く」と説かれます。
石飛先生が、「世俗諦も第一義諦もすべて地続きの地平である」
「世俗諦を超えたところに第一義諦があると思うのは、やはりどこかに誤解があるだろう。」と仰る通りです。

> <虚妄の如く(←示唆)である>は成立します。比喩ですから
直喩だけではなく、隠喩というものがあるでしょう…。どちらも喩えです。
また、大滝さんは「虚妄」という言葉に「虚妄」という意味を読み取っているように見えます。
「如来は常をとり去るために無常を説くのであり、これは無常(そのもの)を謂うのではない。
実(体性)をとり去るために空と言うのであり、これは空(そのもの)を謂うのではない。
我をとり去るために無我と言うのであり、これは無我(そのもの)を謂うのではない。
相をとり去るために寂滅と言うのであり、これは寂滅(そのもの)を謂うのではない。」
(僧肇、『注維摩』大正蔵38巻、353頁)
虚妄は、有自性を破るための方便・仮説ですよ。

29 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:40:45.80 ID:pVWgNl+r.net
 
> 世俗諦を超えたところに第一義諦があると思うのは、やはりどこかに誤解があるだろう

↑ この説明よりも
  _  _  _

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm

中論觀法品第十八

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する!
  _  _  _

『何か常識的なものを超えて解脱に至る!』

↑ この説明の方が、わかりやすいような気がします

30 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 13:56:41.93 ID:pVWgNl+r.net
 
>>29 の補足です

第六表面意識による

「〔有ではない無でもない〕と言う哲学的な思惟に固執してはいけない」

「何か常識的な概念などに固執してはいけない」
  _  _  _

末那識(まなしき)とか阿頼耶識(あらやしき)などに働き掛けて

「常識的な概念の殻を打ち破って涅槃に逝けっ!」

と言うような意味合いです

31 :644:2012/12/24(月) 14:05:46.40 ID:oKqbtVGr.net
>>29
>>30
独り言のようにも見えるので、返信しないでもよいですか…w

32 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 14:10:24.36 ID:pVWgNl+r.net
 
>>30 の補足です

(自性)自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです

それ自体の側に「自性のような何かがある」と思い込んで執着している心の働きです

この何かに執着している心の働きを

末那識(まなしき)とか阿頼耶識(あらやしき)などに働き掛けて

「〔何かについての思い込みの〕殻を打ち破って涅槃に逝けっ!」

と言うような意味合いです

33 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 14:12:57.78 ID:pVWgNl+r.net
 
>>31 さんへ
> 独り言のようにも見えるので、返信しないでもよいですか…w

どちらでも OK です

34 :644:2012/12/24(月) 14:15:40.68 ID:oKqbtVGr.net
>>33

了解です。私は唯識はあんまり分からないので、ちょっとずつ勉強していこうと思います。

では、そろそろ遊びに行ってまいります〜

35 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 14:27:19.74 ID:pVWgNl+r.net
 
>>34 さんへ
> 遊びに行ってまいります〜

↑ 気をつけて行ってらっしゃいませ〜
  _  _  _

礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ

普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ

地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ

  屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮

36 :◇SyuumatuOzyaru:2012/12/24(月) 15:19:04.28 ID:pVWgNl+r.net
 
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121224/amr12122412070001-n1.htm

マヤ遺跡の神殿が一部破損 観光客、禁止区域立ち入りか 2012.12.24 12:06 [南北アメリカ]

中米グアテマラ北部にあるマヤ文明のティカル遺跡で、
マヤ文明の暦が「新たな時代」に切り替わるのを祝うため
今月20〜21日に行われた式典に多数の観光客が訪れた後、
神殿など歴史的建造物の一部が破損しているのが確認された。

観光客が立ち入り禁止の階段を上ったことなどが原因とみられ、
ティカル国立公園の管理担当者は「公園のルールを守ってほしい」と訴えている。
有力紙プレンサリブレが23日までに伝えた。

同紙によると、
主要な建造物の「2号神殿」や「南のアクロポリス」で、
階段の角が削れるなどの被害が見つかった。

ティカルの式典にはペレスモリナ大統領らが出席。
遺跡をライトアップし、
先住民の宗教指導者が「新時代」の到来を祝うなどした。
大災害や人類滅亡などの終末論と関連づけて世界的な関心が集まり、
6千人以上の観光客が訪れた。(共同)

37 :◇SyuumatuOzyaru:2012/12/24(月) 15:24:57.40 ID:pVWgNl+r.net
 
640 名前:Classical名無しさん[] 投稿日:2012/12/22(土) 20:53:07.00 ID:pDvw9941
マスコミは騒ぐのが仕事、トラブルイベント飯の種、興味関心注目を集める為なら誇張扇動捏造もする
十分なリテラシー教育を受けていない者ほど偏向思想デマ宗教エセ科学に感化洗脳される
史上最大のトンデモ本は新約聖書/感情自己責任論
  _  _  _

机先生と、隠居先生

ここの場所を見つける事

出来るかしら? おじゃる?

38 :◇SyuumatuOzyaru:2012/12/24(月) 15:39:32.86 ID:pVWgNl+r.net
 
http://www.47news.jp/medical/2012/12/65.php

宮崎の病院で集団感染 ノロウイルス6人死亡、入院患者5人重症 2012/12/24 12:46 【宮崎日日新聞】

宮崎県は23日、
日南市南郷町の医療法人春光会東病院(加藤久仁彦院長、64床)でノロウイルスによる感染性胃腸炎が集団発生し、
14〜22日に78〜88歳の男性入院患者6人=いずれも日南市=が死亡したと発表した。
同病院が県に死亡者の報告をしたのは5人目が亡くなった後の22日午前で、1人目の死亡から8日後だった。
このほか76〜90歳の入院患者5人が重症で、酸素吸入の措置を受けている。
県は医療機関や社会福祉施設などにあらためて感染予防策の徹底を呼び掛けている。
県によると、県内での死亡例は2010年12月以来で、今季の集団感染による死者数としては全国で最多。
同病院は17日から外来診療を休診している…

39 :虚妄論はポア思想直結1/2 大滝秀治:2012/12/24(月) 15:42:53.52 ID:JlULTfZr.net
>>21
アタシの定義では、およそ妄想分別が言語に表れる場合のその語や文章・指示する言語論理を『戯語』『戯論』と言っています。
>吉蔵の『大乗玄論』の言葉

上記の吉蔵の言語論理全体(これがまさに戯論ですがw)の中で、間接現実からの直接現実“示唆”という機能で見る限り、
唯一四句第4『非常非無常』だけが非戯論といえます。
間接現実で両端否定形式で言語矛盾を相殺している非二項相対であること、
また直接現実の直指表現(空は表現できない)ではないからです。
他の四句第1〜3は分別戯論です。

>『無所得は方便をもって四句を説くため、悉く(四句すべて)非戯論である。 また、これは正説である。』
>「虚妄である」が空見になるかどうかは、言う人の態度によります。

吉蔵は“方便云々”といいますが主観目的で論理の性格を左右すべきではありません。
上記は正説ではありません。吉蔵は誤っています。
主観的な目的(無所得・利他意識)が正しいならば、すべてが戯論でなくなるというのは、ご都合主義発想と批判されるべきです。
妄想分別はあくまで分別戯論です。

これら発想は、オウムのポア思想とおなじく、“方便”で“虚妄”の人間を殺してもカルマ(業)を軽くする善行だという論理に直結します。
アタシが『虚妄』論(空観)に反対し、『虚妄の如く』論(仮観)を重視するのは、
チベット密教や真言密教の空=虚妄だから殺戮OK!に反対するのと同じ動機からです。
密教タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗) 五仏の法則(真言宗の金剛経などにも見られる教え)を
仏教議論スレッド49を中心に批判してきたのもあまりに仮設『仮観』(中論24-18)を軽く見がちだからです。
悪手空観であって中観ではありえません。

40 :虚妄論はポア思想直結2/2 大滝秀治:2012/12/24(月) 15:48:06.24 ID:JlULTfZr.net
>「五蘊は我意識から生じたものであって、その我意識は真実には虚妄である。
>もし種が虚妄であるならば、その芽がどうして真実に存在し得ようか。」 (龍樹「宝行王正論」1−29)
>「我意識は真実には虚妄である」は、空見ではないでしょう。

空見です。
もし「宝行王正論」が龍樹の著作なら、龍樹は誤っています。
「真実」は戯語です。真⇔偽の相対は中道ではありません。相対の仮設語(中論24-18参照)です。
ついでに23-2(真実)、24-8・9・10(真理)も誤りです。

それこそ、よく使用される『真如』=“真の如く”、『如来』=“(彼岸から)来るが如く”←仮観というように表現べきです。
間接現実からの比喩による直接現実(中道)示唆だからです。

「虚妄」も戯語です。虚⇔実の相対は中道ではありません。
この文章そのものが空見です。

ついに龍樹は透徹していなかった、というべきです。
中論は全面改訂を必要とします。

まあ、自家薬籠中のものにすれば、いかに勝れたポンコツ筏でも、捨てるのが当然でしょう。

41 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 15:54:31.29 ID:pVWgNl+r.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE

天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」

天台宗の教理を通して、中観思想を理解しようとする際には、注意が必要である

慧文禅師に始まる天台宗では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)による漢訳『中論』の、第24章18詩である

「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)

における「空」「仮」「中」を、それぞれ別々の真理(諦)と捉え(「空諦」「仮諦」「中諦」)、
この文を、その「三諦」を説いているものとして「三諦偈」と呼ぶ

ここでは
「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、その「空観」と「仮観」の対立から

「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、あるいは
これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる

42 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 16:00:40.28 ID:pVWgNl+r.net
 
>>41 の続き

『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、
全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、
同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、
対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、ましてや、
「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、
上記の捉え方は、端的に言って、解釈としては、明確に誤りである。

(ちなみに、三論宗の宗祖である嘉祥大師吉蔵もまた、
(全面的ではないにしろ)こうした「三諦」の解釈を承認していた。)

こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない

(実際、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、
「空」という概念もまた「非空」なる諸々の概念と相互依存的に成り立っているとも見ることができるし、
「空」概念の実体視や、そこへの執着を避けるためには、
「空」概念もまた相対化されるべき対象になるわけで、そういった点では発想としては間違っていないし、
冗長ではあるものの、丁寧にもう一歩踏み進んだものだとも言える)

が、少なくとも、『中論』の正確な理解や、
その主旨である「縁起」「無自性」の正確な読み取りを考える上では、
確実に妨げになるということだけは、踏まえておいてもらいたい。

43 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 17:28:47.49 ID:JVdy0bSi.net
反日石破は官僚の犬!
【円安】 自民党の石破茂幹事長、適度な円相場「1ドル=85〜90円ぐらい」★3
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356127992/
財務省のとあるデータでは
円相場は87円位が「財務省にとって」都合よくてそこらへんに収めたいらしい。

許すな!!

44 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 17:39:27.84 ID:pVWgNl+r.net
 
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20121224-OYS1T00272.htm

ノロウイルス集団感染か、日南の病院で患者6人死亡 2012年12月24日 読売新聞

宮崎県は23日、
同県日南市南郷町東町の医療法人春光しゅんこう会「東ひがし病院」で、
入院患者や病院職員ら計44人が嘔吐おうとや下痢などの症状を訴え、
うち78〜88歳の男性患者計6人が死亡、
76〜90歳の男女の患者計5人が重症と発表した。
現在入院中の患者5人からノロウイルスが検出され、
同県はノロウイルスによる感染性胃腸炎が原因とみて調べている。
同県によると、ノロウイルスが原因とみられる集団感染による死者数としては、
全国で今季最多という。

45 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 17:46:39.15 ID:pVWgNl+r.net
 
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121224/edc12122417130000-n1.htm

心病む教員、5200人 原因は多忙や保護者対応 11年度文科省調査 2012.12.24 17:13

2011年度にうつ病などの精神疾患で休職した公立小中高校などの教員は
前年度より133人少ない5274人だったことが24日
文部科学省の調査で分かった
2年連続の減少だが
調査を始めた1979年度の約8倍で
依然として深刻な状況が続いている

46 :二相の相即 大滝秀治:2012/12/24(月) 17:57:23.50 ID:JlULTfZr.net
>>28
>二諦は相即します

当然です→中論25-19。
それは、分別相(仮観:色)と無分別相(空観:空)の二相<色即是空>を、
覚者にとっては無分別の分別(中観)として相即する<空即是色>、ということです。
凡人と覚者を同じには扱えません。

二相の相即を体得できないから、たとえば坐るのです。
『二相の相即的実践』はアタシのキーワードです(仏教議論スレッド47>>244)。

ちなみに『諦』が真理を意味するなら、第一義“諦”の語は誤っています。
だからアタシは、「間接現実」「直接現実」と言い換えています。

仏法の仏法たるゆえんは“縁起”です。
縁起の現実は事実であって、理性による分別判断(→真理)ではないからです。
縁起の現実に、・分別知覚・記憶・判断を通す「間接現実」と、
       ・無分別智(般若智)直覚による「直接現実」の様相を観ます。

47 :戯論寂滅? 大滝秀治:2012/12/24(月) 18:03:17.09 ID:JlULTfZr.net
>大滝さんは「虚妄」という言葉に「虚妄」という意味を読み取っているように見えます。

インターネットというバーチャル空観を含む間接現実は、
まさに二項相対の言語ゲームの世界<一切は言語的存在であり、意味的存在である>ですから
当然「虚妄」という意味をとります。
そうでなければ娑婆では慶安に暮らせません。白痴入院とか生活保護では、娑婆では大迷惑です。
しかし、直接現実は、一切は空(の如く)であり、
無意味・無価値・無実体・無相・無矛盾・無想・無分別の中道=時空際断(の如く)です。


上記僧肇、『注維摩』の趣旨は戯論寂滅(中論25-15→25-16:Sn.1072参照)のコンセプト(『〜をとり去るために』)ですが、
残念ながらこれはダメでしょうw
<毒(言語論理←戯論)をもって毒(言語論理←戯論)を制する>ことは不可能です。
それ自体が毒(間接現実)に他なりません。

たとえば、あなたは、
・『飛ぶ矢は、飛ばず』(ゼノンのパラドックス)
・『去るものは、去らず』(龍樹)
・『龍馬がゆく』(大滝秀治)
これらの文言を@寂滅(“『〜をとり去る』:僧肇:『有自性を破るため』)させ、且つA涅槃へ導くことなどできますか?
オイラ氏に何度も“範例”の提示をお願いしているのですが、逃げておられますw

やはり、大死一番! 分別知(間接現実)から⇒無分別智直覚(直接現実)への飛翔(ジャンプ!)が必要です。
そのための四諦『八正道』でしょう。

以上

48 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 18:10:53.20 ID:pVWgNl+r.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

輪廻にある存在と涅槃との間には

わずかな違いすら存在しない

涅槃と輪廻にある存在との間には

わずかな違いすら存在しない(中論25-19)

49 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 18:15:10.16 ID:pVWgNl+r.net
 
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/244

244 :2/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:22:46.57 ID:sYGvmiW3

で、実践ですが
「坐水月道場(色即是空) 修空華万行(空即是色)」
⇒<出世間のまなざしで、世間の只中で慶安に遊ぶ(生きる)>ですから
坐るときも、日常の仕事も遊びもエッチも、釜ヶ崎でも、TPOが変るだけで、同じです
変えようがありません

即ち、<二相の実践的相即>(*←アタシのキーワード!:中論25-19)です
 *但し!一即多とか、法界は一味だ(>>78)とかの華厳的思想→不二一元論などの、あんなチンケ思想ではありません

生きる(存在)は遊びですから、慈悲とか功徳とか回向だとかの、肛門が痒くなりそうな構えて御立派で御大層な意識なんて
まるでありません
やりたいようにやっているだけですよ
ただ、煩悩あればこその「遊び」ですから、“二念を継がず”は意識しています

最終的には、もうそろそろいいかなと思ったときは、周囲に迷惑をかけないためにも
山中で断食で変相(ゲームオーバー)することに憧れています
龍樹や空海さんやジャイナ教の真似ですけどねw

熊やカラスなどの餌として役立てばいい
そうです、『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』!
ガンジスの川辺でくたばっているオヤジなんか『なんてダンディな奴だ。』!(藤原新也「メメント・モリ」p20,22、28)
めっちゃんこカッコよくて、このオヤジに満腔の共感あるのみです

50 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 18:25:13.54 ID:pVWgNl+r.net
 
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

1072

ウバシーヴァよ

あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて

その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人

かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう

51 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 18:41:45.47 ID:pVWgNl+r.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

涅槃は存在でも、まったく存在しないものでもないものだ
と言われる
もし存在と、まったく存在しないものとが証明されるなら
このことも証明されるであろう(中論25-15)

もし涅槃が
存在でも、まったく存在しないものでもないのだとして
「存在でも、まったく存在しないものでもない」というのは
誰によって説かれたものなのだろうか(中論25-16)

涅槃へと行かれてしまった後
勝利を得た征服者は存在しているとも言われず
まったく存在していないとも言われない
その両方だとも言われず、両方でもないとも言われない(中論25-17)

したがって勝利を得た者がその状態でとどまるとき
彼は存在しているとも言われず
まったく存在していないとも言われない
その両方だとも言われず、両方でもないとも言われない(中論25-18)

52 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 19:18:27.77 ID:pVWgNl+r.net
 
http://sankei.jp.msn.com/science/news/121224/scn12122418080002-n1.htm

日本海側、大雪警戒を 気象庁、北日本で 2012.12.24 18:07

気象庁は24日
強い冬型の気圧配置の影響で25〜26日にかけて北日本(北海道、東北)の日本海側と北陸を中心に大雪の恐れがあるとして
交通機関の乱れや雪崩に警戒するよう呼び掛けた。北日本では非常に強い風も吹き、暴風雪になる所もある

気象庁によると、25〜26日にかけ、前線を伴った低気圧が発達しながら北日本を通過し、冬型の気圧配置が強まる見通し

25日午後6時までに予想される24時間降雪量は、いずれも多い所で東北と北陸40センチ、北海道30センチ、近畿20センチ

26日は北日本と北陸でさらに増える見込み

53 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 19:55:11.54 ID:pVWgNl+r.net
 
全国地震動予測地図 - 地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/p_hyoka04.htm
http://www.jishin.go.jp/main/p_hyoka04_jishindou.htm
http://www.jishin.go.jp/main/chousa/12_yosokuchizu/index.htm

http://www.jishin.go.jp/main/chousa/12_yosokuchizu/2012hikaku.pdf
都道府県庁所在地の市役所(東京は都庁)及び
北海道の総合振興局・振興局庁舎付近(庁舎位置を含むメッシュの中心位置)において
今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率(平均ケース) (PDF 73 KB)

54 :644:2012/12/24(月) 20:24:56.70 ID:EeX5Oijs.net
>もし「宝行王正論」が龍樹の著作なら、龍樹は誤っています。
>僧肇、『注維摩』の趣旨は…(中略)…残念ながらこれはダメでしょうw
>上記は正説ではありません。吉蔵は誤っています
わろたw 大滝さんははじめっから伝統説、というのかな。
テキストに書いてあることを書いてある通りに理解するんじゃなくて、
持論をまず正しいという前提にテキストを利用するってタイプだったんだね
それなら、やっぱり質問スレに書き込むべきじゃないと思うよ

>アタシの定義では
ほら、やっぱりきた!言葉の中に、意味を一意に定めて定義しちゃってるでしょ?
中村先生もそう、空=非有非無って定義しちゃうんだよなぁ、そういう西洋的な文献学の方法がまずいのに
「去りつつあるもの」という言葉の中に「去る作用」という意味を与えて定義するなって龍樹も言ってるじゃ〜ん
それは、一切の言語活動を破壊するよ

> <毒(言語論理←戯論)をもって毒(言語論理←戯論)を制する>ことは不可能です
まじすか。じゃあ、釈尊とか諸仏の説法は全部、戯論ってこと?

>これらの文言を@寂滅(“『〜をとり去る』:僧肇:『有自性を破るため』)させ、且つA涅槃へ導くことなどできますか?
「xです」という教えを受け取る者が、「なるほどxこそ真理!」と、見解として持ってしまう限り、大滝さんの言うように、無理ですねぇ
教えを説く者に方便があっても、教えを受け取る者が無方便では、教えは教えにならない、と吉蔵が言っている通りですね

>分別知(間接現実)から⇒無分別智直覚(直接現実)への飛翔(ジャンプ!)が必要です
この辺り、字面だけ見ると、そんなに間違ったことは言ってないんですけどねぇ…

55 :Classical名無しさん:2012/12/24(月) 20:45:11.96 ID:pVWgNl+r.net
 
>>32 の続き

(自性)自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです

この何かに執着している心の働き

これに対して

【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

795
(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる
かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない
かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない

56 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 08:19:05.67 ID:0nrPHox4.net
 
普礼真言/オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ

  屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮

題目って真言の事ですよね?
  _  _  _

☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/38

38 名前:金剛界秘密荘厳院平安堂[age] 投稿日:2012/12/06(木) 01:40:27.88 ID:QsYw1Y1v [1/2]

真言を勉強するならば梵語梵字を学習してください
般若心経ももともと梵字で書かれています…
ブラーフミー文字ですね…

「題目」とは日蓮が発明した法華経のタイトル(題目)を唱えること。「南無妙法蓮華経」です
聖書主義と同様の野蛮な原理主義的僧侶だったのでしょう日蓮というのは…

「真言」はもう梵語をそのままです…
これはしっかり梵語や梵字を勉強して下さい
インドのことを昔は婆羅門国と言っていました。その国の言葉なので略して梵語です
バラモン(婆羅門)は、宗教者と学者を兼ねるようなもので、当時は王侯貴族武士を凌ぐ勢力でした

57 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 08:24:11.41 ID:0nrPHox4.net
 
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/42

42 名前:another[] 投稿日:2012/12/06(木) 02:04:19.24 ID:UL1prt7d [5/9]

全然理解してないので安心した
まず空を理解していない
これはしかたない
やはり釈迦の作ったパズルはよくできている
理解しようと努力する人をことごとく跳ね飛ばす
ナーガールジュナが頓珍漢やったからなおさらだなぁ
うーむ、やはり釈迦みたいな対応になっちまうのかぁ

ひとつ教えとくが、釈迦の教えより現代科学のがずっと役にたつ
まぁ釈迦の教えも役に立つ人には大変役にたつものではあるが
修行積めば詐欺にひっかからないとか
うーむ、どうだろう
そんなに涅槃にいくことが必要だろうか

58 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 08:35:27.52 ID:0nrPHox4.net
 
仏教議論スレッド51
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354931980/566

566 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/24(月) 23:25:54.40 ID:4vBNBfuh
臨床精神医学者の宮本忠雄氏は
「真正の宗教体験と統合失調症体験とは相似の形式的構造を持つ」と捉え
両者を下記のように対比している(『』内が、統合失調症の症状)

「見えないものの現存感
→『実体的意識性(隣の部屋に誰もいないのに、誰かがいるという感じ)』
「神の声→『幻聴』」、「見神→『幻視』、「啓示→『思考吹入・妄想着想』
「超越者からの支配感(召命感)→『被影響体験・させられ体験』
(「統合失調症と宗教」(星川、松田著、2010年1月10日創元社発行)より)
  _  _  _

↑ これは隠居先生なのかしら? おじゃる?

59 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 08:47:33.34 ID:0nrPHox4.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

八正道

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

正念
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて
常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」である

正定
正しい集中力(サマーディ)を完成することである
この「正定」と「正念」によってはじめて
「正見」が得られるのである

60 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 08:57:34.18 ID:0nrPHox4.net
 
八正道

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である

このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが

その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである

正見は「四諦の智」といわれる

正見は正道によって実現される

61 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 09:29:58.39 ID:0nrPHox4.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1579_,30,0279a01

T1579_.30.0279a04: 瑜伽師地論卷第一

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1579_,30,0282a12

T1579_.30.0282a13: 云何生。由我愛無問已生故。無始樂著戲
T1579_.30.0282a14: 論因已熏習故。淨不淨業因已熏習故。彼所
T1579_.30.0282a15: 依體由二種因増上力故。從自種子即於
T1579_.30.0282a16: 是處中有異熟無間得生。死生同時如秤
T1579_.30.0282a17: 兩頭低昂時等。而此中有必具諸根。造惡
T1579_.30.0282a18: 業者所得中有。如黒羺光或陰闇夜。作善
T1579_.30.0282a19: 業者所得中有。如白衣光或晴明夜。又此
T1579_.30.0282a20: 中有。是極清淨天眼所行。彼於爾時先我愛
T1579_.30.0282a21: 類不復現行。識已住故。然於境界起戲論
T1579_.30.0282a22: 愛。隨所當生即彼形類中有而生。又中有
T1579_.30.0282a23: 眼猶如天眼無有障礙。唯至生處所趣無
T1579_.30.0282a24: 礙如得神通。亦唯至生處。又由此眼。見
T1579_.30.0282a25: 己同類中有有情。及見自身當所生處。又造
T1579_.30.0282a26: 惡業者。眼視下淨伏面而行。往天趣者上。

62 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 09:33:55.08 ID:0nrPHox4.net
 
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される

そして、やがて

その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る

63 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 09:44:11.60 ID:0nrPHox4.net
 
仏教議論スレッド51
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354931980/541

541 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 21:06:20.88 ID:7VGPl9JU [1/7]

宝珠さんは真面目な人で本当に好感が持てる。
しかし持てない所は業報輪廻説を信奉している所。
釈迦はその説を所持していたかもしれないが輪廻からの脱却を説いている。
業を作らないことに重きを置いている。
それは善因善果、悪因悪果と相入れない。
そこを基軸にしているなら業報輪廻を視野に入れるのは悪くないと思われる。

もう一つは奇跡や神秘体験を信奉している所。
この板にいる以上は誰だって、そのような体験の一つや二つはしている。
しかし、それこそが夢幻であり教義通りその執着から離れている人は
多数いると考えられる。迷妄に囚われることが害悪と経伝から皆、知覚している。
唯物論からの離脱は当然であり仏教は特に精神性に重きを置いてると思う。
そもそも仏教を唯物論と捉えている者が存在するのだろうか?
唯物論からも神秘主義からも離脱すべきではなかろうか?

原罪については、そのようなことに心を痛めることが執着であり、
嗜好を生む苦であり悪にも繋がると思われる。

64 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 09:55:13.18 ID:0nrPHox4.net
 
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

これまであなたたちは
(永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた

世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた

これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない

無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
(それ故に、)あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

65 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 10:10:47.24 ID:0nrPHox4.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bukkyo95/BR095L017.pdf
佛教大学仏教学部論集第95号(2011年3月)
ウダーナヴァルガのギルギット写本
松田和信
udana-B (prose) Udanavarga 26.21,Pali Udana VIII.3 (prose)

比丘たちよ
生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものがある

ところが比丘たちよ
生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものを離れることがある』と私は説く

66 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 10:32:56.28 ID:0nrPHox4.net
 
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

そして、縁起したものを離れることによって

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama01.pdf

何であれ依存的に生じたものは
止むことなく、生ずることなく
滅することなく、永続することなく
来ることなく、去ることなく
区別されることなく、独自の性質がなく

そして概念的構築から解放されていることであると
教えて下さった最善の師である
完全なるブッダにひれ伏します

(中論の献呈歌)

67 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 10:47:13.11 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron01a.htm

中論觀因緣品第一 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯

生でなく、滅でもない

常でなく、断でもない

同一でなく、別異でもない

来ることはなく、出ることもない

能く是の因縁を説いて諸の戯論を滅せられた

わたしは仏に稽首して礼する『是れは諸説中の第一である』と

68 :1/3誤謬空観 大滝秀治:2012/12/25(火) 11:36:08.05 ID:xDZKJo6U.net
>>54
>伝統説、というのかな。 テキストに書いてあることを書いてある通りに理解するんじゃなくて、
>持論をまず正しいという前提にテキストを利用するってタイプ

おやおや、やはりがっかりですねえw 
あなたも『伝統仏教』という妄想に固執する「立場」主義者だったのですか。
「万世一系の天皇」を妄信する伝統主義者と変りませんね。
アタシはいわば「無立場の立場」のフリースタイルですよ(中村元『釈尊の生涯』126頁〜参照)。
ただ、おのずから縁起現象のグラデーション上の様態(個性)と知覚されるに過ぎません。

アタシは、すべて大疑団でキチンと根拠を明示して批判しています。
<自帰依←(大疑団)―フィードバック―(菩提心)→法帰依>⇒(大パリニッバーナ経2-26)の相即的実践(>>46>>49)です。

繰り返しになりますが、知覚され得るコト自体を間接現実で有意味な現象間の<はたらき=機能>が無主体の「仮」=仮観と把握します。
有るように知覚・記憶されるが、幻の「如し」←仮観です。

★幻そのもの・虚妄(空っぽ、ゼロ)では、分別(カウントできる)の誤謬空(中論24-11・12)です。縁起を掴めていないのです★
オウム真理教と同じです(>>39)。

仮説的です。直指肯定ではありませんが、知覚されるそれ自体は間接現実での有意味な現象間の<はたらき=機能>が「仮」となるからです。
   
それはまさに<存在するものでもなく(空観)、存在しないものでもありません(仮観)>⇒中道・中観です(龍樹 中論15-7、25-10)。

69 :2/3如し 大滝秀治:2012/12/25(火) 11:41:50.76 ID:xDZKJo6U.net
>>54
如し=仮観の経典上の根拠を提示しておきます。
・龍樹 中論7-34 『 あたかも幻の“如”く、あたかも夢の“如く”あたかも蜃気楼の“如”くであると、
     譬喩をもって、生起(生)が説かれ、持続(住)が説かれ、消滅(滅)が説かれているのである。』

・金剛般若経 32 『一切有為法 “如”夢幻泡影 “如”露亦“如”電 応作“如”是観』

・相応部教典 22-95 『色は聚沫の如く、受は水泡の如く、想は陽炎の如く、行は芭蕉の如く、 識は幻事の如しとは 日種の〔尊〕の所説なり。』

・大智度論初品中十喩釈論第十一『解了諸法如幻如焰如水中月如虛空如響如犍闥婆城如夢如影如鏡中像如化』
( 諸法(諸の事物)は、 『幻』のようであり、『焔』のようであり、『水中の月』のようであり、『虚空』のようであり、 『響』のようであり、
『ノ闥婆城(つばじょう、蜃気楼)』のようであり、『夢』のようであり、 『影』のようであり、『鏡中の像』のようであり、『化』のようであると、解了する。)

上記のように、すべて仮観で“虚妄のようである”であって、誤謬空観で“虚妄だ”、とは言っていません。

中論13-1・2とは矛盾します。
どうぞ、中論13-1・2のアタシの解釈(>>18)を批判願います。
龍樹ならどう弁解するんでしょうねえw

70 :3/3パラドックス 大滝秀治:2012/12/25(火) 11:47:20.40 ID:xDZKJo6U.net
>>54
>言葉の中に、意味を一意に定めて定義しちゃってるでしょ?

『一意』とやらが?ですが、間接現実の言語ゲームは一切は言語的存在(仮設)であり、意味的存在(仮説)だから当然です。

中村博士の『非有非無』は間接現実からの中道(の如く)の“示唆”の意ですが、
『空=非有非無って定義しちゃうんだよなぁ』とあなたが受け取るのは、あなたが無方便だからです。

>教えを受け取る者が無方便では、教えは教えにならない、と吉蔵が言っている

 吉蔵がそう言っているなら、教えを受け取る側は悟っていないのだから無方便なのは当然であって、
だからこそ、<毒(言語)で毒(言語)を制することが出来るのか>の問いが成立するわけです。

  言語ゲームのパラドックスは般若智で飛翔しなければ調いません。
中論第二章が成功しているとは思えません。

以上
いい気分転換になります。
ありがとう。

では修空華万行に戻ります。

71 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 11:49:01.58 ID:0nrPHox4.net
 
秘密経典理趣経 / 八田幸雄(著) / 184ページ参照

一切如来を揮斫するとは

空の中には自己もなく如来もない

自己と如来を分別する限り

それは空の体得ではない

自己を捨て去るとともに

如来も捨て去って初めて

空 ・ 無自性の世界に没入することができる

自己のすべてを捨て去るとともに

一切如来も捨て去るところに

般若の空が体感会得されるのである

72 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 12:08:38.99 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm

中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二

空は則ち説けない!空でなくても説けない!
空、非空は、共であろうと、共でなかろうと説けない!

但だ仮名を以って説くのみだ!

諸法の実相は性空であるが故に
如来の滅後をこう思惟してはならない

有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と
如来は本より畢竟じて空なのだ!

如来は戯論を過ぎるが、而し
人は戯論を生ずる!

73 :644:2012/12/25(火) 12:10:39.44 ID:melnLHXO.net
まあ、俺も前は大滝さんみたいに考えてたから、気持ちはよく分かるんだけどね
「虚妄の如し=虚妄の如し」、「虚妄=虚妄」、→ 故に「虚妄≠虚妄の如し」、はい矛盾乙
みたいに形式論理学的に考えてた時期が俺にもあったからね

>あなたも『伝統仏教』という妄想に固執する「立場」主義者だったのですか。
>アタシはいわば「無立場の立場」のフリースタイルですよ

俺も権威主義は嫌いだから、あくまで「無立場」から挑んだつもりだけど、
よくよく勉強してみると、自分の考えの方が浅いと判断したから、伝統に乗っかったってタイプだよ
大滝さんみたいに、俺は龍樹やら吉蔵の説を覆せるほどの智恵は俺にはなかったよ

> <存在するものでもなく(空観)、存在しないものでもありません(仮観)>⇒中道・中観です
そうそう、字面だけ見ると俺も全く同じ考えだよ。天台の三諦もこんな感じだよね。

74 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 12:31:50.76 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%AB%E3%81%A1%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86

十縁生句段では、次の入曼荼羅真言具縁品以下で取りあつかう実修部門(事相)に入る準備として、十縁生句観という観想がのべられている

十縁生句とは条件によって生じたものの句という意味である。  善無畏の『大日経疏』には三種をあげる

1).原因・条件によって生ずるものだからそれ自体空であると観想する即空観

2).あらゆる存在するものは心の現われであると観想する即心観

3).心と存在するものとは同一つでもなく別異なものでもないと観想し、なみの者の心のはたらきを離れる即不思議観

以上、入真言門柱心品は密教の主要な教義がほとんど説き尽されている

なお、その教理を貫いて根底にあるのは中観派で説く空の哲学である

75 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 12:40:53.81 ID:0nrPHox4.net
 
大日経住心品講讃 / 松長有慶(著) / 大法輪閣(2010/02) / 270ページ参照

秘密王よ

真言の門において菩薩行を修する諸菩薩は深く十縁生の句を観察し

真言の行に通達して、悟りに到達すべきである

1).即空の幻で 「 五蘊が実在である、と固執する考えを退ける為に 」 十縁生句を観ずる

2).即心の幻で 「 阿頼耶識が実在する、と固執する考えを退ける為に 」 十縁生句を観ずる

3).不可思議の幻で 「 世俗と真理の両世界から離れる為に 」 十縁生句を観ずる

76 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 13:06:23.73 ID:0nrPHox4.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空性の誤解によって
智慧の足りない人間はくじかれてしまうのである
間違った握り方をした蛇や
間違ってかけられた呪文のようにである(中論24-11)

その理由によって
 − つまりダルマは深遠であって理解し学ぶのが難しいということによって −
ブッダはそれを教えられると考えることを断念したのである(中論24-12)

77 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 13:17:20.57 ID:0nrPHox4.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama15.pdf

カーティヤーヤナの説法で説かれる
現実と非現実の認識を通して
勝利を得た者は
「存在(そうである)」と「非存在(そうでない)」
の両方を論破したのである(中論15-7)

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

やって来て、また去るものは
依存的で変化するものである
依存的でなく変化しないもの
それこそが涅槃として説かれたものである(中論25-9)

師は生成と消滅の放棄を説かれた
したがって涅槃は
存在でも、まったく存在しないものでもない
というのが正しい(中論25-10)

涅槃は存在でも、まったく存在しないものでもないものだ
と言われる
もし存在と、まったく存在しないものとが証明されるなら
このことも証明されるであろう(中論25-15)

78 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 19:15:42.22 ID:0nrPHox4.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_,02,0029c01

T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_,02,0032a21

T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。
  _  _  _

T0099_.02.0032a26: 見我異我相在不 ← 我と見るか? 異我か? 相在か? 不か?

我でもない、異我でもない、相在でもない

これが中論の基礎なのか?

79 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 19:20:32.78 ID:0nrPHox4.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_.02.0086c20

T0099_.02.0086c21: 雜阿含經卷第十三

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_.02.0092c11

T0099_.02.0092c12: (三三五) 如是我聞。一時佛住拘留搜調牛聚
T0099_.02.0092c13: 落。爾時世尊告諸比丘。我今當爲汝等説
T0099_.02.0092c14: 法。初中後善。善義善味。純一滿淨。梵行清
T0099_.02.0092c15: 白。所謂第一義空經。諦聽善思。當爲汝
T0099_.02.0092c16: 説。云何爲第一義空經。諸比丘。眼生時無
T0099_.02.0092c17: 有來處。滅時無有去處。如是眼不實而生。
T0099_.02.0092c18: 生已盡滅。有業報而無作者。此陰滅已。異
T0099_.02.0092c19: 陰相續。除俗數法。耳鼻舌身意。亦如是
T0099_.02.0092c20: 説。除俗數法。俗數法者。謂此有故彼有。此
T0099_.02.0092c21: 起故彼起。如無明縁行。行縁識。廣説乃至
T0099_.02.0092c22: 純大苦聚集起。又復此無故彼無。此滅故彼
T0099_.02.0092c23: 滅。無明滅故行滅。行滅故識滅。如是廣説。
T0099_.02.0092c24: 乃至純大苦聚滅。比丘。是名第一義空法
T0099_.02.0092c25: 經。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉
T0099_.02.0092c26: 行

80 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 19:26:54.05 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.daitouryu.com/iyashi/voice/voice03.html

釈迦は「生命の再生」を次のように説く

生命(命体の意)は「火」であり、肉体は「薪(たきぎ/燃料の意)」であるが故に燃えるのである、と説く
薪が尽きれば、炎は消えるが、しかし薪が尽きても、「火種(ひだね)」は残る
残った火種こそ、渇愛による

「異蘊(いおん/「蘊」とは
 五蘊(ごうん)を指し、集合体の意で、現象界の存在の五種の原理をいう
 色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める
 色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識
 一切存在は五蘊から成り立っており、それ故に、「無常」とか「無我」であると説かれる
 一方、異蘊はこれを否定し、墮落に向かわせ
 「慢断(我慢を断滅すること)ぜざるがゆえに、此の蘊を捨て己(おわ)りて異蘊相続して生ず」
 と言う一行が、そもそもの仏道の眼目とするところである)」

である、と
  _  _  _

我慢を断滅する事が出来ない場合は
此の蘊を捨て己(おわ)っても
異蘊相続して
又、次の、この世の生に戻り来る

81 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 19:32:13.52 ID:0nrPHox4.net
 
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html

… 此の陰滅し已らば異陰相續す
俗數法をば除く
耳・鼻・舌・身・意も 亦是の如く説き 俗數法をば除く
俗數法とは 謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す
是の如く廣説し 乃至純大苦聚滅す…

  _  _  _

バラモンの場合は
「アートマンは永久不滅 ・ 常住不変だっ!」

水野訳 SN 877
彼等(諸見者)を依著者なり【と知り】、かの現慧ある牟尼は依著【を知り】
「慧者は《種々の有》に戻り来たらず」【と知りて】、解脱者は諍論に至らず

【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
877
かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って
諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない
思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない

82 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 20:05:19.07 ID:0nrPHox4.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/kiyou31/D031L001.pdf

3.三事和合説と縁起説
SN XII 43 Dukkha, 44 Loko, 45 Natika

眼と色に縁って眼識が生ずる
三事和合が触である
触の縁から受がある
受の縁から渇愛がある

( − これに対して − )

まさにこの渇愛の残りない離貪から取の滅がある
取の滅から有の滅がある
有の滅から生の滅がある
生の滅から老死、愁悲苦憂悩が滅する

このようにこの全ての苦蘊の滅がある

83 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 20:40:38.37 ID:0nrPHox4.net
 
十八界の分類方法

根・境・識の「三事和合」

認識には

対象(境)・認識器官(根)・認識作用(識)

の三つが必要だという考えによります

84 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 21:01:20.14 ID:0nrPHox4.net
 
世界大百科事典内の境の言及

【六境】より
… 仏教では,認識作用の対象(対境)を〈境(きよう)〉という
認識する感覚器官とその働きを合わせて〈根(こん)〉といい
眼(げん)(見る),耳(に)(聞く),鼻(び)(嗅ぐ),舌(ぜつ)(味わう),身(しん)(触れる)
の五根にはそれぞれ対応する対象があり
それらを順次に
色境(しききよう)(いろ・かたち),声境(しようきよう)(声や音),香境(こうきよう)(香りや臭気)
味境(みきよう)(甘・辛などの味),触境(しよくきよう)(触覚による冷・暖,堅・軟など)の五境とする …

〔それぞれの用語は最新の内容であることを保証するものではありません〕

85 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 21:15:59.57 ID:0nrPHox4.net
 
無明 真実相にたいする根源的無知

行 潜在的形成力

識 認識作用

名色 名称と形態

六処 六つの領域 眼 耳 鼻 舌 身 意

蝕 接触

受 感受

愛 妄執 渇愛

取 執着

有 生存

生 生まれること

老死 老い死ぬこと

86 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 21:38:00.22 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

渇愛(タンハー)

『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
苦は、渇愛から生じます。
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)

tanh&acirc;(タンハー)とは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。

渇愛の特色の一つは『punabbhava』。
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです。
たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし、立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます。
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません。
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません。
次から次へと「何かになること」をくり返していきます。

87 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 21:47:16.40 ID:0nrPHox4.net
 
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

想受滅(滅尽定)

(C)覚者は、身行、口行、心行が滅し消えるが、壽と煖はやまず、諸根は浄静である

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は
想受滅(滅尽定)においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのである。覚者は
いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している

88 :Classical名無しさん:2012/12/25(火) 21:53:43.24 ID:0nrPHox4.net
 
tanh&acirc;(タンハー)

tanha^ 最後の a の上に ^ これを乗せる

89 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 08:51:23.43 ID:AN2XSETm.net
 
http://www.nih.go.jp/niid/ja/
国立感染症研究所

http://www.nih.go.jp/niid/ja/idwr-dl.html
2012年第49週(第49号)ダウンロード(33p/944KB)
(12月3日〜12月9日)発生動向総覧 /注目すべき感染症(インフルエンザ)
/病原体情報(感染性胃腸炎ウイルス 2012/13シーズン)〔2012年12月21日発行〕

http://www.nih.go.jp/niid/images/idwr/kanja/idwr2012/idwr2012-49.pdf
2012年第49週(12月3日〜12月9日):通巻第14巻第49号
感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
感染症発生動向調査
感染症週報

90 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 13:11:19.49 ID:mosbLgRb.net
>>1 :?:

 仏教議論スレッド 52 を建てたってください。

 

91 ::2012/12/26(水) 13:35:34.32 ID:AN2XSETm.net
 
ERROR:Lvが足りなくてスレッド立て(ら)れません。

↑ これが表示されてスレ立てられませんでした 屮(_ ._)屮

92 ::2012/12/26(水) 13:46:40.21 ID:AN2XSETm.net
 
私【?】の立てたバージョンです

仏教 議論 33
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1331725479/l50

とりあえず ↑ ここを使って下さいませ

93 ::2012/12/26(水) 13:54:52.30 ID:AN2XSETm.net
 
仏教議論スレッド51
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1354931980

94 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 14:20:39.03 ID:AN2XSETm.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama13.pdf

ブッダは言った

どんなものであれ、見せかけだけのものは偽りである

我々が普通に事象を見るときの

部分に分割でき、原因から成っているよなものは

そのもの固有の性質を持って独立しているように見えるのであるが、それは

見せかけなのであり、したがって、そのように実体的に見えている見かけは

すべて偽りである(中論13-1の意訳)

95 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 14:34:41.59 ID:AN2XSETm.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama13.pdf

そうすると反論者はこう問うだろう

もし見せかけのものがすべて偽りだと言うなら

何が騙しているというのだろうか

本当は存在しない事物が、存在しているようなふりをしているのだろうか

だとしたら、ふりをしている当の本人がどこかに存在しているのではないか

それについてブッダは

個々の事物の存在については

その事物の空性こそが本当の真実だと述べている(中論13-2の意訳)

96 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 15:59:46.34 ID:AN2XSETm.net
 
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/210

210 :神も仏も名無しさん:2012/12/26(水) 14:45:22.95 ID:oKSMmuCM

仏教議論スレッド52
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1356500644/

↑ ID:oKSMmuCM さん有り難う御座います 屮(_ ._)屮

97 :◇ShinryakuOzyaru:2012/12/26(水) 19:26:15.51 ID:AN2XSETm.net
 
おじゃる速報!

http://www.news-postseven.com/archives/20121226_160610.html

ダライ・ラマ 有数の仏教国である日本の若者に平和実現期待 2012.12.26 16:00

ダライ・ラマ:
仮に中国がより開かれた民主国家になれば、多くの問題は解決しやすくなる。
中国では正しい情報が欠けており、日本が悪いとの思い込みがある。
正しい情報こそが正しい判断をもたらす。
中国指導部は現実を直視し、情報公開や法治の徹底を進めるべきだ。

ダライ・ラマ:
私は科学者との対話によって、穏やかな心を得るには仏教的な瞑想が効果的であると知った。
日本は世界有数の仏教国であり、勤勉な民族だ。
若い日本人たちが平和な世界を実現する先頭に立ち、道筋をつけると期待している。

※SAPIO2013年1月号

98 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 19:58:09.41 ID:AN2XSETm.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 / 大蔵出版(2010/05)

カスタマーレビュー
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

パーリ仏典の釈尊の教法を理解することが不可欠

<第三段階:ここから三十七菩提分法が始まり、八正道の五つが実践される聖者の修行>

(3)見道=須陀オン:三結(身見、疑惑、戒取)の断に成功した第一段階の聖者。
この段階は、苦集滅道の四諦の教えを理論的に理解して「遠塵離垢の法眼」を得た瞬間に始まる。

(4)修道=斯陀含(一来)+阿那含(不還)
斯陀含:三結の断と二結(欲貪、瞋恚)の弱に成功した第二段階の聖者。
阿那含:五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)の断に成功した第三段階の聖者。

(5)無学道=阿羅漢:五上分結(色貪、無色貪、我慢、掉挙、無明)の断に成功した最終段階の聖者。

これと同様、『中論』の理解にもパーリ仏典の釈尊の教法を理解が不可欠である。

99 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 20:39:28.87 ID:AN2XSETm.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 94〜95ページ参照

私たちの心に現われてくるすべての現象は

あたかもそのもの自体の側から

それ自体の力によって成立しているかのように見えますが

実は、それ自体の力によって成立しているのではありません

対象物がそれ自体の側から成立しているのかどうか

という究極の存在のしかたを探求してみると

それを調べる人は

すべての現象において

それ自体で成立している生成や消滅を見出すことはできないのです

100 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 21:16:13.25 ID:AN2XSETm.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 95ページ参照

「戯論」とは

心によって作り出された虚構の論議のことであり

妄分別のもととなるものです

無上ヨガタントラの流儀に従って言えば

戯論とは

疎なレベルの一時的な意識が作り出すもの

と考えてよいでしょう

101 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 21:35:46.04 ID:AN2XSETm.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 95〜96ページ参照

所知障を滅する対策としては

顕教と密教に共通する中観派の見解によって戯論を鎮めるだけでは充分ではなく

疎なレベルにおける一時的な意識をも鎮めることが必要となります

非常に微細なレベルの意識を顕現させることによって

疎なレベルの意識の働きを止めて

対象物と、対象物を見る意識を二次元的にとらえるのではなく

一つの味と知ることが必要です

102 :Classical名無しさん:2012/12/26(水) 21:54:24.86 ID:AN2XSETm.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 96ページ参照

… このような境地を達成するには

究極のもののありよう(真如)を理解し

それを顕現することによって

一時的な心の汚れを根こそぎ断滅し

いついかなる時も 空 に一点集中する禅定から起きることなく

空を直接体験として理解する智慧にとどまり続けて …

… このようにして悟りを開かれたのです

103 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 09:17:50.67 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教議論スレッド52
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1356500644/15

15 名前:観察と煩悩 大滝秀治[] 投稿日:2012/12/26(水) 23:52:18.34 ID:UOuKsQJP

>無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する

あなたはどのようにして「観察」する、またはできるのですか?
で、観察した結果はどーでしたか?

『無いものを観察できるはずもなく』の指摘は鋭いニュアンスがあります。

>この深層的な自我心を滅することによって

で、あなたは自我心とやらを『滅する』ことができましたか?

滅(nirodha)は、本来、「制する」(支配・コントロールする)ことであって、日本語の含意での「滅する」ではありませんよね。
四諦は<苦・集・制・道>ということですよね(般若心経・金剛般若経 岩波文庫p31)。
滅と制では「大変な相違」です。

104 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 09:20:15.36 ID:J9mp+3ky.net
 
23 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/27(木) 07:24:07.64 ID:bchEH0Mz [1/2]

般若心経・金剛般若経 岩波文庫p31の記述は間違い

チベット語 'gog pa は インド語ni-√rudh 系の意味なら「止める。塞ぐ。遮断する。せき止める」
√siidh系の意味なら「防ぐ、制す、否定、廃止、遮断する」だから、「制する」はあるとしても「制御・支配・コントロールする」というような意味から遠く
そういった意味はない。

優れたチベット現代語辞典で 'gog を引くと
http://star.aa.tufs.ac.jp/modules/tinycontent2/index.php?id=1
01. (車などを)止める.(ブレーキを)かける.
02. (流れを)止める,せき止める.
03. (〜を)防ぐ,食い止める.
04. (〜を)塞ぐ,閉じる,封じる.
05. (〜を)密封する.
06. (〜を)遮る,遮断する,封鎖する,不通にする.
07. 避妊手術をする.
08. (〜を)取り押さえる,押さえる.
09. (〜を)妨げる.
10. (〜を)拘留する,待たせる.
11. (〜を)撤回させる.
12. (〜を)書き留める,記録する.
13. (期限,時間などを)決める.

最も権威あるチベット語辞典である蔵漢大辞典は以下の通りとされている
蔵漢大辞典の記述1)止める。塞ぐ。遮断する。せき止める 2)反駁する

105 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 09:22:43.38 ID:J9mp+3ky.net
 
24 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/27(木) 07:29:02.48 ID:bchEH0Mz [2/2]
最も収録語数の多いチベット語辞典である蔵英辞典も以下の通り
http://www.nitartha.org/dictionary_search04.html
'gog
/ [p bkag, khog!]; 1) block/ obstruct[ion]; 2) stop/ hinder[ance]; 3) limit/ end; 4) cease[action]; 5) counteract/ resist/ hold out against;
6) detach from; 7) fill/ stuff; 8) [p bkog],, pick/ pull/ out [IW]
'gog - decay, to block, obstruct, ban, break [JV]

'gog - {ppafi; 'gog pa, bkag pa, dgag pa, khog/khogs} va. to block, obstruct, stop, hinder, limit, end, cease. 2) to counteract, detach from each other.
Syn {so sor dgar ba} Syn {'bal ba} 3) to fill, stuff. 4) to pick. 5) to pull out, pluck. 6) to resist. {mi 'gog} unobstructed [ry]

中村先生はあまりチベット語ができないし、拠っているダス蔵英辞典は信用できない。
特にダスの環梵は無根拠に勝手に為されることが多く、注意を要する。

よってその記述は全く信用することができない。

106 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 09:26:32.94 ID:J9mp+3ky.net
 
ID:bchEH0Mz さんへ!、御教示頂き、有り難う御座います
  _  _  _

礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ

普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ

地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ

  屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮   屮(_ ._)屮

107 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 09:46:18.13 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/215

215 :神も仏も名無しさん:2011/12/29(木) 00:51:18.60 ID:Icoe9iDH

水野訳:
877
彼等(諸見者)を依著者なり【と知り】、かの現慧ある牟尼は依著【を知り】、
「慧者は《種々の有》に戻り来たらず」【と知りて】、解脱者は諍論に至らず。
 877(884)
 ete ca 【JatvA】 upanissitAti, 【JatvA】 munI nissaye so vimaMsI ,
 【JatvA】 vimutto na vivAdameti, 《bhavAbhavAya》 na sameti dhIro ti.
  ※墨括弧、二重山括弧は引用者が付加。

やはり中村訳「変化的存在」は、bhava(有、生存、存在)だったか・・。
(862(869)から、少なくとも875(882)から連続した偈と見るべきだし)
各語にしても語順・構文にしても、水野訳の正確さはさすがだ・・。
中村訳からの卒業は急務かもしれん・・・。
水野訳こそ、文庫レベルで出るべきだと思う今日この頃w (片山訳も高額になるだろうしなぁ・・ orz)

108 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 10:02:12.26 ID:J9mp+3ky.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

四諦
苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)

滅諦
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、
いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。
または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。

具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、
すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、
因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、
縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。

道諦
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、
実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。
その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。

109 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 10:32:29.70 ID:J9mp+3ky.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 101ページ参照

「無明」(根源的無知)の障りを持つ者は

再び輪廻に生まれるための

三種の「行」(行為)を実際になし

それらの業によって、生存の場所に赴く

110 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 10:52:17.92 ID:J9mp+3ky.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 107ページ参照

環境世界も生き物も

どちらも五蘊に依存して存在しています

五蘊はどのようにして形成されるのかと言うと

根源的無知が存在していて

それに依存して形成されていきます

この根源的無知、つまり無明は

真実のもののありようを理解することを妨げるものです

そして

三悪趣(地獄界・餓鬼界・動物界)の生を生み出すような

不徳の行ないをなす条件となっている無明

つまり因果の法について無知であるということを意味する無明もあります

111 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 11:03:16.36 ID:J9mp+3ky.net
 
この根源的無知と言うのは ↓ この渇愛(タンハー)の事だと思います
  _  _  _

苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています

タンハーとは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています

渇愛の特色の一つは『punabbhava』
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです

そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

112 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 12:29:26.62 ID:svzsMoyV.net
新参に近いから分からんのだけど、ここって基本的に「?」さんのメモ書き板なん?

113 ::2012/12/27(木) 15:29:42.88 ID:J9mp+3ky.net
 
ここは私が立てたスレだけど

どうぞ自由に御使い下さいませ

ここは規制中の方でも書き込みが出来ますよ

114 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 15:51:46.86 ID:J9mp+3ky.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです。

仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています。

無明から渇愛が生まれるのです。

無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています。

そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって、

無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです。

115 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 16:15:39.53 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/916

916 :神も仏も名無しさん:2012/01/07(土) 08:52:00.09 ID:AFRbqqXP

因みに文は以下の内容です

> 「風断雲を送って峯に帰り去り、月流水に和して橋を過ぎてくる」と詩的に表現いたします
> このように転処の妙をうたい出すのは、禅僧ばかりではありません

ついでに言うと、禅僧の意味を教えてくださいと言えば、普通は答えられますよね
ええ、そうです、禅宗の僧のことです。この際、禅僧の前後の文なんて読まなくても分かる人は分かりますよね
同様に転処の意味を問うているわけでして …

116 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 16:20:36.17 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/921

921 :神も仏も名無しさん:2012/01/07(土) 09:30:46.06 ID:s/M2p71F

答えたのはかつて 【?】 って名のってたヤツだろう。ここでは分からなくても答えるヤツが結構いるんだよ

「転処」の意味はぎりぎりまで追い込まれて、そこで転じて悟る状況といった意味だろう
竿頭一歩、転機、転身といった意味に近く、追いつめられた状況が転じて悟る機会、状況、環境といった面に重心を置いているようだ
具体的に言えば、公案などに書かれる状況がそれ

ここは文字だけでやりとりするところだから、文脈などを察することができない
まして、自分も分からなくて聞いてるわけだから、常識的な言葉ではないわけだろう
それなら、オイラが言うように文脈が分かるように書くのが、当たり前だと思わないか?

例えば君が出した禅僧という例も、現代では通例そうかもしれないが、古典では必ずしもそうでない

T1764_.37.0815c05: 法印權大僧都賢寶 生年六十四
T1764_.37.0815c06: 翌年十二月中出御室御經藏本誂隆禪僧
T1764_.37.0815c07: 都補闕字了頗以證本也可喜可喜

隋の淨影寺慧遠が書いた『大般涅槃經義記』だ。この頃、禅宗はなかったから
君が言う意味ではない。日本でも同様の意味で「禅僧」という言葉が使われたんだよ

これでも君はそう思わないか?

117 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 16:40:11.93 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教 議論スレッド 46
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1347797650/10

10 :神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 15:19:36.51 ID:48z+mTAP
> 自立論証派 ← 例えば 「 火の熱さや燃焼作用が火の自相として認められる 」 とする世俗的な考え方に近い立場
> 帰謬論証派 ← 世俗の次元においても自相(自性)を、否定する

これはゲルク的理解で原義は全くちがう
自立・帰謬という宗派は、特に言葉はインドで使われなかった可能性が高い
そして月称菩薩の中観をチベット的に自立・帰謬で呼び習わすとしても

帰謬派ということはできても帰謬論証派ということはできない
なぜなら、論証したなら主張・見解を持つことになり

そうなると中観の趣旨である四句分別遮断による戯論寂滅への導きという道から逸脱することになるからだ
これはゲルクが批判する離四辺中観に他ならない
離四辺中観こそインド中観の王道を伝えるもので、シナ・日本の中観も基本的に変わらない
一方、特殊な論理学を用いて自立論証を中観に取り入れた清弁菩薩は
だからこそ月称菩薩に批判されたのであって、論証法の違いでも、自相(実在)に対する解釈の違いからでもない
そんな些細なことではなく、中観の本質に関わる問題だから批判されたのに他ならない

ゲルク中観はより自立論証的であり、私見ではよりアビダルマ的で全く中観的ではないと思う

118 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 16:59:51.36 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/602

602 :神も仏も名無しさん:2012/10/15(月) 19:52:16.10 ID:IUghqojJ

中論は、一言で言えば、「般若経」の神秘家が見出した最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物である
龍樹は、「中論」第十八章にあらわれる本のわずかなの数の詩頌だけで、彼の見た最高の真実を語っているのである
鳩摩羅什訳の「大智度論」は、「般若経」の空・無想・無願とおいう三つの三昧を解説するさいに、第7詩頌を引用している
龍樹はこの章において、上述の三つの三昧を念頭に置きながら。瞑想によって得られる神秘直観の世界の真実を記述
しようとしたのではないかと思われる

「中観と空?T」梶山雄一P41(文章の関係で一部前後しました。ご了承ください。)
  _  _  _

滅尽定について書かれている事が、そのまま滅尽定を体験していたことにはなりません。当然ですけど
龍樹の語っている禅定体験が、三解脱門であるというのは、私の意見ではなく上に示した通り石飛道子さんや梶山雄一ら学者の意見です

488にあるように、なぜ上座部の長老が龍樹を批判するのだろうか?という意味での一つのアプリーチと考えてください

つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では、中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です

あくまで、仮説ですが

119 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 17:05:52.34 ID:J9mp+3ky.net
 
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/607

607 :神も仏も名無しさん:2012/10/15(月) 20:18:30.10 ID:H3dblq+S

> つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では
> 中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です
> あくまで、仮説ですが

あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが
以下のようにアーガマ・ニカーヤ、諸論書の説くところではないでしょうか?

PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅
非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地

ただし、前に示したように青目註『中論』は以下のように
滅尽定は心・心所が止滅し、不生不滅の諸法実相で、寂静相で涅槃のようと述べています

これは私の知る限り唯一の例外です。青目註の誤解か
羅什三蔵の誤解、あるいは誤伝と考えるのが妥当と思われます

120 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 17:25:23.88 ID:J9mp+3ky.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm

中論觀法品第十八

一切の心行は皆、是れは虚妄であり虚妄の故に滅するはずだ

諸法の実相は諸の心数法を出て無生、無滅であり涅槃のように寂滅の相だ!と

それ故に

諸の禅定の中で滅尽定(想受滅)を以って第一と為し終に無余涅槃に帰する

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
  _  _  _

煩悩障(自己に対する執着)

所知障(外界のものに対する執着)

の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)

これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し

それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

121 :Classical名無しさん:2012/12/27(木) 17:47:16.10 ID:J9mp+3ky.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 114ページ参照

「行」(行為)が縁となって

「識」(意識)が生存の場所に入る

「識」(意識)が〔そこに〕入ると

「名色」(名称と形態)が形成される

122 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 09:41:31.85 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 114ページ参照

「行為」には

からだによる行ない

言葉による行ない

心による行ない

の三種類があります

行為が終わったあとには

未来にその行為の結果を生むことになる潜在力が残るのです

123 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 10:02:33.86 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 115ページ参照

有為法(ういほう)

無常である故に

因と縁によって

果と報が現れる
  _  _  _

意識の連続体の流れに依存して

将来的に

さまざまな結果を生む力が

蓄積されているのです

習気(潜在力)

124 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 10:10:25.36 ID:uh66oxgJ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92

熏習(くんじゅう)

身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が

起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること

香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う

薫習が身口意に現れたのを「現行法(げんぎょうほう)」といい

真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気(じっけ)」という

このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という

125 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 10:20:49.49 ID:uh66oxgJ.net
 
http://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E8%94%B5

世界大百科事典内の如来蔵の言及

【如来蔵説】より

… 竜樹を祖とする〈中観(ちゆうがん)派〉と弥勒(みろく)を祖とする〈唯識(ゆいしき)派〉とである

後者と深いかかわりをもち,おもに彼らによって継承された思想に,如来蔵説がある

学派としての形成はついになされることはなかったが,その思想は

密教の成立に大いに寄与し,また中国,日本の仏教に深い影響を与えた …

126 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 12:25:40.73 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 119ページ参照

「名色」(名称と形態)が形成されると

「六処」(六つの知覚能力)が生じる

「六処」(六つの知覚能力)に依存して

「触」(接触)が生じる

127 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 12:39:09.18 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 120ページ参照

眼と色(物質的存在)と作意に依存することにより

〔眼の意識が〕生じる

つまり、「名色」(名称と形態)に依存して

〔感覚器官を通して機能する〕意識が生じるのである

128 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 15:11:58.75 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 120〜121ページ参照

眼と色(物質的存在)と意識が

三つ集まると

それが「触」(接触)である

「触」(接触)からすべての「受」が生じる

129 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 15:31:48.55 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 121ページ参照

「触」(接触)から生じた「受」(感覚)が

苦しみであれば、それから離れたいという「欲望」が生じ

幸せであれば、それから離れたくないという「欲望」が生じます

それによって、執着や怒りが起きてくるのです

130 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 15:45:00.67 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 121ページ参照

「受」(感覚)を縁として「愛」(欲望)が〔起こる〕のは

「受」(感覚)を得るために「愛」(欲望)を生じるからである

「愛」(欲望)を持つと、それに執着(「取」)して

四つのものに執着(「取」)するようになる

131 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 15:58:02.04 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 122ページ参照

「四つの執着」(四取)

1).五感の対象物に対する執着(欲取)

2).極端な間違った見解に対する執着(見取)

3).間違った戒律や苦行などを修行することに対する執着(戒禁取)

4).自我に対する執着(我語取)

132 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 16:05:16.15 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 122ページ参照

「取」(執着)が存在すると

執着する人の「有」(生存)が生じる

もし「取」(執着)が存在しなければ

解脱して、輪廻の生存(「有」)は生じない

133 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 16:30:41.37 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 125ページ参照
  _  _  _

自立論証派と唯識派の場合は

人我執を煩悩障

法我執を所知障

と位置づけているけど
  _  _  _

帰謬派の場合は

人我執も法我執も煩悩障であり

所知障はその習気であるとしているため

煩悩障を滅して解脱を得るためには

人無我と法無我を両方理解しなければならない

としています

134 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 16:45:30.41 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 126ページ参照
  _  _  _

「有」(生存)もまた五蘊である

「有」(生存)から「生」(誕生)が生じる

「老死」(老化と死)、心痛

悲嘆の言葉、苦痛
  _  _  _

不愉快、心の動揺などはみな

「生」(誕生)から生じている

このようにして

苦しみばかりの集合体(蘊)が生じる

135 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 17:02:48.68 ID:uh66oxgJ.net
 
チベットの生と死の書 (講談社プラスアルファ文庫) / ソギャル・リンポチェ / 講談社(2010/09)

死の中には「希望」がある
チベット古来の智慧と現代の死や宇宙に関する研究を融合させ導きだした

生と死の本質とは?
悲しみや恐怖を乗り越え、不変なるものを見出す術を提言する書

チベット仏教の師ソギャル・リンポチェが、チベット古来の智慧と
現代の宇宙の本質に関する研究成果を元に「生」とは何か

「死」とは何かを、宗教、国籍を問わず
すべての人が受け入れられるよう解説していく

死にゆく近親者を助けるために
自身の死の恐怖から逃れるために、人はどうすればよいか

その方法を、実践可能な形で提案し
死に対するネガティブなイメージを変えていく
死に怯える現代人の魂を救済し、死に新たな意味を見出す書

カスタマーレビュー
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4062813912/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

136 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 17:19:53.39 ID:uh66oxgJ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

法相宗(ほっそうしゅう)
中国創始の仏教の宗派の一つ
唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して
ヴァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』を
ダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した
唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した
この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として
玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である
そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる

所依経典・論
解深密経
瑜伽師地論
成唯識論

関連項目
唯識派
興福寺
薬師寺
南都六宗

137 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 17:39:13.22 ID:uh66oxgJ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%AB%96%E5%AE%97

三論宗(さんろんしゅう)
仏教の宗派の1つで、インドの龍樹の中論・十二門論
その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする
論宗(経を所依とせず、論を所依とする)である
空を唱える事から、空宗とも言う
その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もある

相承
鳩摩羅什
僧嵩
僧淵
法度
僧朗
僧詮
法朗
吉蔵

所依
三論 中論
十二門論
百論

関連項目
龍樹
提婆
中観派
南都六宗

138 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 17:54:23.57 ID:uh66oxgJ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

東大寺の歴史

教学の場として

東大寺は、六宗兼学の場として世に広く知られるようになった

六宗とはすなわち
法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗のことであり
すべて中国から起こり、伝来したものであった

当時の宗とは、教団というよりは仏教教理の学派に近い
それゆえ、兼学の場ができたとも言える
この様な兼学の形態は、南都の寺院では広く見られたものである

この六宗兼学の場(後、真言、天台加わって八宗兼学の場)の性格は
現在の東大寺でも見られるが、中でも重んじられたのが
本尊の大仏の性格が華厳経の教えに則ったものであることからも分かるように
華厳宗である

139 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 18:33:23.28 ID:uh66oxgJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 132ページ参照

故に、賢者たちは

輪廻の源となる行ないをなさない

賢者たちは真如を見ているからである

〔輪廻の源となる行ないをするのは〕賢くない者たちである

140 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 21:09:23.31 ID:uh66oxgJ.net
 
現代意訳 華厳経 / 原田霊道(著) / 書肆心水(2011/01)

浩澣な華厳経の全体的抄訳版
東洋的存在論=宇宙観の根源華厳経自体による華厳経入門
一即一切、一切即一
哲理の認識と実践の一致とは、宇宙の実体たる仏になるとは何事か
ブッダ自覚の内容の戯曲的表現たる華厳経の梗概

カスタマーレビュー
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141 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 21:33:16.68 ID:uh66oxgJ.net
 
般若心経は間違い? (宝島SUGOI文庫) / アルボムッレ・スマナサーラ / 宝島社(2009/06)

日本で一番知られているお経
写経でもまず第一に選ばれるのが「般若心経」
では、この般若心経って、いったいなんなのでしょうか?
初期仏教のテーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が
ブッダの教えをもとに、般若心経を解読していきます
一行一行、順を追って解説しながら、般若心経のヒミツに迫り
かつてだれも到達したことのない結論に達します
はたして般若心経とはなんなのでしょうか
中国経由で日本にやってきたこのお経が
ここまで裸にされたことは、かつてありませんでした

142 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 21:37:43.17 ID:uh66oxgJ.net
 
はじめに 般若心経は難しい? 「『般若心経』は難しくてわからない」。
そんな声をよく耳にします。
確かに『般若心経』について、いろんな人々が解説していますが、どれもイマイチ納得できません。
皆が好き勝手な解釈をして「私の『般若心経』」を語っています。
それが日本の「『般若心経』文化」になっているのです。
文化を楽しむのはいいことですが、
『般若心経』のことを本当に知りたいと思っている人には困りものですね。
じつは『般若心経』は、わからなくて当たり前なのです。
それはお釈迦さま、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。
『般若心経』をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦さまが涅槃に入られてから数百年後、
その直接の教えから一部を抜き出して、
その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。
それを、私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、
私たちもお釈迦さまが説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。
このジレンマを解決する方法が一つだけあります。
『般若心経』を読んで、わからないところは、直接、お釈迦さまに聞くことです。
お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。
ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。

143 :Classical名無しさん:2012/12/28(金) 21:39:06.59 ID:uh66oxgJ.net
 
完全たる悟りに達していない人々は、
たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、
言葉という不完全なものを駆使して「完全に語る」ことはありえないのです。
正等覚者でない限りは、真理は完全には語れないのです。
どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです。
このようなわけで、ブッダのあとに作られた大乗経典には、
不完全な言葉で表現するというハンディがつきまとっているのです。
その不完全な言葉の前でいくら悩んでも答えは出ません。
しかし、お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、
それまでわからなかった経典の教えもたちどころに理解できるようになります。
『般若心経』の作者がお釈迦さまの教えのどこにヒントを得て、
どんな真理を教えようとしたのか、明確にわかります。
『般若心経』の欠点もわかりにくさも、なるほどと俯瞰できます。
そこではじめて、出口のない「『般若心経』文化」の迷路から抜け出て、『般若心経』をきっかけとして、
お釈迦さまの説かれた真理へとアクセスするための道のりも描けるのです。
本書はそのような狙いで、ブッダの言葉から抽出して書かれました。
『般若心経』を信仰している方々を批判するつもりも、嫌な気持ちにさせるつもりもありません。
これはあくまでも『般若心経』をどう理解すればいいのか、という知的な挑戦なのです。
では、お釈迦さまの教えからみた『般若心経』入門のはじまりはじまり。

144 :Classical名無しさん:2012/12/29(土) 11:10:14.60 ID:G54owQh0.net
 
>>141 >>142 >>143

般若心経は間違い? (宝島SUGOI文庫) / アルボムッレ・スマナサーラ / 宝島社(2009/06)

カスタマーレビュー
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145 :Classical名無しさん:2012/12/29(土) 11:43:51.82 ID:G54owQh0.net
 
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)

苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)

苦という 「 自性が 」 あるわけではない
苦を集める 「 自性が 」 あるわけではない
苦が滅する 「 自性が 」 あるわけではない
苦を滅するための道に 「 自性が 」 あるわけではない

我・我所も無我・無我所も自性ではない
この 「 自性ではない 」 と言う事については分別はない
それ故に

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
諸の禅定の中で滅尽定(想受滅)を以って第一と為し終に無余涅槃に帰す
(八正道)八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する

146 :Classical名無しさん:2012/12/29(土) 12:21:09.11 ID:G54owQh0.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 93ページ参照

般若心経で説く

「 五蘊もなく ( 苦集滅道もなく ) 」

は自性による成立を欠いた空を説明してるものである

と言う事を

正しく見極めなければならない
  _  _  _

自性はなく、それ故に

縁起によって 「 何がしろの事象が 」 現れる

と言う意味です

147 :Classical名無しさん:2012/12/29(土) 12:54:15.11 ID:G54owQh0.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bukkyo95/BR095L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
udana-B (prose) Udanavarga 26.21,Pali Udana VIII.3 (prose)

比丘たちよ
生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものがある

ところが比丘たちよ
生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものを離れることがある』と私は説く
  _  _  _

自性はなく、それ故に

縁起によって 「 何がしろの事象が 」 現れる

縁起によって 「 何がしろの事象が 」 滅する

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する

縁起したものを離れる

と言う意味です

148 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 11:51:48.83 ID:cl1G8qB4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 133ページ参照

輪廻の源は行為であり

賢者たちは輪廻の源になるような行ないをすることはない

行為は無明によってなされるので

賢い人であれば

無明が間違った心であり

その心がとらわれている実体のある存在が

たとえ世俗のレベルにおいても存在していない

ということを知っているからなのです

149 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 12:01:20.21 ID:cl1G8qB4.net
 
チベット仏教ゲルク派
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

自立論証派と帰謬派の本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です

自立論証派は
一般常識的な考え方に近い立場で
世俗の次元では自相(自性)を承認します

帰謬派は
そのような自相(自性)を、世俗の次元でも否定します

自相(自性)とは
「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」
と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです

150 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 12:24:26.31 ID:cl1G8qB4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 135ページ参照

空の見解に確信を得て

その空を直接体験として体感会得すること

が必要とされるのです

151 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 12:46:11.51 ID:cl1G8qB4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 134ページ参照

「無明」(根源的無知)を滅したなら

「行」(行為)などのすべても生じない

「無明」(根源的無知)の断滅は

〔縁起という〕真如を知って

それに瞑想することから〔得られる〕

152 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 13:06:29.20 ID:cl1G8qB4.net
 
ブッダの〈気づき〉の瞑想 / ティク・ナット・ハン / 新泉社(2011/05)

瞑想の基本となる経典サティパッターナ・スッタ(四念処経)を
現代語に全訳し、ていねいに解説する
「瞑想を学びたいと思うなら、この経を基本に据えてください
つねに座右の一冊として、本書をそばに置かれることをお勧めします」

ティク・ナット・ハン
1926年、ヴェトナム中部生まれ。一六歳で出家し禅僧になる
1960年代初めにサイゴンで、仏教の非暴力と慈愛にもとづく社会福祉青年学校
ヴァン・ハン仏教大学、ティエプ・ヒエン(相互存在)教団を創設
1966年、平和使節としてアメリカとヨーロッパを歴訪
アメリカ政府やペンタゴンに平和提案を行う
その中立的な立場からの平和と停戦の主張を理由に
政府から帰国を拒否され、以後フランスでの亡命生活に入る
1982年に南部ボルドーに仏教の僧院・共同体である「プラムヴィレッジ」を開き、難民を受け入れ
生活と一体になった瞑想を実践しつつ、著作・講演活動を通じて仏教の教えと平和の実践を説く

カスタマーレビュー
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153 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 13:33:05.35 ID:cl1G8qB4.net
 
http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_3479.html

四念処(四念住)

1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する
身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている
私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている
私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている
私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質
私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する

2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する
一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている
これら感受作用について観察する

154 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 13:40:16.87 ID:cl1G8qB4.net
 
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する
心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である
私は心が執着している、私は心が欲張っている
私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある
これら心の状態について観察する

4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する
諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている
私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている
私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している
これら意識の対象について観察する

155 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 22:09:34.39 ID:cl1G8qB4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 135ページ参照

それぞれ(の縁起の十二支の、ひとつ前の項目)を滅すれば

それぞれ(その次の項目)が生じることはない

苦しみばかりの集合体(蘊)は

こうして完全に滅せられる

156 :Classical名無しさん:2012/12/30(日) 22:28:41.11 ID:cl1G8qB4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 136ページ参照

「 苦しみの止滅が存在するという真理 」(滅諦)で説かれている

苦しみの止滅の境地とは

煩悩をすべて滅した時に得られる境地であり

煩悩障と所知障をすべて滅した時に得られる涅槃の境地

のことを指してます

157 :Classical名無しさん:2013/01/01(火) 08:52:36.42 ID:peGkT/LO.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 99〜100ページ参照

第二章 輪廻をもたらす十二支の考察 『中論』 第26章

無明(根源的無知)

行(行為)

識(意識)

名色(名称と形態)

六処(六つの知覚能力)

触(接触)

受(感覚)

愛(欲望)

取(執着)

有(生存)

生(誕生)

老死(老化と死)

158 :Classical名無しさん:2013/01/01(火) 16:49:05.52 ID:nEjKVhuS.net

通名の方々:


教師(教員、学校の先生)・大学教授・医師(医者)、看護師・法曹界(弁護士、検察官、裁判官)・内閣総理大臣・閣僚・事務次官、官僚・
地方自治体の長(知事、市長、町長、村長、区長)・地方議員・公務員(国家、地方)・警察・消防・自衛隊・親方日の丸会社・
経団連・経済同友会

焼き肉屋・定食屋・そば屋・うどん屋・お好み焼き屋・寿司屋・ラーメン屋・レストラン(フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、和食・・)・
スーパー・コンビニ・デパート・八百屋・肉屋・魚屋・花屋・酒屋・靴屋・服屋・薬局・寺・喫茶店・パン屋・ケーキ屋・文房具屋・本屋・自転車屋・
眼鏡屋・時計屋・スポーツ品店・楽器屋・床屋・美容室・不動産屋(大家)・消費者金融・映画館・パチンコ屋・カラオケ・競馬・囲碁・将棋・
歌舞伎(古典芸能)・飲食店・性風俗・ホテル・塾・教室(スポーツ、音楽、ピアノ、バレエ、・・・)・予備校・ペットショップ


159 :Classical名無しさん:2013/01/01(火) 16:49:53.56 ID:nEjKVhuS.net

通名の方々:


NHK・TBS(JNN、ニュースバード、NewsBird)・テレビ朝日(ANN)・日本テレビ(NEWS24、NNN24)・フジテレビ(FNN)
共同通信(Kyodo・47News)・時事通信
新聞(朝日新聞・毎日新聞・読売新聞・産経新聞・日本経済新聞・東京新聞・・・)
ラジオ・出版社

芸能人・作詞家・作曲家・演奏家(ミュージシャン)・指揮者・作家・漫画家(アニメ)・ゲーム・映画監督・歌舞伎・美術、建築系・宇宙飛行士・
文化人、知識人・アナウンサー・記者(ジャーナリスト)・気象予報士・テレビに出てる人・
アダルトビデオ(女優、男優、AV)・性風俗・
スポーツ選手(プロ野球、サッカー、テニス、ゴルフ、バレー、水泳、体操、柔道、相撲、ボクシング、プロレス、・・・)
ヤクザ・暴力団・暴走族・同和


160 :Classical名無しさん:2013/01/02(水) 09:11:07.80 ID:PDDE3TMT.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 104〜105ページ参照

「輪廻に生まれる」ということを考えるために
私たちが住んでいるこの環境世界(器世間)が
どのようにして進化してきたかを考えてみましょう

以前に存在した世界が崩壊し尽くす時期(壊劫)が終わると
次に何も存在しない無の時期(空劫)が続き
次の世界が成立する時期(成劫)が登場します
その世界が存続する時期(住劫)が続いて

再び崩壊の時期が訪れて
そこにいた生き物たちと環境世界が消滅する
この四つの時期がそれぞれ非常に長い時間をかけて無限に循環している

世界が生成してくる過程は
空、風、火、水、地という順番である
という仏教的な説は
科学的な説明と同じであり
正しい考えかたとなっています

161 :Classical名無しさん:2013/01/02(水) 10:04:19.35 ID:PDDE3TMT.net
 
ブッダのことば パーリ仏典入門/片山一良/大法輪閣(2008/06)
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『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道/片山一良/大蔵出版(2009/12)
カスタマーレビュー
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162 :Classical名無しさん:2013/01/02(水) 10:21:57.83 ID:PDDE3TMT.net
 
ブッダのことば パーリ仏典入門 151ページ参照

いつの日にか、長い時間が経過して
この世界が破壊するときが現われます
世界が崩壊するとき、生けるものたちは
ほとんどが光音天に転生するものとなります
かれらは、そこで、意から成るもの … などとして
永く、長時にわたりとどまります

いつの日にか、長い時間が経過して
この世界が成立するときが現われます
世界が成立するとき、生けるものたちは
ほとんどが光音天の身から没し
この人間の状態にやって来ます

163 : 忍法帖【Lv=3,xxxP】(2+0:10) :2013/01/02(水) 10:46:37.95 ID:EAaIMVE7.net
////

164 :Classical名無しさん:2013/01/03(木) 19:14:24.10 ID:vn6FIhgM.net
 
http://www.rbbtoday.com/article/2013/01/03/100581.html

しぶんぎ座流星群、今晩が極大 1月3日 2013年1月3日(木) 14時15分

しぶんぎ座流星群が3日の夜半前をピークに出現する。
8月のペルセウス座流星群、
12月のふたご座流星群とともに三大流星群とも呼ばれる。
ウェザーニューズによると、
今晩の天気は、日本海側で雲が広がるが、
太平洋側は流星観測のチャンスがある。

国立天文台によると、
しぶんぎ座流星群には観察しやすい流星が多く出現するいっぽう、
流星の出現数が極大となる時間帯は数時間と短い。
今回の極大は午後10時。午後10時30分頃から月が出現するため条件は悪い。
放射点は北?北東の空、うしかい座とりゅう座の境界付近にある。

165 :Classical名無しさん:2013/01/06(日) 19:35:52.45 ID:ri8t7Gq4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 141ページ参照

私たちは

すべての現象には実体があるというとらわれ(法我執)を土台として

人にも実体があるというとらわれ(人我執)を持っているのです

そのとらわれによって疎なレベルの執着や怒りの心を起こし

あるいは疎なレベルの執着や怒りがなくても

微細なレベルの執着や怒りをたくさん起こして

心が千々に乱れたり

からだと言葉による多くの間違った行動を起こしたりしています

166 :Classical名無しさん:2013/01/07(月) 12:04:44.66 ID:WaIm100B.net
 
説一切有部
『異部宗輪論』によれば、成立は前2世紀の前半である。
その後しばらくして迦多衍尼子(かたえんにし、kātyāyanīputra)が現れ『発智論』(ほっちろん)を著し、
説一切有部の体系を大成したという。
現在では、説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、
その成立はやや遡って、前2世紀後半と考えられている。

説一切有部はゴータマ・ブッダの教説を解釈する過程で、膨大なアビダルマ哲学を完成させた。
『六足論』『発智論』『大毘婆沙論』『顕宗論』は説一切有部の教義を述べた代表的な論書である。
しかしながら、説一切有部が構築した教義は、
ブッダの教えから逸脱したものとして、他の部派や大乗仏教から批判されることになる。

現在有体・過未無体を主張する大衆部(だいしゅぶ)あるいは経量部と対立し、
また西暦紀元前後に興った大乗仏教も”無自性・空”を主張して
説一切有部の説を批判した(このことは大乗仏教が教学を形成する上で大きな働きをした。)
しかし大乗も中観派についで登場した唯識派になると
説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった。

167 :Classical名無しさん:2013/01/07(月) 21:55:16.85 ID:WaIm100B.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 143ページ参照

子宮内にいる胎児にも

「 私 」 という自我に対する我執が存在しているため

執着や怒りの心が生じることがあるのは確かです

子宮内にいる胎児の時から

私たちは無明の力によって行為をなしつつ

存在していることになります

168 :Classical名無しさん:2013/01/07(月) 23:02:22.78 ID:WaIm100B.net
 
ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析 1 / アルボムッレ・スマナサーラ / サンガ 2012/10

「瞑想の分析」の前半となる第七巻では、四十種類にもおよぶサマタ瞑想を徹底解説
禅定や神通など、瞑想によって生じる境地を明解に理解する

スマナサーラ・アルボムッレ
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)大長老。1945年スリランカ生まれ
13歳で出家得度。スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に派遣されて来日
現在は、日本テーラワーダ仏教協会などで初期仏教の伝道、ヴィパッサナー実践の指導に従事

カスタマーレビュー
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169 :Classical名無しさん:2013/01/08(火) 22:25:29.45 ID:jCZEqAt+.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 143ページ参照

「無明」を滅すると

「行為」とその習気の貯蔵場所である

「意識」も滅せられて

それらが生じることはもうなくなります

これは

悪い習気を蓄えさせる無明が滅すれば

悪い習気の置き場所としての意識はなくなる

という意味なのです

170 :Classical名無しさん:2013/01/09(水) 15:02:33.58 ID:4S1eNeN4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照

心の汚れが一時的なものであるということを理解するためには

三毒(無知・怒り・執着)と呼ばれる煩悩は

間違ったものの考えかたに基づいて生じてくるものだということを知ることが必要です

三毒という煩悩の根本には

対象物を実体のあるものとしてとらえてしまう無明が存在していますが

この無明が間違ったものの考えかたに基づいていることを理解できれば

たとえ無明の力が強くても

その間違えを正すことができるのです

171 :Classical名無しさん:2013/01/09(水) 22:51:20.03 ID:4S1eNeN4.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照

無明にも

疎なレベルから微細なレベルまでさまざまなものがありますが

微細なレベルの無明を認識するためには

縁起の見解に基づくものの究極のありようを分析し

理解しなければなりません

そうすることによって

微細なレベルの無明をも滅する努力をすることが重要ですが

言葉で言うのは簡単でも

実際に心で理解するのは容易ではありません

172 :Classical名無しさん:2013/01/09(水) 22:57:00.45 ID:4S1eNeN4.net
 
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

1026

無明が頭であると知れ

明知が

信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて

頭を裂け落とさせるものである

173 :Classical名無しさん:2013/01/10(木) 14:37:43.14 ID:2TZjZxfM.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照

単なる名義上の存在

という意味を本当に理解できれば

私たちの心に現われてくる

まるで実体があるかのようなもののありように

とらわれてしまうことはなくなります

そこで

そのような間違ったものの考えかたをするのは

心は一時的なものであり

それを滅することは可能である

ということが理解できるのであり

それによって

阿羅漢の境地に達することも可能だと理解できるのです

174 :Classical名無しさん:2013/01/10(木) 16:55:24.66 ID:2TZjZxfM.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 89〜94ページ参照

「 滅 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない

「 生 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない

「 来る 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない

「 去る 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない

「 異なる 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない

戯論(けろん)を滅して寂静(じゃくじょう)を示された

175 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 01:56:27.00 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 140ページ参照

私たちが

人間として生まれてきているのは

ある特別な無明によって

人間としての再生を得るための行為をなした結果です

今得ているこの人間のからだは

それをもたらした無明から始まって

死に至るまで続いていきます

176 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 02:01:36.19 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 140〜141ページ参照

そして

朝目が覚めた時

最初に 「 私 」 という自我を実体のあるものとしてとらえてしまう我執が生じて

それが今もずっと存在しているのです

そのような我執は

「 私 」 が依存する土台となっている五蘊などが

あたかも実体のあるものであるかのように心に現れてきて

それに執着することから生じています

177 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 15:26:06.43 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 141ページ参照

五蘊などの現れに執着する心を土台として

五蘊に依存して名前を与えられた自分に対して

「 私 」 という我執が生じることが多いのです

物質的存在などのものに対して

無我の理解を強く維持していれば

その対象物も(自我も)その現われ通りには存在していないのだ

と考えることができますが

そのように考えることは困難であるのがふつうです

178 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 15:29:32.28 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 141ページ参照

たとえ無我の見解を理解しても

それに心がよくなじんでいないと

無我について考える時は

ものはその自性によって成立してしているのではない

と考えることができても

それ以外の時もそのように常に思い続けていることはできません

179 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 18:38:42.32 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 142ページ参照

このように私たちは

縁起の十二支のひとめぐりが最後の項目に至る以前から

無明を心の動機として

一瞬ごとに新たな行ないを次々とたくさんなしているのであり

これらの行ないの習気は

「意識」の上にすべて蓄えられていきます

180 :Classical名無しさん:2013/01/11(金) 18:43:44.96 ID:AJXfoEwF.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 142ページ参照

縁起の十二支がひとめぐりし終わる前に

無明によってなされる行ないはたくさん始まっているのです

私たちの意識の連続体には

無明を動機としてなした行ないが

「因の時の意識」の上に習気として蓄えられていくのです

181 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 16:14:37.77 ID:XhVXrWRo.net
 
「 滅している 」 と言う働きは

「 時の流れ 」 と言う変化に依存して現れている働きなので

それ故に

「 滅している 」 は

それ自体の自性によって成立しているのではない
  _  _  _

「 生まれている 」 と言う働きは

「 時の流れ 」 と言う変化に依存して現れている働きなので

それ故に

「 生まれている 」 は

それ自体の自性によって成立しているのではない

182 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 16:38:42.40 ID:XhVXrWRo.net
 
断見(だんけん)とは

因果の法則を無視して、人が一度死ねば
断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと

原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで
この世界・世間や我の断滅を主張したものである

「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む

人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して
この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう

『長部』では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている

なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から
対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった

183 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 18:00:37.86 ID:XhVXrWRo.net
 
常見(じょうけん)とは

仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のこと

原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで
この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである

「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む

人の一生・人生はこの世の一回限りであるが
死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が
不滅で永続するものであると肯定する見解をいう

『長部』では「我と世界は常住である
死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている

常見の反対語は、断見といい、この世は有限で永遠のものではないという見方であるが
仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした

なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から
対立する見解とは違う次元で、如来我すなわち仏性の常住を説くようになった

184 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 18:18:17.95 ID:XhVXrWRo.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

渇愛(タンハー)

苦は、渇愛から生じます

渇愛は

再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る
という三つの特色をもち

五官を刺激したい、存在したい、壊したい
という三種類の欲で成り立っています

タンハーとは
「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という
生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています

無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています

そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって
無明と渇愛を消していきましょう

というのがお釈迦さまの教えなのです

185 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 18:42:11.90 ID:XhVXrWRo.net
 
渇愛(タンハー)は無明に依存して現れる働きなので

渇愛(タンハー)は

それ自体の自性によって成立しているのではない

それ故に

無明から渇愛(タンハー)が生まれて
そして
無明と渇愛(タンハー)がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出している

そして

渇愛(タンハー)を滅する縁起によって

渇愛(タンハー)を滅する事が出来るのである

186 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 19:28:24.30 ID:XhVXrWRo.net
 
「異なる」とか「同一である」とかは

何かの対象物に依存して比較している働きなので

「何かと何かは異なる」とか「何かと何かは同一である」とかは

それ自体の自性によって成立しているのではない

187 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 19:29:26.59 ID:U6RbixKI.net
切実な経済的な競争がある。
すべてを大上段に構えて語るわけにはいかない。

188 :Classical名無しさん:2013/01/12(土) 19:46:11.94 ID:XhVXrWRo.net
 
何処かの会社と何処かの会社の比較に依存して

何処かの会社が勝ち組みである

何処かの会社が負け組みである

それは

それ自体の自性によって成立しているのではなくて

因と縁によって果と報が現れる

と大上段に構えて逝ってみる

189 :Classical名無しさん:2013/01/13(日) 17:27:30.76 ID:W8qEYfXr.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

無知の暗闇に覆われていることが原因で

人は三種類の行為を行うことになるが

その行為はその者自身を

来世もまた人として生まれて来てしまうようにさせる

性質を持っているのである

(中論26-1の意訳)

190 :Classical名無しさん:2013/01/13(日) 20:41:39.52 ID:W8qEYfXr.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

この三との行為とは

「 身体的な行為 」 「 言葉による行為 」 「 心による行為 」

すべての行為は蓄積して

その性質に合った結果を導き出す

業(カルマ)の蓄積が

この世に再度生まれて来ると言う結果を導き出す事になっているのである

(中論26-1の解説)

191 :Classical名無しさん:2013/01/14(月) 14:32:07.30 ID:aN2Y8zz3.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

そのものの原因(縁)となるような性質(行)を持つことで

意識(識)は転生(趣)へと入って行く

ひとたび意識が転生へと入って行くと

名前(名)と形(色)が現れてくる

(中論26-2)

192 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 14:48:30.79 ID:kI6jKrFj.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

ひとたび名前と形(名色)が現れると

六つの感覚領域(六処)が存在として立ち現れてくる

六つの感覚領域(六処)に依存して

感覚知覚/触感(触)が存在として立ち現れてくる

(中論26-3)

193 :putra:2013/01/15(火) 15:59:49.05 ID:BLEJaj67.net
サンスクリット語からだと、そんなに難解なことば使ってないと思うよ。
iha sariputra さて、シャーリプトラよ。
rupam(デバナガーリ−アルファベットの表記が難しいが)色(目に見えるもの)は
sunyata空虚(またはゼロ)でsyunyataya空虚は色である。
このあたりが、色即是空−空即是色(sktでは語順が不定なので中国版般若心経とは
違うけれど・・)ですね。
玄奘さんが翻訳した(といわれる)ものはかなり脚色があって、
原典とはちょっと違うなあと思います。
例として、度一切苦厄なんてことばは原典には全くないし、
アノクタラサンミャクサンボダイ(漢字は難しくてかつ意味は無いのでカナ
表記にしますが・・・)はasrityanuttaram samyaksambodhim から
の訳語(というか音表記)なのですが、これは〜頼って、正しい悟り
に目覚めた(つまり世界が見えた、覚醒した)といっているわけです。
このような文法と語彙の使い方から見て行かなければと思うよ。
上記文章は私の翻訳なので全く権威はありません。
あしからず。

194 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 16:33:32.20 ID:i/uf5Q/B.net
>この三との行為とは
>「 身体的な行為 」 「 言葉による行為 」 「 心による行為 」
>すべての行為は蓄積して
>その性質に合った結果を導き出す
>業(カルマ)の蓄積が
>この世に再度生まれて来ると言う結果を導き出す事になっているのである

そこまで分かっているなら、対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが。

195 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 17:29:57.25 ID:kI6jKrFj.net
 
http://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)

世界大百科事典内の阿耨多羅三藐三菩提の言及

【仏教】より
… これに対し大乗仏教では,仏になる菩薩の道を万人に可能とし,大乗(大きな乗り物の意)であることを自認した。
誰でも仏と同じ悟り(阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)二無上菩提)に向けて発心すれば菩薩である。
菩薩にもまた凡聖が区別されるが,完成された学説では十地(十種の菩薩の階梯)の初地以上のものが聖人とされる。 …

【菩提】より
… そこで《大智度論》などは3種の菩提や5種の菩提を説く。
そして小乗の声聞の菩提と縁覚の菩提は執着や煩悩を滅尽しているけれども,真の菩提ということはできず,
大乗の仏と菩薩の菩提のみが阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提anuttarasamyak‐saṃbodhiである。
これは無上正等正覚と訳されるが,すべての段階の菩提を越えて,最高にして正しく,遍(あまね)き正覚だというのである。 …

196 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 17:53:54.54 ID:kI6jKrFj.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

  −  これに対して  −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
  _  _  _

色(目に見えるもの)も
それ自体の自性によって成立しているのではなくて
他に依存して
因と縁によって果と報が現れているので

色(目に見えるもの)も、空性である
空性である故に、色(目に見えるもの)も現れる

色即是空 空即是色

197 :putra:2013/01/15(火) 17:56:03.26 ID:BLEJaj67.net
その定義方法は良くわかります(意味は不明ですが)。
しかし、それはあなたのことばではない。
I love you.について、
英語外の言語で定義しても意味は捕まえられないでしょう。
love の哲学的または宗教的定義をいくら紐解いても、
ただ言葉の渦に巻き込まれるだけではないでしょうか。
オッカムの剃刀とは言いませんが、もし本義に近づきたいなら、
Loveという言葉のその環境に自らを置くしかないと思いますよ。
自らの言葉でloveを、その暮らしの、生きる実情において語るしか
無いと思いますよ。
仏陀(如来)はそのような人だと思いますよ。
彼は何もバラモン(高度の教養を積んだ人々)だけを相手に
していたわけではないと思いますよ。
まさにsattvaの真っ只中にいたと思いますよ。
菩提、といのはbodhisattva=目覚めたる(あるいは目覚める)衆生、
の最初の語です。sktの複合語というややこしい文法上の決まり
(ここでは割愛せざるを得ませんが)によって単語が結合され、
それがひとつの単語のように振舞います。
従って、菩提のみを定義しようとすると、
目覚め、覚醒、またはその動詞の変化形となります。
でloveの原義、その環境で話される原義にまで遡らないと
単なる言葉の迷い子になってしまうのではないでしょうか。
大いなる誤りを犯す可能性もありますが、
しかしながらそれはいたし方ないのではないでしょうか。
先人たちの智慧にたどり着くためにも、実はその原義せまる姿勢が
必要だと思います。

198 :putra:2013/01/15(火) 18:00:47.91 ID:BLEJaj67.net
ごめんなさい、推敲しようと思っていたら、そのままupして
しまいました。
誤字、脱字はお許しを。

199 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 18:01:57.41 ID:kI6jKrFj.net
 
>> この三つの行為とは
>> 「 身体的な行為 」 「 言葉による行為 」 「 心による行為 」
>> すべての行為は蓄積して
>> その性質に合った結果を導き出す
>> 業(カルマ)の蓄積が
>> この世に再度生まれて来ると言う結果を導き出す事になっているのである

> そこまで分かっているなら、対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが

この「対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが」の意味が

わからないので

このレスに対する返事は、しばらく保留にさせて頂きます

200 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 18:18:09.81 ID:kI6jKrFj.net
 
> 誤字、脱字はお許しを

修正は、時間に余裕がある時にでも、良いと思います

> 自らの言葉を、その暮らしの、生きる実情において語るしか無いと思いますよ

私の場合は自分自身が、仏教を正しく理解していないので

自分の意見として説明するのではなくて

まず始めの段階においては

解説書に書いてある

そのままその通りに書き込むように努力しているけど

実際の書き込みに関しては

文章を改ざんしてたり省略してたりするので

解説書それ自体を参照する事を、おすすめ致します

201 :putra:2013/01/15(火) 18:19:36.62 ID:BLEJaj67.net
wikiはやめませんか。
「空性」はsunyataですか、それともsunyanですか。
sktの辞書から拾ったほうがまだ解りやすいですよ。
名詞であるか、形容詞であるか。
五蘊という耳慣れない漢字も出てきているようですが、
panca skandhas tams ca svabhavasunyan pasyati smaの中の一語で、
五体(五体満足の五体)といった方が近いと思いますよ。
中国漢字の文化では、照見五蘊皆空、と表記されていますが、
sktのそのままでは、五つの塊(つまり五体)も世の事々(実体)も空である
と見た(smaは現在形を過去形にする一語ー接尾語です)。

202 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 18:53:21.45 ID:kI6jKrFj.net
 
サンスクリット語
日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される

sktって ↑ これの事ですかね?

私の場合は

パーリ、サンスクリット、チベット、漢訳も

さっぱり、わかりませんが一応

skt のリンクの貼り付けを、お願い致します

203 :putra:2013/01/15(火) 18:57:57.62 ID:BLEJaj67.net
202さんへ。
失礼しました。
そうです。skt=サンスクリット語です。
因みに原典が偽経であるかどうかは、まず第一の関門として、
sktで書かれた文書があるかどうかで、判断されます。
とはいえ、中国語からわざわざsktに再翻訳なんてのあるみたいで、
一概には言えませんが。

sktのリンク・・・、探してみます。

204 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 19:09:27.97 ID:kI6jKrFj.net
 
五蘊(ごうん)とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一

「蘊」とは集まりの意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである
この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く
これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした

なお、旧訳では五陰(ごおん)五衆(ごしゅ)といい、
特に煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏(うろ)の五蘊を五取蘊(ごしゅうん)ともいう

1).色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった
2).受蘊(じゅうん) - 感受作用
3).想蘊(そううん) - 表象作用
4).行蘊(ぎょううん) - 意志作用
5).識蘊(しきうん) - 認識作用

般若心経には、「五蘊皆空」と「無色無受想行識」という文言が含まれている

205 :Classical名無しさん:2013/01/15(火) 19:35:06.71 ID:kI6jKrFj.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

それはただ目(眼)と形(色)と

理解力(作意)に依存している

そうであれば、名前と形(名色)に依存しており

そしてそれらが(総合的な)意識(識)を生み出すのであり

(中論26-4)

目と形と意識=理解力(作為)の三つから

組み立てられたものが

感覚知覚/触感(触)となる

感覚知覚から(苦楽の)感覚感情(感受/受)が立ち現れてくる

(中論26-5)

206 :putra:2013/01/16(水) 13:44:52.31 ID:n9hEr7Dv.net
204さんへ
難しい言葉が並んでいて、さっぱり理解できません。
例えば、感受作用=感受+作用とはいったい何のことでしょうか?
物事(?)を感じようとする意思の働きのことですか。
西洋哲学での概念を援用しているのでしょうか、
それとも朱子学における、体と用の関係、あるいは陽明学における
体と用の関係?
もう少し我々の経験、日常、実情に沿うような言葉は無いのでしょうか?
sktにおけるvedanaとは「感じるー感覚」ということです。
感受作用では、さっぱり意味が解りません。
西洋哲学の概念で語っているのであれば、そのように注解願います。
理解不能というより不完全理解しかできません。

207 :Classical名無しさん:2013/01/16(水) 16:26:33.66 ID:2ZCm4l9t.net
 
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E8%98%8A

五蘊(ごうん)

大辞林 第三版の解説

〔「蘊」は,集まったものの意〕
諸存在を構成する物質的・精神的五つの要素

色(しき)・受・想・行・識の総称
色は物質的存在
受は事物を感受する心の働き
想は事物を思い描く心の働き
行は心の意志的働き
識は識別・判断する心の働き

五陰(ごおん)。五衆(ごしゆ)

208 :Classical名無しさん:2013/01/16(水) 16:46:18.08 ID:2ZCm4l9t.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

感覚感情(感受/受)によって

条件づけられた(感覚を原因とした)ものが

渇望/欲求(渇愛/愛)である

渇望/欲求は感覚感情のせいで生じる

それが生じるとき、固執/掴むこと(取)も生じる

四つの種類の固執/掴むことである

(中論26-6)

209 :Classical名無しさん:2013/01/16(水) 17:05:08.33 ID:2ZCm4l9t.net
 
感受作用については ↓ これもご確認下さいませ

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

中論26-2の解説

精神作用(名)

快、不快の感受作用(受)

あれ、これの識別作用(想)

意思作用(行)

認識作用(識)

210 :putra:2013/01/16(水) 17:26:26.41 ID:n9hEr7Dv.net
百科事典の定義を云々したいわけではありません。
本義に迫りたいのです。
wikiであろうが偉い坊様であろうが国語辞典であろうが、
同義反復に陥るのみです。
経典が何を言わんとしているのか、何がその経典の意味なのか、
原典に迫るしかないと思いますよ。
辞典、辞書の類では到底理解不能です。
「受」vedana にこだわりますが、
火に手をかざしてみればそれで済むものを、わざわざ辞書の言葉を追い、
言葉は言葉を追いそして迷路の中であえいでいるくせに、
それでなにか崇高なものでもあるかのように、さらに言葉をかさねる。
北伝大乗仏教のやたらに難解な用語で理解できると思いますか?
(本来なら−般若心経が偽経でないとして−)マガダ語方言からパーリ語、
それからサンスクリット語、さらに500年の歳月を超えて中国語、
さらに1500年を超えて日本語、しかもその語彙ときたら、
ドイツ語、フランス語、英語、ギリシャ語、ラテン語の翻訳漢字日本語。
そして様々な教派の見解を加えて語られる文章、それは一体なんでしょう。
言語を絶した知識、言語を媒介させることができない体験、
この様なものがきっと悟り(asrityanuttaram samyaksambodhim)
だったのです。それを語るのに難解な用語を使うはずもないのです。
所詮語れぬものだからです。
しかし、誤解されるのは恐れたと思います。
仏陀が語るべき相手は、救いが必要な者たち、悟った者たちではないのです。
食物だけしか考えられない貧者、路傍に死児を抱えて佇む女、
訳も無く人々に打ち据えられた男、まさに無明の真っ只中でもがく者たち、
かくなる人々に難解な言葉など全く無用なもの、百害あるのみ。
そんなことは何も仏陀でなくとも、誰にでもわかります。
その立場で理解したいのです。

211 :Classical名無しさん:2013/01/16(水) 17:55:42.84 ID:2ZCm4l9t.net
 
加持(かじ)
仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生(人々)を守る
という鎮加護持(ちんかごじ)・神変加持(じんべんかじ)を指す
仏の大悲の力が衆生に加えられ
一方衆生の信心が仏に伝わることでその効果を発揮するとされる
密教においては
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
双方が相応一致することで
仏と衆生の持つそれぞれの三密が入り混じて他を己におさめ持ち
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
  _  _  _

密教においては
師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい
その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」といい …
  _  _  _

後期大乗密教の場合は
仏と衆生の双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
加持(かじ)とか
師が弟子に教義を正しく相承したこと「瀉瓶(しゃびょう)の如し」
と言うのがあるらしい

212 :Classical名無しさん:2013/01/17(木) 08:24:15.22 ID:/I9vYp7Z.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

固執/掴むことが存在するとき

固執する者/掴む者(有)が

存在として立ち現れてくる

もし彼が掴まなかったら

そして解放されているなら

彼は存在としてやって来ないだろう

(中論26-7)

213 :Classical名無しさん:2013/01/17(木) 19:22:52.44 ID:/I9vYp7Z.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

このような存在(有)はまた五つの集合体(五蘊)でもある

存在は誕生(生)によって

老いと死(老死)と不幸と

苦しみと悲しみと

(中論26-8)

混乱と動揺

これらのものすべてが誕生の結果として生じてくる

そのようにして大いなる苦しみであるこの全体が

存在として立ち現れてくるのである

(中論26-9)

214 :Classical名無しさん:2013/01/18(金) 00:42:27.49 ID:AipBF3OE.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

輪廻する存在の根は行為/心的要素の集成(諸行)である

したがって、賢者は行為しない

したがって、愚者は行為の担い手である

賢者は洞察力があるので、そうはならない

(中論26-10)

215 :Classical名無しさん:2013/01/18(金) 15:04:26.65 ID:AipBF3OE.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

無知(無明)が止まると

行為(諸行)は生じなくなるだろう

無知の停止は

瞑想と知恵(智)を通して生じるのである

(中論26-11)

216 :Classical名無しさん:2013/01/19(土) 21:21:05.42 ID:LfMCAZDw.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

「これ」や「あれ」を止めることで

「これ」や「あれ」は表に出ないものとなってくる

大いなる苦しみのすべてが

ここにおいて実際に、すべて消滅するのである

(中論26-12)

217 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 18:46:09.06 ID:RtpdsY9K.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

「これ」や「あれ」とは
十二の原因として分けて説明された因果関係の個々の鎖の環のことであり
また個々のものとして実体をもっているかのように見える事象のことである
漢語訳などでは
十二縁起(因縁)の前の項目が消滅すると
後の項目も消滅するというように訳されているものもある
また、「大いなる苦しみのすべて」を集合体と訳して
「これ」や「あれ」を人間の集合体
 − 精神と肉体 −
であるという含みを強く打ち出しているものも見られる
いずれにしても意味するところは同じである
瞑想の実践によって正しい見方を獲得することで
輪廻の苦しみから解脱できると説いているのである
それはただの哲学的見解ではなく
それを超えた境地からの説明であるが
同時に十二の原因として表され得るような世界に関わることを
「通して」世界のあり方を正しく見るということでもある
世界を材料として瞑想し
最終的にはそこを超えて行くという意味に解せるだるうか

(中論26-12の解説)

218 :putra:2013/01/21(月) 19:47:42.77 ID:CktXAHeq.net
さてさて、何を仰っているのやら。
輪廻、解脱、瞑想、実践、どの言葉も実体を伴っていませんね。
輪廻とは生まれ変わるということですか?
解脱とは生まれ変わらないことですか?
瞑想とは何かを考えていることですか、考えていないことですか?
実践とは何をどうすることですか。
十二縁起なるものは一体なんですか?
世界とは?「世界のあり方を正しく見る」?
生きることの実情の中からの苦悩が、または生きることそのものが
持つ困難性(sktではduhkha-思いどうりにならぬこと=苦悩)が、
検討、検証されていないものだから、ただただ消化不良の言葉が
あてもなく彷徨ってます。
龍樹の解説が漂っているのみです。

病気をお持ちですか?

219 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 20:37:17.13 ID:RtpdsY9K.net
 
禅定(ぜんじょう)

心を統一して瞑想し、真理を観察すること。
またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。
坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする。
仏教においては、涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く、禅定を得る止行に対して、観行も重視される。
サンスクリット語の dhyaana の音写である「禅」と、その意訳した「定」の複合語で、三昧と同義語である。
また、禅定によって心を乱されない力を定力または禅定力と呼ぶ。

元来は、大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜のうちの第五禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)のことである。
禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟して散乱の心を定止することを指している。

阿含経典では、この状態に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。
これが「四静慮(四禅)」である。次に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。
これが、「四無色定」であり、さらに九次第定、百八三昧とつづく。

また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とはセットになっている。
(禅定と智慧との関係については、止観を参照。)

220 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 20:53:24.02 ID:RtpdsY9K.net
 
“比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?

身体について…感覚について…心について…諸法について…

(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである”

“みずからを灯明とし、みずからを依処として … 法を灯明とし、法を依処として … ”

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた

これが「自灯明・法灯明」の教えである

221 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 21:02:18.18 ID:RtpdsY9K.net
 
八正道

「正しく眼の無常を観察すべし。
かくの如く観ずるをば是を正見と名く。
正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。
喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」

といわれるように、
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、
その世俗性の否定によって、結果として、
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。
正見は「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。

222 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 21:09:40.20 ID:RtpdsY9K.net
 
八正道

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

正念
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて
常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが
「正念」(しょうねん)である

正定
正しい集中力(サマーディ)を完成することである
この「正定」(しょうじょう)と「正念」によってはじめて
「正見」が得られるのである

223 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 21:14:54.59 ID:RtpdsY9K.net
 
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法

四念住(四念処)四種の観想

四正断(四正勤)四つの努力

四神足(四如意足)四つの自在力

五根、五つの能力

五力、五つの行動力

七覚支、存在を観察する際に、心の状態に応じた注意と方法

八正道

224 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 21:27:40.22 ID:RtpdsY9K.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html

比丘らよ

ここに唯一の道がある

それは

生きとし生けるものが清らかになるため

悲しみと嘆きを乗り越え

心と体の苦しみがなくなり

もののあり方を正しく知り

涅槃を体験するための道である

その道とは四念処

四つの気づきの実践である

225 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 21:56:11.96 ID:RtpdsY9K.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm

中論觀法品第十八

一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ

諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ、と

それ故に

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

諸の禅定の中で、滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
  _  _  _

心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数、数。

細々した心の働き。八識と相応して起るもの。

(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)

226 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 22:10:24.98 ID:RtpdsY9K.net
 
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

四禅を超えて想受滅(滅尽定)

原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている
「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い
想受滅は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる
「想受滅」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる

(C)生物的な意味の死者と、想受滅を経験している覚者との相異
死者には、身行、口行、心行が滅し消える。壽と煖がやみ、諸根が敗壊す
しかし、覚者は、身行、口行、心行が滅し消えるが、壽と煖はやまず、諸根は浄静である

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅を成就する

(C)は、想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのであるが、覚者と死者の違いをいう
覚者は死者と違って、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している

227 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 22:20:23.57 ID:RtpdsY9K.net
 
サーンキヤ学派

人はプラクリティから展開した理性

自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが

本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている

サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり

ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

228 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 22:28:15.44 ID:RtpdsY9K.net
 
末那識(まなしき)

唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である

睡眠中でも深層において働き続け

根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける

この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

229 :Classical名無しさん:2013/01/21(月) 22:38:37.51 ID:RtpdsY9K.net
 
煩悩障(自己に対する執着)

所知障(外界のものに対する執着)

の二種の障害を根絶することによって

阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)

これがすなわち、汚れを離れた領域であり、世間の思考を超越している

それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

230 :Classical名無しさん:2013/01/22(火) 00:06:02.67 ID:klnVAUSQ.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

反論者は、こう言うであろう

空性論者は、すべての存在が空であると言うが
もし、すべてのものが空であるなら
何も生じることがなく
過ぎ去って行く事物も存在しないであろう
何も存在するものがないのであれば
自己も存在しないし
迷妄も固執も存在しないわけであるから
いったい誰が何を捨て去ることができるというのだろうか?
人間が我欲を放棄することによって
あるいは、やめることによって
どうして涅槃が生じるなどと言えるだろうか?と

(中論25-1の意訳)

231 :Classical名無しさん:2013/01/22(火) 00:28:34.42 ID:klnVAUSQ.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

それについてはこう答えよう

もしすべてのものが空でないなら
それらは依存して生じるようなものではないというのであるから実体であり
実体は永遠に変わらずに存在し続けるものであるので
何も生じることがなく
過ぎ去って行く事物も存在しないであろう
何も存在するものがないのであれば
自己も存在しないし
迷妄も固執も存在しないわけであるから
いったい誰が何を捨て去ることができるというのだろうか
人が我欲を放棄することによって
あるいはやめることによって
どうして涅槃が生じるなどと言えるだろうか
存在するものが実体であるなら
迷妄を抱く者は永遠に迷妄を抱き続け
それとは別に涅槃が変化せずに永遠していることになる
人は迷妄から涅槃へと移行することができなくなるのである

(中論25-2の意訳)

232 :Classical名無しさん:2013/01/23(水) 02:09:12.78 ID:r6Wt4Obf.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

やって来て、また去るものは
依存的で変化するものである
依存的でなく変化しないもの
それこそが涅槃として説かれたものである(中論25-9)

師は生成と消滅の放棄を説かれた
したがって、涅槃は
存在でも、まったく存在しないものでもない
というのが正しい(中論25-10)

233 :Classical名無しさん:2013/01/23(水) 02:22:27.42 ID:r6Wt4Obf.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf

涅槃へと行かれてしまった後

勝利を得た征服者は

存在しているとも言われず

まったく存在していないとも言われない

その両方だとも言われず

両方でもないとも言われない

(中論25-17)

234 :Classical名無しさん:2013/01/23(水) 02:48:53.27 ID:r6Wt4Obf.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm

中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二

空は、則ち、説けない
空でなくても、説けない
空、非空は、共であろうと、共でなかろうと、説けない
但だ、仮名を以って、説くのみだ

諸法の、実相は、性空であるが故に、如来の滅後を、こう思惟してはならない
有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と
如来は本より、畢竟じて、空なのだ
況して、滅後は言うまでもない

如来は、戯論を過ぎるが、而し
人は、戯論を生ずる
戯論は、慧眼を破る
是れでは、誰も仏が見えない

如来に、性は無い、同じく
世間にも、性は無い

235 :Classical名無しさん:2013/01/24(木) 19:32:57.31 ID:My+0614E.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空を理解してない空反論者に対して

我々はこう主張するのである

中観を虚無的だと非難する反論者たちよ

あなたがたは空性と空の目的

および空性が持つ意義について

間違った考えを持ってしまっているのである

そのせいであなたがたの考えは毒されている、と

(中論24-7の意訳)

236 :Classical名無しさん:2013/01/24(木) 20:40:35.08 ID:My+0614E.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

ブッダの真実の教義(ダルマ)は、二諦(にたい)に基づいている

そのうち一つは
事物がそのものの性質を持って個々別々に
存在しているように見える世界であり
我々が暗黙のうちにその存在を信じている現実性
この世の「現象的真実」 − 世俗諦(せぞくたい)であり

もう一つは
暗黙の思い込みに騙されることのない空性
勝義諦(しょうぎたい)である

(中論24-8の意訳)

237 :Classical名無しさん:2013/01/24(木) 21:05:47.75 ID:My+0614E.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm

中論觀四諦品第二十四

諸仏は、二諦に依り、衆生に、説法される
一は世俗諦、二は第一義諦で
若し、人が、二諦を、分別することを知らなければ
則ち、深い、仏法の、真実の義を知らない

世俗諦とは、一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である

諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に
一切の法は、皆、空で、無生だ、と知り
聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける

衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ、と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である、但だ
衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた

238 :Classical名無しさん:2013/01/25(金) 20:10:02.77 ID:Arj4mMBQ.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

世俗諦(せぞくたい) ・ 勝義諦(しょうぎたい)

この二つの区別を理解できない者は
ブッダの深遠な教えも理解できないだろう

空性についての説明も
世俗の人に対しては
その世俗の人に理解できる言葉に
依存しなければ理解させることはできない

そして
空性を体感会得することが重要である
と言うことに気がつかなければ
輪廻からの解脱を達成できないはずである

(中論24-9・10の意訳)

239 :Classical名無しさん:2013/01/25(金) 20:24:05.92 ID:Arj4mMBQ.net
 
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

548
先生!あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。
黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。

549
実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、
偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。

550
あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、
光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。

551
あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。
このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。

240 :Classical名無しさん:2013/01/28(月) 07:33:42.56 ID:ekezdYQU.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空性を誤解して

理解力の足りない者は解脱への道をくじかれてしまうのである

それはまるで間違った握り方をした蛇に噛まれたり

あるいは間違ってかけられた呪文のようなものである

(中論24-11の意訳)

241 :Classical名無しさん:2013/01/28(月) 15:53:07.43 ID:p32Gjyfv.net
OKUMURA_YUKIO
煽り通信ステゲー

242 :Classical名無しさん:2013/01/29(火) 14:02:30.38 ID:UEOoXtdF.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空性の教義は難解であり誤解されやすいので

ブッダはそれを他の人に教えることを断念し

言葉で説明できないものだとして沈黙を守ったのである

空性を「虚無である」と勘違いしている反論者は

間違った論説によって

空性を正しく理解することが出来なくて

混乱しているのである

(中論24-12・13の意訳)

243 :Classical名無しさん:2013/01/30(水) 22:49:29.24 ID:qcel0UW0.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空性を理解している者には

(本当に意味での)すべてのことが明確に理解できるようになる

空性を理解していない者には

(本当に意味での)すべてのことを理解することができていないので

何も明確にはならない

(中論24-14の意訳)

244 :Classical名無しさん:2013/02/02(土) 03:05:16.57 ID:Rj8TYI7O.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空を正しく観察することのできる

我々にたいして

間違いすべてを

押しつけているときのあなたがたは

まるで自分が馬にまたがっているのに

その馬自体を忘れてしまった人のようである

(中論24-15の意訳)

245 :Classical名無しさん:2013/02/02(土) 03:18:53.09 ID:Rj8TYI7O.net
 
馬の上に乗って
馬に依存して
移動しているのに
馬の事は忘れて

「自分自身
 それ自体の自性によって成立している
 それ自体の自性によって生きている」

と思い込んでいる状態である

それ故に

「 他に依存して現れている 」 と言う事に気づかないのである

246 :Classical名無しさん:2013/02/02(土) 03:38:30.69 ID:Rj8TYI7O.net
 
我は、常住であり、
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。

  −  これに対して  −

釈迦はこのような実我観念を批判し、
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。
これを色受想行識の五蘊について説き、
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
  _  _  _

因 → 縁 → 果 → 報
現世で生きている状態 → 中有で彷徨(さまよ)っている状態 → 又、次の、この世で生きている状態

例えば
「 時の流れ 」 と言う変化に依存しているのに
五蘊仮和合の仮りの状態なのに

「自分自身
 それ自体の自性によって成立している
 それ自体の自性によって生きている」

と思い込んでいるのである

247 :Classical名無しさん:2013/02/02(土) 21:50:48.30 ID:Rj8TYI7O.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もしあなたが本質(自性がある)という観点で

すべての事物の存在を認識するなら

そのすべての事物の認識は

原因と条件(因縁)の認識なしに存在することになるだろう

(中論24-16の意訳)

248 :Classical名無しさん:2013/02/04(月) 10:42:19.02 ID:gH32hOv7.net
宣伝(@_@)
★イイ女限定★俺と語ろうぜの14
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1359851349/

249 :Classical名無しさん:2013/02/05(火) 12:18:47.08 ID:INsS8Rh0.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし仮に

原因と条件(因縁)の認識なしに存在する自性というようなものがあるなら

因果関係というもの自体が意味を成さないのであり

善き行いが良い結果を生むカルマという考えも意味を成さなくなる

他のものに依存して事象が生じたり滅したりするということもなくなり

努力した結果として悟りを得るということも不可能だということになるだろう

(中論24-17の意訳)

250 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 09:47:03.57 ID:l7aC/Mtf.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

いかなるものも事象が存在として成立する場合は

何か他のものとともに生じてくる

他のものに依存して成立してくる

そのようなあり方が 「 空 」 と呼ばれるものである

これの意味は

「 すべての事象は依存的な概念(によって付けられた名前)が存在する 」 ととらえること

これが中観である

(中論24-18・19の意訳)

251 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 20:26:51.05 ID:l7aC/Mtf.net
 
六神通とは、
仏教において仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。
6種の神通力。六通とも。

元来は「止観」(瞑想)修行において、
「止行」(サマタ瞑想、禅那・禅定、四禅)による三昧の次に、
「観行」(ヴィパッサナー瞑想)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。

天眼通 - 他人の過去世(前世)を知る力
天耳通 - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心通 - 他人の心を知る力。
宿命通 - 自分の過去世(前世)を知る力。
神足通 - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
漏尽通 - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。

最後の漏尽通を除く5つを、五通と呼ぶこともある。
また、天眼通、宿命通、漏尽通の3つをまとめて、三明と呼ぶこともある。

252 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 21:14:14.19 ID:l7aC/Mtf.net
 
「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
「1つ、2つ・・・10・・・100・・・1000・・・10000の過去生を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」

「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる
「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」
「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」

「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、「四聖諦」)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」

「六神通」は
沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の(戒律順守という清浄な生活の先の)「止観」(瞑想)修行において培われる
尋常ならざる
世間的な一般的常識の思考を超越した状態を
言い表したものである

253 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 21:19:42.55 ID:l7aC/Mtf.net
 
「 これまであなたたちは
 永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンの信仰などを主体とした
 善行に励み、永遠ばかりを探し求めてきた
 だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
 だから、あなたたちには
 無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の練習が必要だ 」

無我 ・ 縁起 ・ 空の観察などによって
色受想行識の五蘊のうち
もし受 ・ 想 ・ 行を滅させる事が出来れば

それは、世間を超越した認識であり
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり
世間的な一般的常識の殻を打ち破り
思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

254 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 21:23:01.53 ID:Mg9i4YX9.net
自らを灯火として
怠ることなく修行しなさい
 
by釈迦最後の言葉

255 :Classical名無しさん:2013/02/07(木) 21:26:50.44 ID:Mg9i4YX9.net
己の良心(仏)に耳を傾け
生きていることを放棄せず
自分の出来る限りでいいから
為すべきことを為しなさい
それだけでいいんです
それ以上は誰も求めていません

by私の解釈

256 :Classical名無しさん:2013/02/08(金) 01:45:14.54 ID:xTGas3xs.net
 
> 生きていることを放棄せず

無明と渇愛が絡み合って
その心相続によって
輪廻を繰り返しているなら
その繰り返している輪廻の
根本原因を滅させる必要がある
それ故に

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ、と
それ故に
諸の禅定の中で、滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです

257 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 09:48:52.81 ID:0bedV5Wb.net
 
仏教議論スレッド57
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1360209338/791

791 名前:?[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 09:41:41.03 ID:AVJGWvZZ
 
>>272 >>286 不説さんへ
> 【?氏】自体が誤解に基づいて引用していたもの

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

初期仏教の解脱・悟り=想受滅(滅尽定)
(1)教説を理解することではなくて、想と受が滅する体験である
(2)文字の理解ではなくて、生が尽きた、すなわち、自己がないという体験である
(3)種々の文字で表現された依所となる事実を体験することである

四禅を超えて想受滅
原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている
「四禅」の後に、さらに
無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い
想受滅(滅尽定)は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅(滅尽定)の直後に「解脱」するとされる
「想受滅(滅尽定)」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は
想受滅(滅尽定)においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅する
覚者は、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち受、想、行が滅している

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
諸の禅定の中で、滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する

258 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 10:04:00.98 ID:0bedV5Wb.net
 
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/306

306 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 14:52:01.86 ID:TBV7I00z

> 仏教は釈迦滅後の時点で修行者向けの性格が強くなってしまった可能性があるのでしょうか?

記録が残っているものよりも、更に昔の時代の事は、わからないけど

ウィキペディアの場合は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている
人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる
その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった
  _  _  _

釈迦滅後の時点で 「 輪廻から解脱する 」 と言う
修行者向けの性格が強くなってしまった可能性はあるのかもしれないけど
現状では、とりあえず
これが 「 一般的な仏教の教義である 」 と言う事のようでございます

259 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 10:14:04.31 ID:0bedV5Wb.net
 
末那識(まなしき)

唯識説の説く八識のうち第七識であり
第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である

睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける

この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

一説では、この識を因縁識といい
過去の事象が潜在する識といい、悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる

260 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 10:22:49.31 ID:0bedV5Wb.net
 
「 これまであなたたちは
 永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンの信仰などを主体とした
 善行に励み、永遠ばかりを探し求めてきた
 だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
 だから、あなたたちには
 無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の練習が必要だ 」

無我 ・ 縁起 ・ 空の観察などによって
色受想行識の五蘊のうち
もし受 ・ 想 ・ 行を滅させる事が出来れば

それは、世間を超越した認識であり
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり
世間的な一般的常識の殻を打ち破り
思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

261 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 10:35:04.23 ID:0bedV5Wb.net
 
スッタニパータ 1119

つねによく気をつけ

自我に固執する見解をうち破って

世界を空なりと観ぜよ

そうすれば死を乗り越えることができるであろう

このように世界を観ずる人を

<死の王>は見ることがない

262 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 11:00:14.20 ID:0bedV5Wb.net
 
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて
世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた

これが 「 自灯明・法灯明 」 の教えである

263 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 11:10:52.99 ID:0bedV5Wb.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした
  _  _  _

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku88/B088R001.pdf
異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 絶対不滅・常住不変のアートマン
経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮説する
  _  _  _

チベット仏教ゲルク派
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

「空」の本当の意味を知るには、中観自立論証派と帰謬派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
中観自立論証派と帰謬派の見解の僅かな差を吟味することによって「空」の意味を知ることができるのです

自立論証派と帰謬派の本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です

自立論証派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を
世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します

自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです

264 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 11:18:00.42 ID:0bedV5Wb.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku90/B090L031.pdf

プラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない

なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している

この実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ

また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く

265 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 11:31:55.97 ID:0bedV5Wb.net
 
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)の場合は

瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を体感会得して、教理にまとめた

とりあえず 「 心(識)は存在する 」 と仮説して

深層意識の阿頼耶識が

自分の意識も

外界にあると認識されるものも

生み出していると考え(唯識無境)

「 阿羅耶識もまた空であるとする 」 と言う方法によって

最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)

266 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 11:46:08.57 ID:0bedV5Wb.net
 
「 それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある 」

と思い込んで執着している心の働きを滅させる為に
  _  _  _

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

これまであなたたちは
(永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた

世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた

これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない

無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
(それ故に、)あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

267 :Classical名無しさん:2013/02/12(火) 18:52:16.61 ID:0bedV5Wb.net
 
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E7%82%BA%E6%B3%95

有為法(うい‐ほう)

因縁によって形作られたもの

また、その在り方

生滅する現象世界の一切の事物をいう

268 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 22:59:22.73 ID:FaC0zh1X.net
知識だけではなにもなりませんよ
智慧を得ないと
どうやら貴方方は学者さんのような知識だけを追い求めてる気がします
他を言いくるめる知識なんか捨ててしまいなさい
そんなものは邪魔になるだけ
一切を捨ててもまだ残るものが真理ですよ(´・ω・`)

269 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 23:03:26.63 ID:FaC0zh1X.net
知識と智慧は違う
なんと言えばいいのか
悟りとは知識によって喚起されるものではない
本当の自分に帰った時に気がつく物と言えばいいでしょうか
とにかくやたらめったら人を煙に巻くような理論を振りかざしてる人は
間違いなく悟れないでしょう
そこで満足してしまってる程度ですから(´・ω・`)

270 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 23:10:59.50 ID:FaC0zh1X.net
これまで培った知識は大したものでしょう
でもそれで何が解決しましたか?
一度得たものを捨て去ることは難しいでしょう
釈尊は高い地位を見事に捨て去った
初歩の段階でね
それをなんと見るのか
知識に甘んじていては本当のことは見えませんよ(´・ω・`)

271 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 23:15:11.74 ID:FaC0zh1X.net
周利槃特尊者を思い出しなされ
知識はなくとも悟れる
知識をこれ見よがしにひけらかしている貴方
貴方は尊者のように悟れましたか?

272 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 23:28:51.99 ID:FaC0zh1X.net
貴方がもし自慢でなく衆生に向けて説いているのならば
もう少し衆生に歩み寄ってください
貴方の語り口は衆生を離れさせてしまいます
衆生を救うことを思うならば考えてもいいでしょう
ただ、貴方が自分はこれだけ偉いんだという僧上慢であるなら
それで結構
因果応報を知らない貴方ではないでしょうから

273 :Classical名無しさん:2013/02/14(木) 23:59:28.47 ID:FaC0zh1X.net
普通の言葉でいいんです
仏典を引用しなくとも
心が伝わればそれでいいんです
それが釈尊の伝えたかったことなのではないのですかね
苦の世界に生きている人に光を見せたい
それが釈尊の生き方なのではないのでしょうか

274 ::2013/02/15(金) 07:05:14.99 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9

周利槃特(チューダ・パンタカ/しゅり・はんどく)は、釈迦仏の弟子の一人

周利槃特は愚かであったといわれるが、その因縁は、過去世の昔
彼は迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが
迦葉仏の説法を暗誦できなかった他の比丘を嘲笑した業報により
釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる

仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが
四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず
兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした

釈迦仏はこれを知って、彼に一枚の布(あるいは一本の箒)を与え、東方に向かって
「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた
彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り
ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされる
そして神通力を得て形体を化かすなど種々示現できるようになったといわれる

275 ::2013/02/15(金) 07:11:50.73 ID:NnvJnul7.net
 
仏教議論スレッド58
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1360751733/296

296 名前:宝珠愚者@(規制代行)[sage] 投稿日:2013/02/15(金) 05:00:33.12 ID:5nwB0izV [2/2]

カラスさんと私とでは、「アートマン」と真我の用い方に違いが見られます

アートマンというのは一般的には広く「魂」などと訳されたり表現されるので
カラスさんもそういう使い方をしているものと思います

しかし、この私の場合は異なります

ウパニシャッドの説くアートマンというのは「魂」ではなくて
更にもっと最奥の究極の自己です

276 ::2013/02/15(金) 07:20:44.95 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で
意識の最も深い内側にある個の根源を意味する
真我とも訳される

概要
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており
アートマンは個の中心にあり認識をするものである
それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる

ウパニシャッド
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では
「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという
その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる

仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる
無我を知ることが悟りの道に含まれる

関連項目
中観派
唯識派
密教
我思う、ゆえに我あり

277 ::2013/02/15(金) 07:34:13.68 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

サーンキヤ学派

… プルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる …

プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする

人は
プラクリティから展開した理性
自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている

サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

関連項目
ヴェーダーンタ学派

278 ::2013/02/15(金) 07:47:00.70 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

インドにおける成立と展開

瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)は
瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる

無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を
世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した

「唯識二十論」では
「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない実体があるとした

279 ::2013/02/15(金) 07:57:13.86 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

末那識(まなしき)

唯識説の説く八識のうち第七識であり
第八識(阿頼耶識)を所依として
第八識の見分を所縁として生じる識である

睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続ける

この深層的な自我心を滅することによって
我々は初めて真の無我行を実践することができる

第七識・末那識と相応するものは
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

一説では、この識を因縁識といい
過去の事象が潜在する識といい
悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる

280 ::2013/02/15(金) 08:18:56.79 ID:NnvJnul7.net
 
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
無我 ・ 縁起 ・ 空の観察

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
想受滅(滅尽定)などによって
もし受 ・ 想 ・ 行を滅させる事が出来れば

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
それは、世間を超越した認識であり
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり
世俗としての常識的な思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)の場合は
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を体感会得して、教理にまとめて
とりあえず 「 心(識)は存在する 」 と仮設して
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法などによって
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)

281 ::2013/02/15(金) 08:39:18.59 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

  −  これに対して  −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
  _  _  _

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット仏教ゲルク派
我 ・ 我所を滅していない人の場合は
「 それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある 」 と思い込んで執着している
「 それ自体の自性によって何かが成立して現れている 」 と思い込んで執着している
  _  _  _

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ、と
それ故に
諸の禅定の中で、滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する

282 ::2013/02/15(金) 08:51:20.08 ID:NnvJnul7.net
 
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界を空なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう
このように世界を観ずる人を
<死の王>は見ることがない

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて
世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた
これが 「 自灯明・法灯明 」 の教えである

283 ::2013/02/15(金) 09:04:01.50 ID:NnvJnul7.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章

カスタマーレビュー
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

< 三十七菩提分法 八正道 の実践 >

(3)見道=須陀オン:三結(身見、疑惑、戒取)の断に成功した第一段階の聖者
この段階は、苦集滅道の四諦の教えを理論的に理解して「遠塵離垢の法眼」を得た瞬間に始まる
(4)修道=斯陀含(一来)+阿那含(不還)
斯陀含:三結の断と二結(欲貪、瞋恚)の弱に成功した第二段階の聖者
阿那含:五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)の断に成功した第三段階の聖者
(5)無学道=阿羅漢:五上分結(色貪、無色貪、我慢、掉挙、無明)の断に成功した最終段階の聖者

これと同様、『中論』の理解にもパーリ仏典の釈尊の教法を理解が不可欠である

284 ::2013/02/15(金) 09:14:23.51 ID:NnvJnul7.net
 
>>268 ID:FaC0zh1X さんへ
> 一切を捨ててもまだ残るものが真理ですよ

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう

(どのような方法によって客観的に自分自身を正しく観察する事が出来るのか? その方法は、わからないけど)

客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです

285 ::2013/02/15(金) 09:28:21.47 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81

例えば

自分自身を正しく客観的に観察する為に

中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法と言う

この輪廻から解脱する為の方法があるのかもしれない
  _  _  _

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

これまであなたたちは
(永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた

世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた

これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない

無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
(それ故に、)あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

286 :Classical名無しさん:2013/02/15(金) 09:37:16.87 ID:DjUFHaIW.net
今はじめてこのスレを知ったが・・・仏教論議を熱くやってるな!

まぁ結構なことだが、信仰は理論・理屈じゃないよ。
幾ら崇高で瑕疵の無いと思われる理論を展開しても、それは信仰じゃない。

仏教学者にでもなりたいとか、理屈で人を言い負かしたいなら兎も角、
信仰には実践が不可欠だよ。

此処に書いてる人はどんな信仰を「実践」してるのか知りたいもんだ♪

287 ::2013/02/15(金) 09:47:20.24 ID:NnvJnul7.net
 
>>268 ID:FaC0zh1X さんへ
> 一切を捨ててもまだ残るものが真理ですよ

秘密経典理趣経 / 八田幸雄(著) / 184ページ参照
一切如来を揮斫するとは
空の中には自己もなく如来もない
自己と如来を分別する限り
それは空の体得ではない
自己を捨て去るとともに
如来も捨て去って初めて
空 ・ 無自性の世界に没入することができる
自己のすべてを捨て去るとともに
一切如来も捨て去るところに
般若の空が体感会得されるのである
  _  _  _

世俗の人が今の現状において「これが真理である」と思い込んでいるものも、すべて一切を

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
想受滅(滅尽定)と言う方法によって
受 ・ 想 ・ 行を滅させる

と言う事なのかもしれない

288 ::2013/02/15(金) 10:06:06.95 ID:NnvJnul7.net
 
>>286 ID:DjUFHaIW さんへ
> 此処に書いてる人はどんな信仰を「実践」してるのか知りたいもんだ

私の場合は

仏教を教学として勉強している段階なので
禅定(瞑想)などの実践は、まだ、おこなった事は、ありません

どこの宗教団体にも所属していないので
布教活動(霊感商法)なども、おこなった事は、ありません

たぶん
仏教としての信仰を実践した事もない
と思います

どこの宗教団体にも所属していないし
霊感商法なども、おこなった事は、ないけど

幽霊(心霊現象)などについては
肯定派で、ございます

(「自性ではない故に中有身が因と縁によって現れる」と言う意味です)

289 ::2013/02/15(金) 10:14:56.47 ID:NnvJnul7.net
 
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される

そして、やがて

その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る

290 :288:2013/02/15(金) 10:25:17.76 ID:DjUFHaIW.net
>>288
まあ人それぞれだから、こうでなければならない云う事はないが、
それで十分満足なの?

仏教書を読み、頭で仏教を捉えることもそれはそれで結構な事だけど、
折角この世に生を受け、仏教に興味を持ったのに、それではなぁ〜んか
勿体無いね。

釈迦仏教と現在の日本仏教とは大きな隔たりがあるし、日本仏教でも
宗派によって、これが同じ仏教かと思う程違いが有る。

日本仏教を実践しようとすると、儒教や道教や神道も含まれてきて、
釈迦の教えとの整合性に困惑する事も有るかもしれないが、
それでも長い歴史の中で変化発展して来た「日本仏教」には素晴らしい
ものもある。
宗教者や坊主の堕落は何時の世にもあり、現代でもそれは変わりないが、
他をとやかく云うよりも、自身を磨き信仰を深めて行こうと神仏に向かい合えば
世の宗教者の堕落などに関わっている暇は無い。

折角そんなに勉強しているなら、実践もやってみてはどうでしょうかね?
非常に間口が広いから、事前によぉ〜く調べてからをお奨めしますが・・・

291 :286:2013/02/15(金) 10:27:49.27 ID:DjUFHaIW.net
いや失礼!

>>290 は、名前欄が 286 の間違いでした・・

292 ::2013/02/15(金) 10:41:30.99 ID:NnvJnul7.net
 
> 折角そんなに勉強しているなら、実践もやってみてはどうでしょうかね?
> 非常に間口が広いから、事前によぉ〜く調べてからをお奨めしますが・・・

私は小学4年生の頃に
落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来
オカルト原理主義に傾倒している状態の者です

一応、教学として
唯識 − 根本仏典 − 中論 − 般若経などの解説書を読んで
勉強している所です

私の場合は
オカルト原理主義に傾倒している状態なので

仏教スレの偉い先生の方々から
頭ごなしに叩かれている者です

とりあえず
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章
を教学として勉強した後には

禅定(瞑想)などについては
オウム信者と勘違いされるかもしれないけど

テラワダ、クンダリニ、チベット、チャンダーリーの火
などに 興味があります

293 ::2013/02/15(金) 10:47:22.22 ID:NnvJnul7.net
 
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念と精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落させるものである
  _  _  _

クンダリニーは
普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが
ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め
生涯をかけ各チャクラを開花させグランティを破壊し
最終的には
頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る
  _  _  _

新アジア仏教史 09 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ
チャンダーリーの火とは
臍(へそ)のチャクラに宿る熱である
この熱の力で「風(ルン)」を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り、留まり、溶け込む事に習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に
四段階の歓喜が生じ、最終的には
源初から存在する(倶生)大楽を元に
楽空無別の智恵を獲得する

294 :286:2013/02/15(金) 10:56:20.15 ID:DjUFHaIW.net
>私は小学4年生の頃に
>落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来
>オカルト原理主義に傾倒している状態の者です

「オカル」とは本来「超常的」とか「超自然の現象。神秘的現象」を現す言葉なのに
今は曲解されて日常使われている。

だから、宗教とは全て「オカルト要素」を含んでいるし、オカルト性の無い宗教など
ただの「道徳」に過ぎない。
仏教スレの偉い先生の方々が「霊的世界」や「オカルト性」を否定するなら、
それは偉い先生でも何でも無いですよ。
物事を偏った見方しか出来ない頭でっかちの人に過ぎません。

落武者の霊も存在します。神も仏も間違いなく、厳然と存在してます。
偉いセンセーは、なまじ頭がいいばっかりに教学ばかりの捉われて、
感性の世界が閉ざされてしまっている。

教学も大事だが、信仰の真髄は教学ではなく「体験」に尽きると私は思う。
その意味でも貴方の「落武者の霊を目視した」体験は貴重だし、霊を確認できる
素養があるなが、それを育て伸ばし、神仏ともコンタクトできるようなりたいとは
思わないのですか。

295 ::2013/02/15(金) 11:12:02.29 ID:NnvJnul7.net
 
> 神仏ともコンタクトできるようなりたいとは思わないのですか

都市伝説的な噂によれば

古代インドの修行法 ・ ヨーガ

第一禅
第二禅
第三禅
第四禅
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
九次第定
百八三昧

の禅定(瞑想)の体感会得などによって

それぞれの神々などと対話する事が出来るようになるらしい

(「自性ではない故に、因と縁によって、それぞれの神々などと対話する事が出来るようになる」と言う意味です)

296 :286:2013/02/15(金) 11:26:53.81 ID:DjUFHaIW.net
個人的には、その能力は自性( 本来、生まれつき)に備わっているものと思います。
ただ、様々な因と縁によってそれが感性として現われている場合もあれば、
現れてない場合もあるでしょう。

ですから、様々な「行」によってその因・縁を満たし「感応同交」を目指すのでは
ないでしょうか。

云ってみれば、教学は海図のようなもの、実際に船に帆をかけて
大海に乗り出さなければ、いくら海図を目の前にして論議・思考を重ねても
無意味に等しい。

297 ::2013/02/15(金) 11:43:15.24 ID:NnvJnul7.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%83%B3%E9%9D%9E%E9%9D%9E%E6%83%B3%E5%87%A6

例えば

「 非想非非想天と言う神がいる 」 と仮設して

「 第一禅の段階の時には、その段階に対応した神が現れる 」 と仮設する事が出来るかもしれない

但し

世俗の人が今の現状において「これが真理である」と思い込んでいるものも

自己のすべても、一切如来も

受 ・ 想 ・ 行を滅させる

想受滅(滅尽定)の場合は

如来も、神も、自己のすべても

滅させるものである

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

298 :286:2013/02/15(金) 11:50:17.47 ID:DjUFHaIW.net
飛行機に乗りたいなら、相応のお金と時間を作ってチケット買って
乗ればよい。
そうすることで、飛行機の快適さや便利さは十分味わえる。


パイロットになるような難しい航空力学や理論まで学ぶ必要は無い。

299 ::2013/02/15(金) 13:23:09.97 ID:NnvJnul7.net
 
> 自性( 本来、生まれつき)に備わっているもの

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット仏教ゲルク派
我 ・ 我所を滅していない人の場合は
「 それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある 」 と思い込んで執着している
「 それ自体の自性によって何かが成立して現れている 」 と思い込んで執着している
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

  −  これに対して  −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
  _  _  _

それ自体の自性によって成立しているのではない、それ故に

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです

300 ::2013/02/16(土) 19:26:00.63 ID:psmKjTGP.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もしあなたが本質(自性がある)という観点で
すべての事物の存在を認識するなら
そのすべての事物の認識は
原因と条件(因縁)の認識なしに存在することになるだろう
(中論24-16の意訳)

もし
すべての事物が
因と縁によらず
自らの
自性により存在していると言うのなら

因果関係というもの自体が意味を成さないのであり
善き行いが良い結果を生むカルマという考えも意味を成さなくなる
他のものに依存して事象が生じたり滅したりするということもなくなり
努力した結果として悟りを得るということも不可能だということになるだろう
(中論24-17の意訳)

301 ::2013/02/16(土) 20:44:26.85 ID:psmKjTGP.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

いかなるものも事象が存在として成立する場合は

何か他のものとともに生じてくる

他のものに依存して成立してくる

そのようなあり方が 「 空 」 と呼ばれるものである

これの意味は

「 すべての事象は依存的な概念(によって付けられた名前)が存在する 」 ととらえること

これが中観である

(中論24-18・19の意訳)

302 ::2013/02/16(土) 21:14:09.70 ID:psmKjTGP.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

他に依存する事なく
実体として存在すると言うのなら
他に依存する事なく
永続する本質を持つと言うのなら
他に依存する事なく
すべての事象が空ではないのなら
それは
生じることも消滅することもできないだろう
そうなると
苦しみは生じ
滅することがあると説く
四つの聖なる真実も成立しないことになり
「まったく存在しないもの」だということになるだろう
(中論24-20の意訳)

303 ::2013/02/17(日) 10:46:26.59 ID:dtMazj3B.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし仮に
四つの聖なる真実が 「 因と縁に依存して生じたものでない 」 とするなら
その中で説明されている 「 苦しみ 」 はどのようにして生じたというのだろうか

四つの聖なる真実の教えによって
苦しみというものは永続しないもの(無常)だと説明されてきたのである

無常のものならば、そのもの自身の本質
 − つまり永続する本質 −
から(因と縁とは関係なしに何かが)生じる
ということなどできないではないか

四つの聖なる真実(四聖諦)の第一のものは 「 苦しみは生じてくるものである 」 という教えである
また、第三は 「 苦しみは消滅させることができる 」 である

したがってそれは永続する本質を持つような 「 実体 」 ではないのである
それ故に、それ自体の自性によって成立しているのではない

(中論24-21の意訳)

304 ::2013/02/17(日) 10:54:00.72 ID:dtMazj3B.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9

ロゴス(logos)
1)概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
2)キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3)言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
  _  _  _

http://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%80%A7

自性(じしょう)

デジタル大辞泉の解説
そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。

大辞林 第三版の解説
1)事物をそのものたらしめている本来的な不変の性質。本性。本質。性(しよう)。
2)衆生(しゆじよう)が本来は持っている真理としての性質。性(しよう)。
3)サーンキヤ学派の主張する根本物質のこと。

世界大百科事典内の自性の言及
【サーンキヤ学派】より
… 活動することなく,その作用はただ物質的原理を観察(ダルシャナ)するのみである。
また物質的原理はプラクリティまたはプラダーナ(〈 自性 〉)と呼ばれ,
唯一の実体であって,永遠で活動性をもち,非精神的な質量因である。
物質的原理は三つの構成要素トリグナ(〈 三徳 〉)から成る。 …

305 ::2013/02/17(日) 11:06:44.17 ID:dtMazj3B.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

サーンキヤ学派

… プルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる …

プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする

人は、プラクリティから展開した理性
自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている

サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

インドにおける成立と展開

瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)は
瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる

無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を
世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した

「唯識二十論」では
「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方

言い表すことのできない 「 実体がある 」 とした

306 ::2013/02/17(日) 11:15:07.04 ID:dtMazj3B.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku88/B088R001.pdf

異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 絶対不滅・常住不変のアートマン

経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮説する
  _  _  _

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku90/B090L031.pdf

プラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない

なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している

この実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ

また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く

307 ::2013/02/18(月) 11:06:38.31 ID:GSF+Udkf.net
 
http://semi.natura-humana.net/2003/contents/genzemi/bunken/2004-aki/abidaruma.pdf

仏教では輪廻もまた、無明(avidoya)によって生起した迷妄にすぎず
そのゆえに、解脱とともに消滅してしまうのである
だが、輪廻を否定すると業の主体や因果応報、また人格の連続性を否定されてしまう
そこでアビダルマで考え出されたのがプトガラ(人我)という考え方であるが
『ミリンダパンハー』では、このプトガラの存在を認めず
かわりに業の相続、つまり行為の連鎖的持続という考え方で
この難問をかわしたと考えられるが、これではまたアビダルマの
小乗的な法の恒有に戻ってしまうのではないだろうか

そこで、このアポーリアをクリアするために
仏教の深層心理学である唯識思想が登場してくる
(アビダルマは大乗仏教への架け橋 世親もここから出発している)
唯識では阿頼耶識という無始以来のすべての有情の
記憶が(大脳新皮質と古皮質の問題と考えあわせると興味深い)存在し
それが末那識(いわゆる無意識層)に働きかけ
結果的に意識上に表象された(業によって影響されているが)世界
つまり、識転変こそが我々の認識のすべてである、世界そのものであるとする
業(行為)はまた、その阿頼耶識に沈潜されて上記のプロセスを経ることで
我々の業を形成し続け、無明の世界の我々の存在となる

308 ::2013/02/18(月) 17:11:43.21 ID:GSF+Udkf.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

本質というものは 「 時間に影響されずに永続する属性 」 という概念なので

「 その事象が過去のある時点で生じた 」 とは言えないはずである

「 時間に影響されずに永続する属性 」 と言うのなら

この時の流れの中の、ある時点において

「 苦しみが生じるということも起こり得ない 」 と言っていることになる

(中論24-22の意訳)

309 ::2013/02/21(木) 18:15:34.64 ID:HzeF0sSK.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし 「 苦しみに本質が有る 」 とするなら

その 「 消滅はあり得ないことになる 」 だろう

もし 「 本質による存在 」 を主張するなら

その者は 「 消滅を否定することになる 」 のである

(中論24-23の意訳)

310 ::2013/02/23(土) 11:56:30.61 ID:hVgO9eZO.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

四つの聖なる真実の第四の教えである
苦を滅させる為の禅定(道諦)が

(永久不滅 ・ 常住不変、そして他に依存する事のない)
本質を持っている、と言うのなら
それ自体の自性によって成立している、と言うのなら
因と縁によって果も報も現れない

苦を滅させる為の禅定(道諦)によって
苦を滅させる事が出来るのなら
因と縁によって果と報が現れるのなら
それ自体の自性によって成立しているのではない
(永久不滅 ・ 常住不変、そして他に依存する事のない)
本質を持つと言う事はあり得ない

(中論24-24の意訳)

311 ::2013/02/25(月) 01:49:32.91 ID:rDFrQIDz.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし仮に

五蘊(色受想行識)の仮和合したものによって現れる

苦しみも、それが生じるという事態も

消滅するという事態もまったく存在しないものであるなら

苦しみを消滅させるための方法も存在しないことになる

(中論24-25の意訳)

312 :Classical名無しさん:2013/02/25(月) 02:15:27.25 ID:ZATsOWhn.net
無神論
無仏論

313 ::2013/02/25(月) 02:36:09.91 ID:rDFrQIDz.net
 
>>311 の続き

縁起によって現れているものは

因と縁によって

五蘊(色受想行識)の仮和合によって

苦しみも、それが生じるという事態も

消滅するという事態も

そして、神も仏も

無我であり、縁起であり、空である

だからこそ現れる

と言う説明になります

314 ::2013/02/25(月) 21:58:09.43 ID:rDFrQIDz.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

例えば、もし仮に

人の無理解という本質があるとするなら

理解するということは成立しない

本質というものは

他に依存することなく

それ自体の自性で成立して

変わらずに永続してるものだから

(中論24-26の意訳)

315 :Classical名無しさん:2013/02/26(火) 22:44:07.21 ID:yOHG8ZQY.net
引用は良し
それで貴公はなんと捉えたのか
それを人々に示すが良い

316 :Classical名無しさん:2013/02/26(火) 22:52:23.07 ID:yOHG8ZQY.net
仏典とは
こうこう書いてあるだからこうせよという強制的なものではない
こうこう書いてあるだからどう思うという問いかけである
密教の阿字観、禅宗の座禅、
自分がどう観るという修行である
それがどう観える
それが問題である
ただの文字の羅列を並べても意味がない教えであるということを
ご理解いただきたい

317 :Classical名無しさん:2013/02/26(火) 23:04:24.91 ID:yOHG8ZQY.net
単純なことで
非常にシンプルなことだが
釈尊は仏典は読んでいない
仏典はあくまでも釈尊の悟りについて書き残しているものであるから
それを最重要視するのはいかがなものかと
仏典ももちろん大事なものではあるが
まずは釈尊の生き方を学ぶべきではなかろうか
教学を軽んずるわけではないが
それだけに止まってしまうことはもったいないことではなかろうか
同時に進めることは出来ないものであろうか
釈尊は頭でっかちではなく
生き方すべてで悟りを示していると
私は捉えている

318 :Classical名無しさん:2013/02/26(火) 23:23:45.69 ID:yOHG8ZQY.net
釈尊が何故偉大なのか
それは
誰もが比較的容易に悟りに至れるように説き残した方であるから
賢い方だったから
皆から慕われたから
超人だったから
それで崇拝されているわけではない
我々の誰もが釈尊の悟りまで行きつける道程を作られた方だからである
つまり
それが釈尊の慈悲である
それが大乗の拠り所である
我々の為に残していただいた命を正しく受けつがさせていただく
まだ釈尊の教えは生きているのである
己の良心を仏を灯火として怠ることなく修行して
釈尊の偉大なる慈悲の想いに応えようではないか

319 ::2013/02/26(火) 23:41:37.80 ID:toTp2NKn.net
 
> 密教の阿字観

今、現状としては、教学として 「 無我 ・ 縁起 ・ 空 」 を勉強をしてる段階ですが

その次の段階としては

無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の訓練としては

数息観とかも良いのかもしれませんね?
  _  _  _

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の訓練として

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

320 ::2013/02/26(火) 23:51:52.73 ID:toTp2NKn.net
 
http://satori.suisei.info/zazen6.html

数息観

簡単に言えば、数を数えましょう、ということです
楽な姿勢をとります

椅子に座っても、足を組んでも構いません
座布団を使っても使わなくても、落ち着いて座れる状態なら良いです

少し深呼吸しましょう
少し落ち着きましたか?では呼吸の数を数えていきます

ひとーつ、ふたーつでも、いーち、にー、さーんでも構いません

呼吸はコントロールしないでください
あくまでも自然な呼吸を数えます

呼吸は常に変化し続けています
長くなったり、短くなったり、重苦しくなったり軽やかになったり・・・

気にする必要はありません
ただ数を数えれば良いです

それ以外に考える必要はありません
ただ、呼吸に意識を集中して、数を数えてください

321 ::2013/02/27(水) 00:15:18.02 ID:Zmlhx1Lk.net
 
末那識(まなしき) 
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

無我 ・ 縁起 ・ 空の観察など
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法によって

中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
  _  _  _

だけど今の、私の現状としては 「 無我 ・ 縁起 ・ 空 」 を教学として勉強をしてる段階である、と言う事です

322 :Classical名無しさん:2013/02/27(水) 00:34:36.22 ID:9qowM46a.net
ダメだぁ・・・・こりゃ!

すべてが文字面に捉われている・・・・一度そんなものはかなぐり捨てて
実践するがいい。

323 ::2013/02/27(水) 01:26:30.36 ID:Zmlhx1Lk.net
 
どのような実践が出来るのか? 或いは出来ないのか?

わからないけど

とりあえず

叱咤激励、ありがとう、ございます
  _  _  _

礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ

普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ

地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ

  屮(_ ._)屮  屮(_ ._)屮  屮(_ ._)屮

324 ::2013/02/27(水) 01:38:59.34 ID:Zmlhx1Lk.net
              |:i\、  /:/|j.....-=:..:. ̄`ー──-...  /i |  /^i:|
              |:|  \j以´:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..刈 /"  |:|
           ....斗|¨゙ア´:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:.. \─‐:.|:|
       ..:..´:..:..:.| v" ... / ................... |................................:..:..:..:..:.、 :..:|:|:\
   ー=彡':..:..:..:..:.У:..:..:/:..:..:..:..:..:./ :. |:..:..:..:..:..:..ヽ:..:..:\:..:..:..:彡:.// :..: \
.     /:/:..:..:..:./:/:..:./:..:..:..:i:..:../:..:..∧::...:..:.|:..:..:.‘,:..: ‘:..:..:..:.. ∨:..:..ヽー一
    /〃:..:. //:/:..:..:|:..:.i:..:..|:.斗一:′:::::...: | ー‐-ミ:..:..:ハ:..:..:..: |::..:.::..:..\
.   /:イ : :::/イ7:..:..:..:i:..:.|/j∧| i..:′ ::::::. |\::..:..:|:\:.: |:..:i:..:..|:::::..::::..:..: \
    {/ :..:.::::/:..:..:i:..:.| :.. i..: |:../ x==ミ    \:.| x==ミi\::..::i:..:|:|:. i::::::::.\:..:..:..:
      |:.:::/| .:..:::|:.. |:..:. i /|/y"ノハ         ノハ ヾ\i:. iノ_/::::ヽ:::: |\:..:.}
      i: / :| .:.::::|: ∧:. 从 {i トii爿         トii爿 j} |:..:.|  } |、:ハ:: | j\}
      レ  :..:::/レ:::∧:.ム:.  弋::ツ       弋::ツ   :..:..| ノ:::i:::Y |:::|
        |..:/  i/::∧ ハ  .::/:::/::.    ,    .::/:::/::.  |:.. ハ:: リ:八:i:::|
        レ  |/ ゞ人                イ:./  ∨   jノ
             レ     >      `   ´    イ/ レ
                     r<j=-....._....-r≦
                _斗  ≧r:r=≦  ト、_
            /  ̄ | |   ー | |        | |  ̄ ヽ

闇に惑いし哀れな影よ人を傷つけ貶めて罪に溺るる業の魂わたしと一緒に逝ってみない?

叱咤激励の、お礼として可愛い女の子を貼り付けさせて頂きます  屮(_ ._)屮

325 :Classical名無しさん:2013/03/01(金) 16:38:05.89 ID:zjmUO1G0.net
保守

326 :Classical名無しさん:2013/03/03(日) 06:07:33.67 ID:46Ta+nd8.net
論語にも曰く

子曰わく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。

つまりなんだ。いくら書を紐解いてお勉強しても、実際にやって活かさなけりゃ
ダメということなのよね。

327 ::2013/03/03(日) 22:25:26.98 ID:HNqdyzQI.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし仮に

本質論者が言うように

「 事象が本質を持って存在する 」 と考えるなら

固執の放棄も、瞑想も

そして悟りへの四つの成果も

起こり得ないものとなるだろう

(中論24-27の意訳)

328 ::2013/03/03(日) 22:47:32.80 ID:HNqdyzQI.net
 
>>327 についての補足説明

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm#観法品第十八
中論觀法品第十八

一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ、と

人は五蘊(色受想行識)の仮和合によって現れている
それ自体の自性によって成立しているのではない、それ故に

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
  _  _  _

心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数、数

細々した心の働き。八識と相応して起るもの

329 :Classical名無しさん:2013/03/06(水) 08:26:32.09 ID:iOVLd6iQ.net
一切食う役

330 ::2013/03/06(水) 09:10:58.29 ID:a+iVvp01.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

本質は他に依存しないものである
「本質がある」とする本質論者にとっての「本質とは」

例えば
「時の流れに依存して変化する」と言う事もないので
「変化する前の状態」から「変化した後の状態」へと変化する、と言う事もないので

悟りに到達していないものは(その状態から変化する事はないので)
「悟ることのないもの」と言う事になる

この場合
悟りに到達していないものは
どういう方法で悟りに到達することができるというのだろうか

(中論24-28の意訳)

331 :Classical名無しさん:2013/03/07(木) 15:29:04.74 ID:dJjCYFQX.net
謝、利子

332 :Classical名無しさん:2013/03/08(金) 09:59:03.64 ID:OPuqjXFk.net
色は匂えど散りぬるを

333 :Classical名無しさん:2013/03/09(土) 09:26:01.48 ID:NHN+upCc.net
未在

334 :Classical名無しさん:2013/03/09(土) 15:37:30.76 ID:QJIZQo1b.net
有在

335 :Classical名無しさん:2013/03/09(土) 16:31:45.76 ID:NHN+upCc.net
苦災

336 ::2013/03/09(土) 20:21:36.70 ID:9TEPknBi.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

例えば、もし仮に
「 悟りという成果が存在しない 」 とするなら
「 悟った者も存在しない 」
「 悟りを求めて入門する者も存在しない 」
「 八種類の存在もない 」
「 仏教徒を助ける霊的(精神的)な共同体(サンガ)も存在しない 」 と言う事になるだろう

(中論24-29の意訳)

337 ::2013/03/09(土) 20:46:55.52 ID:9TEPknBi.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf
中論24-4の解説
八部
ブッダの教えを守護する八種類の霊的存在(神々)
法華経などに見られる
1).天
2).龍神
3).夜叉
4).乾闥婆(けんだつば)
5).阿修羅
6).迦留羅(かるら)
7).緊那羅(きんなら)
8).摩候羅伽(まごらが)

338 :Classical名無しさん:2013/03/09(土) 21:05:37.93 ID:QJIZQo1b.net
人非人等身得度者
即皆現之而為説法
応以執金剛神得度者
即現執金剛神而為説法無尽意
是観世音菩薩
成就如是功徳

天界から下界すべての者は救われる可能性を持っている
それに向かうか向かわないかは
それぞれの自主性に任せられている
貴方が行きたい方へ行くがいい
それが仏の教えである

339 :Classical名無しさん:2013/03/09(土) 21:41:10.27 ID:QJIZQo1b.net
間違えないで欲しい
八部衆以外の人、非人の存在価値を
それは仏典にあるものであるから
我らを無視しないで欲しい
貴方も我らであるのだから

340 :Classical名無しさん:2013/03/10(日) 08:19:36.10 ID:O82In7Mn.net
33応身

341 :Classical名無しさん:2013/03/11(月) 08:07:18.01 ID:4dfDoOEG.net
ねんP

342 :Classical名無しさん:2013/03/12(火) 09:31:34.77 ID:sLKuLizY.net
まんP

343 :Classical名無しさん:2013/03/12(火) 21:40:35.30 ID:FqnyWiz0.net
かんのんさま      まぁイヤラシイ!

344 ::2013/03/13(水) 02:14:47.18 ID:/fA1BqLU.net
 
http://www.alpen-route.com/know/history/index.html
立山開山の伝承 : 霊山立山・山岳信仰のあらまし

345 ::2013/03/13(水) 03:05:40.42 ID:/fA1BqLU.net
 
http://omaturitanosii.blog41.fc2.com/blog-entry-57.html

広島県廿日市市宮島町にある大聖院の弥山本堂と不消霊火堂

厳島神社で有名な、広島県の廿日市市宮島町の弥山

弥山の山頂付近の弥山本堂

346 ::2013/03/14(木) 02:28:25.99 ID:/kWZKQB0.net
 
出雲大社
http://www.izumo-kankou.gr.jp/676

347 ::2013/03/15(金) 08:21:30.91 ID:QNnnPKIZ.net
喝の他には咄もあり、また嗟なんてのもある

348 ::2013/03/15(金) 12:33:02.39 ID:NuJhRvn9.net
 
喝(かつ)
禅宗で、修行者をしかるときなどに大きな声で発する語
相手を制止するため大声でどなる。「喝破/一喝・大喝」
やんやと声を掛ける。「喝采(かっさい)」
おどす。「威喝・恐喝・恫喝(どうかつ)」

咄(とつ)
舌打ちする音。「咄嗟(とっさ)・咄咄」
〈はなし(ばなし)〉落とし話。「咄家(はなしか)/小咄・三題咄」
《舌打ちの音から》
激しくしかるときに発する語。ちょっ。「―、国賊」〈木下尚江・良人の自白〉
事の意外さに驚き怪しむときに発する語。
舌打ちの音やしかる声を表す語。ちょっ。 「 −,この乾屎橛(かんしけつ)/草枕 漱石」
呼びかける語。
驚きあやしむ語。さてさて。

嗟(さ)
[訓]ああ
舌打ちの音。「咄嗟(とっさ)」
嘆く。「嗟嘆/怨嗟(えんさ)」
[難読]嗟乎(ああ)

349 :Classical名無しさん:2013/03/16(土) 08:06:26.92 ID:0gjI4geC.net
道とは修行のこと

350 ::2013/03/16(土) 14:28:25.53 ID:CcJPm7eJ.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

聖なる真実が非存在だということになれば

真実の教義(正法)も存在しないということになるだろう

もし教義(法)も霊的共同体も存在しないならば

ブッダはどのように出現し得るというのだろうか(中論24-30)

四つの聖なる真実がまったく存在しないなら、真実の教え(ダルマ)は存在しないことになる

もし真実の教えも霊的共同体(サンガ)も存在しないなら

ダルマとサンガによってこそ得られる悟りの体現者であるブッダたちも

やはり現れることがないであろう(中論24-30の意訳)

351 ::2013/03/16(土) 14:40:46.23 ID:CcJPm7eJ.net
 
>>350 中論24-30の補足

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf
ここでう「真実の教義/教え」というものも
形而上学的な意味での「絶対的」な真実ではないことに注意すべきである

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

  −  これに対して  −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた

352 ::2013/03/16(土) 22:30:43.89 ID:CcJPm7eJ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3

止観とは仏教の瞑想のことである。
サンスクリット語から「奢摩他(サマタ)・毘鉢舎那(ビバシャナ)」と音訳されることもある。
一般的な意味としては「禅」、あるいは坐禅(座って行う瞑想)と同義である。

明確には禅という用語は梵語の音写である禅那(ゼンナ)を縮めたものであり定(じょう)・静慮と訳され、
仏教での位置づけと一般での理解とはずれが存在する。

仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。
止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。

観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、
事物を真理に即して正しく観察することである。

このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。
「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。

止観の語は、特に天台宗において多用される。
天台智の『天台小止観』や『摩訶止観』といった書物は、
坐禅の詳細なマニュアルであり、天台宗だけでなく禅宗においても参照される。

関連項目
坐禅
瞑想
ヨーガ
ヴィパッサナー瞑想
サマタ瞑想

353 :Classical名無しさん:2013/03/17(日) 00:40:54.49 ID:qj0cQ2w3.net
能書きはいいから
はよ、坐れ

354 ::2013/03/17(日) 01:42:11.47 ID:7rRZ9qoB.net
 
能書きはいいから,はよ,坐れ

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

これまであなたたちは、
永久不滅・常住不変のアートマン : バラモンなどの輪廻を土台として
善行に励み、永遠ばかりを探してきた。
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない。
あなたたちは:無我・縁起・空:を観察する為の練習が必要だ。

およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。
舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、
鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、
すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。

355 ::2013/03/18(月) 03:28:43.99 ID:jgvzi0x7.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

四つの聖なる真実がまったく存在しないなら
真実の教え(ダルマ)は存在しないことになる
もし真実の教えも霊的共同体(サンガ)も存在しないなら
ダルマとサンガによってこそ得られる悟りの体現者であるブッダたちも
やはり現れることがないであろう

もし仮に何かが 「 それ自身の本質から生じてくる 」 とするのなら
「 それ自体の自性によって成立している 」 とするのなら
  _  _  _

あなたがたにとっては、ブッダは
悟りとは別のものとして生じることになる
そしてあなたがたにとっては、悟りは
ブッダとは別のものとして生じることになる(中論24-31の意訳)

あなたがたにとっては、本質において
まったく悟っていない者は
悟るための修行をしてもなお
悟りに到達できないことになる(中論24-32の意訳)

356 ::2013/03/18(月) 03:46:45.07 ID:jgvzi0x7.net
 
>>355 の補足

ブッダは
因からの依存と
縁からの依存によって
現れている

  −  これに対して  −

因と縁によって依存する事のない
それ自体の自性によって成立しているものは
悟りに至る道筋・四聖諦に依存する事は出来ない

357 ::2013/03/19(火) 01:02:26.94 ID:/bTlWkSh.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

さらにまた人は
正しい行為(法)も
間違った行為(非法)も
けっして行うことはできないであろう
もしすべて(これ)がまったく空でないものなら
人は何を行い得るだろうか
本質というものは生じることができないのであるから(中論24-33)

そして(本質が存在するという立場に立てば)
人間は正しいものであれ間違ったものであれ
いかなる行為(カルマ)も行い得ない
(し、そのカルマに見合った結果も生じ得ない)ことになる
もしすべての事象が空でなく、本質を持った実体ならば
人間はいったいどんな行為ができるというのだろうか
本質というものは生じることができないもの
(なのに、行為というものはそれを行わない状態から行っている状態へと生じるもの)
だからである(中論24-33の意訳)

358 ::2013/03/19(火) 01:32:59.59 ID:/bTlWkSh.net
 
>>357 の補足

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

例えば,もし仮に

「 それ自身の本質がある 」 とするなら

(空性を否定するなら)

「 因と縁に依存する事がない 」 とするなら

「(因と縁によって)生じるということもあり得ない 」 ということである(中論24-22の意訳)

359 ::2013/03/19(火) 21:13:34.05 ID:qQcQKPzG.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

あなたがたにとっては
正しい行為からも間違った行為からも
結果(果報)は生じないことになるだろう
もし結果が正しい行為か間違った行為から生じるものなら
あなたがたの説によれば、そんなものは存在しないことになるだろう(中論24-34)

もし結果は
正しい行為か間違った行為から
生じるのだとあなたがたが言うのなら
正しい行為や間違った行為から生じたというのに
どうしてその結果が空でないことになり得るのだろうか(中論24-35)

(あなたがた本質論者にとっては、正しい行為も間違った行為も
それに従った結果というものが生じないことになる。何らかの結果が
−−正しいものであれ間違ったものであれ−−
何らかの行為から生じるということは、原因に依存して結果が生じるということであるが
あなたがたにとってはそうした因果的依存関係自体が存在しないことになる
しかし空を否定する)あなたがたがもし(仮に因果関係というものを認めて)
結果というものは何らかの正しい行為なり間違った行為なりから生じるのだと言うのなら
そのように正しい行為や間違った行為に依存して結果が生じたというのに
どうしてその結果が空−−依存的に生じるもの−−でないなどと言い得るだろうか(中論24-34・35の意訳)

360 :Classical名無しさん:2013/03/20(水) 08:13:30.86 ID:f6/kPR/K.net
業とは行為なり

361 ::2013/03/20(水) 10:36:38.60 ID:w1kedW9z.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵(karman)を意訳したもの。
サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である
「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。

業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、
輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、
心の流れ(心相続)に付随するものとされた。
中国、日本の思想にも影響を与える。
「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。

釈迦以前の業
釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、
様々な自由思想家たちがあらわれていた。
かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、
様々な思想哲学を生み出し、
業、輪廻、宿命、解脱、認識論などの思想が体系化されていった。

この中に業の思想も含まれていたのである。

バラモン教の業
業はインドにおいて、古い時代から重要視された。
ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、
紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

362 ::2013/03/20(水) 10:46:39.54 ID:w1kedW9z.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、
意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
真我とも訳される。

最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、
アートマンは個の中心にあり認識をするものである。
それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。

ウパニシャッド
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、
「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
その属性を「…である」と定義することはできないという。
したがって、「…である」ものではない。

また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。

ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。

仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。
無我を知ることが悟りの道に含まれる。

関連項目
中観派
唯識派
密教
我思う、ゆえに我あり

363 ::2013/03/20(水) 11:16:56.12 ID:w1kedW9z.net
 
>>362 の続き

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を

:無我・縁起・空:の観察によって悟りへの道に導く為に

およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます
腹の底からゆっくりと息を吐き
すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

364 :Classical名無しさん:2013/03/21(木) 08:05:51.34 ID:i83JzhLn.net
煩悩=無明=覆=惑=自我執着

365 ::2013/03/21(木) 09:32:51.64 ID:rb2pHdoo.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。
また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
法性(ほっしょう)に対する言葉である。

仏教では十二因縁の根源に無明をおく。
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、
初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。
この四諦、八正道を知らないことも無明である。

たとえば、闇(やみ)について、
多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。
しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。
闇がどこか別のところに移動したわけではない。
つまり、闇は始めから存在しなかったということである。
闇は「光の欠如」ということであって、
闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。

精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。
智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。
苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。

実際には無いものを有ると考えるのは無明である。

366 ::2013/03/21(木) 11:25:19.43 ID:rb2pHdoo.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし依存的に生じることが否認されるなら
空性それ自体が否定されるのである
そうなればこの世のすべての現象/慣わしを
否定することになるだろう(中論24-36)

もし依存的に生じることが否定されるなら
(結果が原因に依存するという因果関係も否定されるのであり)
依存的なあり方として定義される空性それ自体も否定されることになる
そうなるとこの世のすべての現象を否定することになるだろう(中論24-36の意訳)

367 ::2013/03/22(金) 07:39:54.64 ID:GDuBt1Oj.net
                       ___
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368 ::2013/03/22(金) 18:36:33.37 ID:GDuBt1Oj.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし空性それ自体が否定されるなら
いかなる行為も妥当でないものとなるだろう
行われなかった行為が存在し得ることになるだろうし
行為者のない行為が存在し得ることとなるだろう(中論24-37)

もし空性それ自体が否定されるなら、どんな行為も矛盾した、意味のないものとなってしまう
(空でないということは
どんな行為もそれ自体が永遠の本質を持って最初から存在しているということだから
行為は「生じなかったもの」なのであり、生じなかった行為、つまり)
行われなかった行為などというものが存在することになってしまう。また
(空でないということは、行為者と行為とが別々の本質をもってそれぞれ存在しているわけだから)
行為者がいないのに行為だけ存在する、という事態だってあり得ることになる(中論24-37の意訳)

369 :Classical名無しさん:2013/03/23(土) 08:41:04.76 ID:rLCoNZzb.net
実在したの仏陀は釈迦ただ1人

370 :Classical名無しさん:2013/03/23(土) 20:54:29.51 ID:VV6bTbAg.net
お釈迦さまの遥か以前に、6人の仏陀がいたといわれている。

『七佛通解偈』

371 :Classical名無しさん:2013/03/24(日) 08:11:21.28 ID:c0LLrxZa.net
ヒント:仏陀というタームの意味、内容、定義の変遷

372 ::2013/03/24(日) 11:25:36.64 ID:OjW4FvzV.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もし本質が存在するなら、世界全体は

生じることもなく、滅することもなく

静止したものとなるだろう

現象界全体が

不変のものとなるだろう(中論24-38)

373 ::2013/03/24(日) 12:31:54.70 ID:OjW4FvzV.net
 
サンガジャパン Vol.5 (2011Spring)
www.amazon.co.jp/product-reviews/4904507762/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

サンガジャパン Vol.9 (2012Spring)
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サンガジャパン Vol.10 (2012Summer)
www.amazon.co.jp/product-reviews/4905425158/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

374 ::2013/03/24(日) 13:38:55.26 ID:OjW4FvzV.net
 
> 自相続

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
業(ごう)はkarmanを意訳したもの。「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ 『 心相続 』 に付随するものとされた。

釈迦は自ら
「比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった」
と言ったといわれるように、カルマ(業)論の主張者であった。
しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、
心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。

「 比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。 」 — 『中部経典』 (Majjhima-Nikāya)

375 :Classical名無しさん:2013/03/25(月) 08:08:28.07 ID:E0gi40BN.net
@識→(縁に依り影響を与える)→境
A境→識

@とAは同時に起こる
これを同時恒互因果という

376 ::2013/03/25(月) 14:39:56.10 ID:70mKVEPu.net
 


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも
とりあえず 『 心の働きは存在する 』 と仮設して
瑜伽(ヨーガ)の実践によって
心の働きを制御して変化させて
悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)

仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり
最終的にその心的作用も否定される
(境識倶泯 きょうしきくみん − 外界も識も消えてしまう)

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起
つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える

唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり
心の外に事物的存在はないと考えるのである

これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または
唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という

377 :Classical名無しさん:2013/03/26(火) 08:16:11.89 ID:kg8vPg/8.net
アーラヤ識にて起こる種子、つまり現象の要因たる因子の作用は3つに分かれる
すなわち
@種子生種子
A種子生現行
B現行熏種子
@によって時間が成り立ち、Aによって境が成り立ち、Bによって識が成り立つ

378 ::2013/03/26(火) 15:01:52.44 ID:b/B14Bia.net
 
第一能変
異熟というのは、
阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、
あらゆる種子 (biija) を内蔵している。
感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。
感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。
感触その他もまた、同様である。
そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

第二能変
末那識 (mano naama vijJaana) は、阿頼耶識にもとづいて活動し、
阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。
我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、
我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。
なかでもとくに、
当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。
さらにその他に感触などを随伴する。

この末那識は自我意識と呼んでもよい。
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

この末那識と意識によって、思量があり、
その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。

379 :Classical名無しさん:2013/03/26(火) 15:03:04.29 ID:24Uz2jne.net
幸福の科学学園から2名が東大に合格☆

380 ::2013/03/26(火) 15:07:13.68 ID:b/B14Bia.net
 
第三能変
了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。

六識は、それぞれ眼識が色(しき、ruupa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、
身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。
そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じたものである。
そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、
我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。

これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、
同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。
それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。

識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。
その際に、阿頼耶識に余習を残す。
それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、
「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。

381 ::2013/03/26(火) 15:27:41.30 ID:b/B14Bia.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

もしそれ(世界)が空でないなら
行為には何の益もないであろう
苦しみを終わらせる行為と
苦悩と煩悩を捨てる行為は存在し得ないだろう(中論24-39)

もしすべての事象が、つまり世界が空でないのなら
何かを行うということ自体が無意味なことになってしまう
(変化は存在しないのであるから)
苦しみを終わらせようと考えて行動することは無意味であり
煩悩を捨てようと努力する行為は
それ自体存在すらしないものとなってしまう(中論24-39の意訳)

382 :Classical名無しさん:2013/03/27(水) 06:01:31.82 ID:Y96CAmZ7.net
統合失調妄想

383 :Classical名無しさん:2013/03/27(水) 10:54:12.27 ID:WrC6Xljg.net
民を憐れんで

384 :Classical名無しさん:2013/03/28(木) 08:53:04.43 ID:qtc/QxFe.net
狂人といえばルソー

385 :Classical名無しさん:2013/03/28(木) 09:09:14.48 ID:4F6CCeYK.net
*

386 ::2013/03/28(木) 09:55:42.46 ID:zK8caad2.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

依存的に生じること(縁起)を理解する者は誰であれ
苦しみ(苦諦)をも理解しそして
それが生じるということ(集諦)を理解しそして
その方法(道諦)とともに
それが消滅するということ(滅諦)を理解するのである(中論24-40)

すべての事象が何か他の事象に
(最終的には概念に)依存して生じるということを理解する者は
苦しみが生じるということを理解できるのであり
四つの聖なる真実の第一のものである「生存はすべて苦しみである(苦諦)」ということを理解できるのである
また、第二のものである「苦しみには原因があって生じてくる(集諦)」ということも理解できるのであり
第四のものである「苦しみを克服する方法が存在する(道諦)」ということも
第三のものである「苦しみが完全に止んだ状態があり得る(滅諦)」ということも理解できるのである(中論24-40の意訳)

387 :Classical名無しさん:2013/03/29(金) 09:02:57.13 ID:DVoE0sCU.net
この身すなわち仏なり

388 ::2013/03/29(金) 12:06:57.29 ID:ZWEOfE7G.net
 
> この身すなわち仏なり

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという

解脱してあなたたちは思う
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし、(「解脱すれば仏だ」と言う事に)気づくまでは、気づくことは難しい

悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる
悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる

389 ::2013/03/29(金) 19:52:49.02 ID:ZWEOfE7G.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/大蔵出版 (2010/05)

104〜105ページ

輪廻・環境世界(器世間)

以前に存在した世界が崩壊し尽くす時期(壊劫)が終わると

次に何も存在しない無の時期(空劫)が続き

そのあとに,次の世界が成立する時期(成劫)が登場します

そして,その世界が存続する時期(住劫)が続いて

再び崩壊の時期が訪れて

そこにいた生き物たちと環境世界が消滅する

この四つの期間がそれぞれ非常に長い時間をかけて無限に循環している

と言われてます …

390 ::2013/03/29(金) 20:45:40.50 ID:ZWEOfE7G.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804612718/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ブッダのことば パーリ仏典入門/片山一良/大法輪閣(2008/06)

151ページ

いつの日か,長い時間が経過して

この世界が破壊するときが現れます

世界が破壊するとき

生きるものたちは,ほとんどが光音天に転生するものとなります

かれらは,そこで,意から成るもの … (その他,色々なもの)として

永く,長時にわたりとどまります
  _  _  _

意から成るもの
肉体を伴わずに意識だけで異蘊相続しているもの

391 ::2013/03/30(土) 00:44:37.22 ID:H/sl+W9C.net
 
宗教と精神疾患4
http://logsoku.com/r/entrance2/1356339768/

輪廻転生と人格障害
http://www.logsoku.com/r/entrance2/1338784341/

392 ::2013/03/30(土) 01:14:37.01 ID:H/sl+W9C.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/大蔵出版(2010/05)

101ページ

「無明」(根源的無知)の障りを持つ者は

再び輪廻に生まれるための

三種の「行」(行為)を実際になし

それらの業によって,生存の場所に赴く(中論26-1)
  _  _  _

それ自体の自性によって成立しているのではなくて

因と縁によって

異蘊相続によって

輪廻を繰り返している
  _  _  _

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

393 ::2013/03/30(土) 17:29:39.51 ID:v5HDPXMB.net
 
仏教 議論スレッド 63
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1364123712/692

692 サロメ☆ボウディアさんへ
> 内容が輪廻否定だったのでちょっと驚きました^^;

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には

永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を

 ☆ 無我 ・ 縁起 ・ 空 ☆ の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』

その為に

自我も,如来も,輪廻に囚われている,心の働きも,滅させる,必要がある

と言う意味だと思います

394 ::2013/03/30(土) 21:07:29.30 ID:v5HDPXMB.net
 
http://www.asahi.com/area/shimane/articles/MTW1303303300005.html

2013年3月30日

島根県立古代出雲歴史博物館は28日、

江戸時代初めの1609年に豊臣秀頼が造営した

出雲大社の詳しい見取り図や仕様書などが新たに見つかったと発表した。

当時の社殿は豊臣家滅亡後に徳川家が解体し、

これまでその詳細は不明だった。

395 :Classical名無しさん:2013/03/31(日) 09:04:45.19 ID:UmPnbZO6.net
境とは名色

396 ::2013/03/31(日) 11:25:58.12 ID:0ct1dON8.net
 
> 境とは名色

http://www.ab.auone-net.jp/~engikan/resume/2011-10-20.pdf

(5)
識は名色に縁たり「識を条件として名色が生じます」。
「名」は無形のもの、「色」は有形のものです。
「名色」については、二つの説がありました。
ひとつは「名色」を五蘊と見る説です。
すなわち「名」は心で、
感受作用(受蘊)、表象作用(想蘊)、意思作用(行蘊)、認識作用(識蘊)、
「色」は身体で、感覚作用(色蘊)です。

もうひとつは、 ☆ 「名色」を六境と見る ☆ 説です。すなわち、「色境、声境、香境、味境、触境、法境」です。

私は、十二因縁の論理の流れから見て、「名色」を六境と解釈するほうがよいと思います。

397 :Classical名無しさん:2013/04/01(月) 09:30:45.77 ID:rPAtH9Xx.net
識と境は三性の内の偏計所執性と、依他起性より生じる

398 ::2013/04/01(月) 11:36:42.92 ID:+bu/xZep.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

1).遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫の日常の認識
2).依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
3).円成実性(えんじょうじっしょう) 絶対的存在、完成された存在

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である

依他起性(えたきしょう)
相対的存在であり、構想ではあるが
物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである
阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども
すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば
識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である

因と縁によって現れ
因と縁によって滅する
『それ自体の自性によって成立しているのではない』『空である』

円成実性(えんじょうじっしょう)
仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである
依他起性から
その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である

399 ::2013/04/01(月) 12:46:21.32 ID:2suZBkwS.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ学派
プルシャはプラクリティの展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した 『 理性、自我意識などを主体である 』 と思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない 『 実体がある 』 とした

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku88/B088R001.pdf
異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 絶対不滅・常住不変のアートマン
経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮設する

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku90/B090L031.pdf
実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ
また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く

400 ::2013/04/02(火) 03:50:22.04 ID:/lFQ7aYN.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C

霊界(spirit world)とは、
死後に霊ないしそれに類するものが行き着くとされる世界。死後の世界。
精神の世界。非物質世界。

霊界という言葉が意味する内容は個々人や信仰(宗教的立場)によって異なる。

一般に霊界といった場合は前者の意味で用いられることが多く、
あの世や後世や死後世などの表現でも呼ばれている。
伝統的な宗教の中には、
死者が存命中にこの世で行った善悪の行いや信仰心などに応じて、
行き先が天国と地獄に分かれるとするものもある。
また近年では、霊界は階層状の世界であり、
魂の状態に応じてふさわしい層に行くとも言われるようになった。

古代ギリシャの哲学者ではプラトンが霊界が存在していると述べ、
あの世の様子についても語った。

不可知論の立場では、
死後の世界については、あるにしてもないにしても、
人間の認識能力では知ることはできないと考える。

インドの仏陀は、死後の世界があるとも無いとも語らず、
それよりも、
いま苦しんでいる人の苦しみを取り除くことが先である、
と述べた。
こうした姿勢は無記と呼ばれている。

401 ::2013/04/03(水) 04:02:53.45 ID:XeqVrIZo.net
 
軍荼利明王/一面三目八臂
http://otanews.livedoor.biz/archives/51939889.html

402 :Classical名無しさん:2013/04/04(木) 08:15:38.75 ID:e7fwdJl6.net
空=縁起=浄土=涅槃=仏陀=悟り

403 :Classical名無しさん:2013/04/05(金) 08:14:29.70 ID:lh+Cd+rQ.net
びるしゃな仏=大日如来

404 :Classical名無しさん:2013/04/06(土) 10:32:24.23 ID:L4I4JnW6.net
三大経典宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)は全て神が作ったものだが、
仏教は仏陀が作ったものではなく、仏陀が発見したもの、である

405 :Classical名無しさん:2013/04/07(日) 09:28:46.86 ID:wa6hu0/D.net
過去仏は仏教の唱導者にはならなかった
つまり、仏陀の意味は釈迦から再定義されることになる

406 ::2013/04/07(日) 14:32:03.49 ID:51LpXFrF.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F

真言宗などの密教における
「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏(マハー・ヴァイローチャナ))は、
大日如来と呼ばれ、成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説がある。

仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名。
同様に、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名であり、
鑑真が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻として貴重な存在である。

407 ::2013/04/07(日) 14:41:34.17 ID:51LpXFrF.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9

バラモン教
インドで紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼である。

仏教
仏教には釈尊入滅から約500年後に発生した大乗仏教の成立の過程でバラモン教から取り入れられた、と考えられている。
そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、釈尊の直説に近いとされる上座部仏教には存在しない。
おもに天台宗、真言宗で行われる。
なお、専ら護摩を修するための堂を「護摩堂」(ごまどう)と称する。

護摩の実際
護摩の炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れ(護摩焚き)、
火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。
火の中を清浄の場として仏を観想する。

護摩の種類
(1) 護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願する外護摩と、
(2) 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩とがある。

また、その個別の目的によって一般的には次の五種に分類される。

1.息災法(そくさいほう)…災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象。
2.増益法(そうやくほう)…単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象。
3.調伏法(ちょうぶくほう)…怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う。
4.敬愛法(けいあいほう)…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法。
5.鉤召法(こうちょうほう)…諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法。

408 :Classical名無しさん:2013/04/08(月) 09:53:58.90 ID:mrZPW16S.net
禅は邪教ではないが、異端である

409 ::2013/04/08(月) 16:17:07.98 ID:4cEZQlu9.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4905425239/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)
田口ランディ,吉福伸逸,石飛道子,葛西賢太,熊倉敬聡,渡辺郁夫,星飛雄馬,藤本晃,佐藤哲朗,内田樹
為末大,名越康文,プラユキ・ナラテボー,篠浦伸禎,ネルケ無方,加藤俊朗,鈴木秀子,ティク・ナット・ハン,サンガ編集部

アルボムッレ・スマナサーラ
瞑想による悟りへの道
正念と正知
気づき
随観 − サティの実践 ・ 四念処
身随観
受随観
心随観
法随観
無常随観 ・ 不浄観
サマーディ瞑想法とヴィパッサナー瞑想法
無執着
解脱を目指す

410 ::2013/04/08(月) 16:48:22.33 ID:4cEZQlu9.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85

中国では禅定が同義語。
類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。
「禅」あるいは「定」という概念は、インドにその起源を持ち、
それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。

ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、
部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、
大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、
仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

ディヤーナを現代語で和訳すると瞑想となる。
ちなみにヨーガ(yoga)も意訳すれば瞑想とされる(音訳は瑜伽)が、
本来は心を調御して統一に導くことをいう。

瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、
禅は不立文字を強調するため、瞑想と禅は異なる物として区別される。

411 ::2013/04/08(月) 17:15:25.69 ID:4cEZQlu9.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4905425239/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)

アルボムッレ・スマナサーラ

<瞑想の手引> 感覚に対する無執着

正知はどのように育てるのか,よく理解すること

サティの実践 − 随観 ・ 四念処

感覚にとらわれない

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81
四念住(四念処)四種の観想
身念住(体をあるがままに観察する)→わが身は不浄であると知る
受念住(受をあるがままに観察する)→感受は苦であると知る
心念住(心をあるがままに観察する)→心は無常であると知る
法念住(法をあるがままに観察する)→諸法は無我であると知る
  _  _  _

『あるがまま』と言うのは『煩悩そのままで』と言う意味ではなくて
無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって
想受滅(滅尽定)によって

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて
想受滅(滅尽定)によって,受、想、行を滅させる
と言う意味だと思います

412 :Classical名無しさん:2013/04/09(火) 09:48:48.77 ID:e0mYW8NK.net
三宝帰依にいう仏法僧の僧は、師匠ではなく教団のことである

413 ::2013/04/09(火) 15:36:53.03 ID:jtCCVbzK.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D

三宝とは、仏教における3つの宝物を指し、具体的には仏・法・僧(僧伽)のこと。
この三宝に帰依することで仏教徒とされる。
3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。

三宝にも上記の他にもさまざまな理解がある。

上座部仏教においては、涅槃を独自に発見した「仏」(釈迦)、その仏の説いた教え「法」、
その教えを受けることで四向四果に達した者の集団である「僧伽」、であるとされる。
ただし、一般には出家僧の集団がサンガと同一視される。
大乗仏教においては、悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)、
仏の説いた教えを集大成した「法」、法を学ぶ仏弟子の集団である「僧」、といった理解がもっとも一般的である。
ほかに、「仏」を仏像、「法」を経巻、「僧」を出家者、と捉える理解もある。
ただし絶対神に対する「信仰」が基礎となるアブラハムの宗教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教と違い、
仏教においては三宝に対する「帰依」(拠り所にするという意味)が強調される。
なお、中国や日本では出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じて、
本来の僧伽とは違った意味で用いられるようになる。(詳細は僧を参照。)

聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」には、
第二番目の条項に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という文言がみられる。

また、大乗の『大般涅槃経』では、仏・法・僧の三宝は一体であって本来は区別されるものではなく、
如来常住を説く法もまた常住であり、僧もまた常住である、と説く。
また、そのために如来は一帰依処として三宝に差別(三差別)は無いと説いている。

414 ::2013/04/09(火) 15:56:18.40 ID:jtCCVbzK.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

感覚感情(感受/受)によって条件づけられた(感覚を原因とした)ものが渇望/欲求(渇愛/愛)である
渇望/欲求は感覚感情のせいで生じる
それが生じるとき、固執/掴むこと(取)も生じる
四つの種類の固執/掴むことである(中論26-6)

(快、不快、どちらでもない、という)感覚をともなった感情が原因で(快い状態を得たい、不快な状態から離れたいという)渇望が生じる
渇望が生じると、同時に(誤ったあり方を掴んで離さないような)固執も生じる
それが
(感覚的快楽に固執すること〔欲取 よくしゅ〕
・誤った見解に固執すること〔見取 けんしゅ〕
・誤った戒律に固執すること〔戒禁取 かいごんしゅ〕
・自己に固執すること〔自己や所有物を実体的にとらえること 我語取 がごしゅ〕の)四つの種類の固執である(中論26-6の意訳)

415 ::2013/04/09(火) 16:05:25.53 ID:jtCCVbzK.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

固執/掴むことが存在するとき
固執する者/掴む者(有)が存在として立ち現れてくる
もし彼が掴まなかったら
そして解放されているなら
彼は存在としてやって来ないだろう(中論26-7)

(欲望や誤った見方への)固執が現れると、その固執の主人である「固執する者」も現れる
もし彼が欲望などにとらわれなければ、悟って輪廻から解脱しているならば
彼が人間として生まれてくることはないであろう(中論26-7の意訳)

固執する者/掴む者(有)というのは、輪廻における生存者のことである

416 :Classical名無しさん:2013/04/09(火) 18:59:24.37 ID:/6rwVj5x.net
supake-
EXVS特有のクッソ弱い隠者のUSB中佐
ザコすぎてくっそわろたwwwww

417 : 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:10) :2013/04/09(火) 19:00:26.76 ID:ACH09fVz.net
あぁ

418 :Classical名無しさん:2013/04/10(水) 08:14:25.10 ID:hwcmOda9.net
菩薩は病気を持っている

419 :Classical名無しさん:2013/04/11(木) 02:18:13.32 ID:vWN/aSDK.net
仏教があるのは、なぜですか?
世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?

420 ::2013/04/11(木) 03:39:45.57 ID:JKggYvOy.net
 
> 仏教があるのは、なぜですか?
> 世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観如来品第二十二(十六偈)

中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二

諸法の実相は、性空であるが故に、如来の滅後を、こう思惟してはならない
有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と

如来は本より、畢竟じて、空なのだ
況して、滅後は言うまでもない

如来は、戯論を過ぎるが、而し

人は、戯論を生ずる
戯論は、慧眼を破る

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観四諦品第二十四(四十偈)

中論觀四諦品第二十四

衆因縁より、生ずる法を、わたしは、『即ち、是れは空だ!』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる

是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である!但だ

衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた

421 ::2013/04/11(木) 03:46:17.58 ID:JKggYvOy.net
 
> 仏教があるのは、なぜですか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

仏教はインドの輪廻と解脱の考えに基づいている。

人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。

その苦しみから抜け出すことが解脱であり、

修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

422 ::2013/04/11(木) 03:53:09.84 ID:JKggYvOy.net
 
> 世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E9%9C%8A

幽霊とは、

死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの
死者の霊が現れたもの

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81

加持(かじ)

密教においては、
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」、
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し、

双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる

423 ::2013/04/11(木) 04:00:05.31 ID:JKggYvOy.net
 
> 世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?

瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される

そして、やがて

その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る

424 :Classical名無しさん:2013/04/11(木) 09:18:52.38 ID:braKy1rB.net
生霊追い払う儀式やったら体調よくなった
やっぱり人まかせじゃだめだね

425 ::2013/04/11(木) 15:01:10.44 ID:JKggYvOy.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%9C%8A

生霊とは
生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの
対語として死霊がある

人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており
多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている
広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが
実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり
死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり
親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる

426 ::2013/04/11(木) 15:19:51.72 ID:JKggYvOy.net
 
> 生霊追い払う儀式やったら体調よくなった

霊を成仏させるなら密教寺院の護摩修法とかが,おすすめ

自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩
調伏法(ちょうぶくほう)…怨敵、魔障を除去する修法
悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う
敬愛法(けいあいほう)…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法

密教においては
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
(仏と衆生の)双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる

427 ::2013/04/11(木) 15:43:12.98 ID:JKggYvOy.net
 
仏教 議論スレッド 64
http://www.logsoku.com/r/psy/1364729409/137-139

137 : 神も仏も名無しさん[] :投稿日:2013/04/01 22:36:15 ID:4SFlHl/w [4/5回]
サロメ霊界というのはあるの?

139 : サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c [] :投稿日:2013/04/01 22:41:23 ID:P/DS0G3k [13/19回]
バルドは中有 輪廻が決まるまでの一時的な過程だから
仏教的には霊界はないと思います
私個人も霊界は信じません キリスト教では生まれ変わりの概念はないですから

428 ::2013/04/11(木) 16:03:36.49 ID:JKggYvOy.net
 
>>427 の続き

預流に至ってない段階
預流に至った段階
一来に至った段階
不還に至った段階
応供に至った段階阿羅漢

 ↑ それぞれの段階に対応した霊界の可能性がある

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
預流 - 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。須陀洹を指す。
一来 - 一回人と天の間を往来して悟りに至る位。斯陀含を指す。
不還 - 欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。阿那含を指す。
応供 - 供養を受けるにふさわしい者で、今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れない位。阿羅漢を指す。

429 :前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/11(木) 16:45:21.89 ID:V/sZCJX6.net
落武者の霊をはっきりと見た貴兄と、日々霊動現象を目撃している私は、八識や九識に見方も
他の仏教徒や関係者とは異なるのも当然でしょう。

また、何かアップされた際は声をかけて下さい。

430 :前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/11(木) 16:53:34.27 ID:V/sZCJX6.net
>>429
言い忘れましたが、その落武者の霊は成仏できずに(当然輪廻もできずに)さまよっている浮遊霊でしょう。
ある因縁の場所から離れられない場合は地縛霊と読んでおります。

一方、霊動現象で対象になるのは憑依霊です。何らかの執着が強すぎて輪廻にも入れません。
新約聖書ではこの憑依霊にかかられた人達が登場し、「悪魔よ去れ!」とイエスに一喝され追い出されておりますが、
大半は悪魔などではなく生前は普通の衆生でした。
ちなみに現代でもイタリアでは大勢のヴァチカン公認のエクソシストがお仕事を遂行しております。

431 ::2013/04/11(木) 21:32:15.70 ID:JKggYvOy.net
 
>>430 前世は一在家さんへ
> 新約聖書では …

私の場合は
ユダヤ教とか,キリスト教などについての知識は、まったくありません
(今のところ,これから勉強する予定もありません)
  _  _  _

『 未成仏霊を成仏させる 』 と言う事については
バラモンとか,ヒンドゥーなどを受け継いでいるかもしれない
後期大乗密教が良いかもしれない
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81

加持(かじ)

密教においては
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
(仏と衆生の)双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる

432 ::2013/04/11(木) 21:49:13.39 ID:JKggYvOy.net
 
>>430 前世は一在家さんへ

>>431 の続き

後期大乗密教は
ある部分においては
バラモンも,ヒンドゥーも,根本仏典も
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 受け継いでいるかもしれない
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99

密教においては
師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい

その教えが余すところなく伝えられたことを称して 「 瀉瓶(しゃびょう)の如し 」 といい

受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである

いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは
チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ
自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである

433 ::2013/04/11(木) 22:18:21.16 ID:JKggYvOy.net
 
>>429 前世は一在家さんへ
> 落武者の霊をはっきりと見た貴兄と,日々霊動現象を目撃している私は …

『 どのようにして,中有身が形成されて,どのようにして,又,次の,この世の生に戻り来るのか? 』
と言う事については,瑜伽師地論(ゆがしじろん)が良いと思います

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

人が死ぬ時に

我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって

中有身が形成される

そして、やがて
その中有身(意から成るもの)は
男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して

又,次の,この世の生に戻り来る

434 ::2013/04/11(木) 22:45:50.50 ID:JKggYvOy.net
 
受 ・ 想 ・ 行 : を滅してない人の場合は,我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04b.htm#観涅槃品第二十五(二十四偈)
中論觀涅槃品第二十五

諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける
如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない
無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける

だけど世俗の人の場合は
戯論を生じ慧眼を破り
顛倒の故に、虚妄の法を生じ 『 是こそが実在なのである 』 と妄執して

諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する

如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観如来品第二十二(十六偈)
中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二
如来は、戯論を過ぎるが、而し
人は、戯論を生ずる
戯論は、慧眼を破る

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観四諦品第二十四(四十偈)
中論觀四諦品第二十四
一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である

435 ::2013/04/11(木) 22:59:37.51 ID:JKggYvOy.net
 
第六表面意識で哲学的に 『 すべて無である 』 と思惟しても,我愛を滅する事が出来ない理由は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
末那識(まなしき)
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心(末那識)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)の
二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

436 :前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/12(金) 00:01:11.02 ID:V/sZCJX6.net
>>433
?氏が紹介の説は下記ですね。
「人が死ぬ時に 我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって 中有身が形成される 。
そして、やがて その中有身(意から成るもの)は 男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ 阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して 又,次の,この世の生に戻り来る。」

上記は水野先生の「阿頼耶識に善悪業が蓄積される」とは異なるようです。
多分、法相宗以外の経典を参照したかと思料します。

437 :Classical名無しさん:2013/04/12(金) 00:20:50.28 ID:9pSRBSru.net
なぜ、エクソシストは霊を祓えるのか?
バチカンは、エクソシストのことを、どう考える?

438 ::2013/04/12(金) 20:34:33.13 ID:zGYEdxKk.net
 
仏教 議論スレッド 65
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1365469142/285

285 名前:前世は一在家 ◆2o6x38TRbE [] 投稿日:2013/04/12(金) 16:29:24.38 ID:cXAXzEGv [9/17]
249 オイラ氏
>これは空でなく幻と言い換えると分かりやすいでしょう。
>幻の行為を行なって幻の報いという苦を受ける。
>幻でも苦だと感じるのは夢に明らか。

幻でも苦を感じる←YES
幻の行為を行って幻の報いを受ける←そんな仏教テキストありましたか?

因果の法では、幻の因で幻の果が生じるというのは変ですね。

439 ::2013/04/12(金) 21:09:15.50 ID:zGYEdxKk.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm#観法品第十八
中論觀法品第十八

一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ,と

諸法の、実相は、即ち、是れは、涅槃であり、涅槃を、滅と名づける
是の、滅は、涅槃に向うものをも、亦た、滅と名づける

若し、心は、是れが、実ならば、何に、空等の、解脱門を用いるのか?
諸の禅定中に、何故に、滅尽定(想受滅)を以って、第一と為し、又、終に、無余涅槃に帰するのか?

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04b.htm#観涅槃品第二十五(二十四偈)
中論觀涅槃品第二十五
世俗の人の場合は
戯論を生じ慧眼を破り
顛倒の故に、虚妄の法を生じ 『 是こそが実在なのである 』 と妄執して
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観如来品第二十二(十六偈)
中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二
如来は、戯論を過ぎるが、而し
人は、戯論を生ずる
戯論は、慧眼を破る

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観四諦品第二十四(四十偈)
中論觀四諦品第二十四
一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である

440 :サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c :2013/04/12(金) 21:11:12.02 ID:qX4CV6sa.net
>>437
キリスト教は霊魂の存在認めているので

そして神の権威が至上なので その権威を委託されている聖職者の命令には
悪魔も従うのです

ただエクソシストは公認ですが悪魔祓いは心の病と厳密に区別する必要があり
簡単に許可はださないのがバチカンの方針です

441 ::2013/04/12(金) 22:03:42.51 ID:zGYEdxKk.net
 
>>437 ID:9pSRBSru

この人と,私【?】は別人ですが

とりあえず,レス有り難う御座いました

 屮(_ ._)屮 ブッダン サラナン ガッチャーミ

442 :Classical名無しさん:2013/04/13(土) 08:14:39.50 ID:AAKv4/p/.net
楞伽経や華厳経の勉強はイイ

443 :Classical名無しさん:2013/04/14(日) 08:16:51.57 ID:160axwcR.net
中論は所詮は論書
経典ではない

444 :Classical名無しさん:2013/04/15(月) 08:09:28.15 ID:vEiEprf5.net
戒律は動物性タンパク質の摂取を否定しない

445 :Classical名無しさん:2013/04/16(火) 09:04:20.82 ID:ACXMfdSf.net
荷沢は禅宗の賊かも知れない

446 ::2013/04/16(火) 09:41:21.32 ID:b5hAWD9S.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

■第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)

1.真理に対する「無知」(無明)。それが原因となって誤った行為がなされ
2.その行為の性質に応じた結果を招いてしまうような「カルマ」(行)が蓄積される
そのカルマが、輪廻をまたいだ連続的意識(心相続)を構成することで、来世における
3.「意識」(識)を新たに生み出す。その新たな意識が人間として生まれてくる過程で
4.「物質的な身体」(名色)が作られ、それが原因となって
5.「五感とその感覚意識」(六処)が生じてくる。それが誕生によって実際に働いて
6.「感覚知覚」(触)となり、その知覚によって
7.「苦楽の感覚」(受)が生じる。そして苦を避けて快楽を得たいという
8.「渇望(欲求)」(渇愛/愛)が生まれ、それが強まり固定化されて
9.「固執/執着」(取)となる。その固執が新たなカルマとなって心の連続体に蓄積され
10.「掴む者/未来の決定力」(有)になる。その結果来世にまた
11.「誕生」(生)することとなり、また新たな苦しみである
12.「老いと死」(老死)を経験せざるを得ないこととなる

447 ::2013/04/16(火) 09:56:46.41 ID:b5hAWD9S.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

渇愛(タンハー)
『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です
苦は、渇愛から生じます。渇愛は
再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています』(初転法輪経)

タンハーとは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています

渇愛の特色の一つは『再び』と『成ること』 からできた言葉で
成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです
私たちは変化していきます。それは止まりません
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます

すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって
無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです

448 ::2013/04/16(火) 10:01:12.27 ID:b5hAWD9S.net
 
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

人が死ぬ時に

我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって

中有身(意から成るもの)が形成される

そして、やがて
その中有身(意から成るもの)は
男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
阿頼耶識がこれに結合して

又,次の,この世の生に戻り来る

449 ::2013/04/16(火) 10:18:54.86 ID:b5hAWD9S.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観如来品第二十二(十六偈)
中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二
如来は、戯論を過ぎるが、而し
人は、戯論を生ずる
戯論は、慧眼を破る

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm#観四諦品第二十四(四十偈)
中論觀四諦品第二十四
一切の法は、性空だが、而し
世間の人にとっては
顛倒の故に虚妄の法を生じ
戯論を生じ慧眼を破り 『 是こそが実在なのである 』 という心の働きに,とらわれている

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04b.htm#観涅槃品第二十五(二十四偈)
中論觀涅槃品第二十五
世間の人の場合は
顛倒の故に虚妄の法を生じ
戯論を生じ慧眼を破り 『 是こそが実在なのである 』 と妄執して
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する

450 :Classical名無しさん:2013/04/17(水) 07:31:33.58 ID:LgRbYLsg.net
慈悲の慈は与恵、悲は抜苦という
慈悲は有縁のものだけではなく、無縁のものに及ぼして初めて慈悲という
(観無量寿経)

451 ::2013/04/17(水) 17:21:01.38 ID:+i/VMZ2Q.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4812702828/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

魔のJR中央線 ― 自殺霊の撮影で判明したこと/斎藤斎霊/たま出版(2009/05)

写真がとらえた自殺者の霊!その霊たちは、霊界に昇天できずに浮遊している。
本書は、自殺者の霊の実態を知り、自殺を踏みとどまってもらうために書かれた、自殺防止の書である。

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4140815876/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

いま知っておきたい霊魂のこと/正木晃(著)/NHK出版(2013/03)

110〜111ページ参照
成立が古い初期仏典(原始仏典)をひもといてみると
ブッダは 「 悟りを開かない限り,ヴィンニャーナと呼ばれる何かが残る 」 と考えていたようです
  _  _  _

ヴィンニャーナも,無明も渇愛(タンハー)も,受 ・ 想 ・ 行も

煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)の
二種の障害を根絶させる為にも

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

452 ::2013/04/18(木) 00:02:51.76 ID:+q6Pb18N.net
 
サンガジャパン vol.1 特集 瞑想とは何か サンガ(2010/03)
アルボムッレ・スマナサーラ,玄侑宗久,井上ウィマラ,藤田一照,正木晃,熊野宏昭,稲葉小太郎,藤本晃,石飛道子,佐藤哲朗
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4904507584/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

サンガジャパン Vol.10 (2012Summer) サンガ (2012/06)
アルボムッレ・スマナサーラ,大澤真幸,橋爪大三郎,石井光太,プラユキ・ナラテボー,藤本晃,太田俊寛,山形浩生,佐藤哲朗
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4905425158/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

サンガジャパン Vol.13 (2013Spring) サンガ(2013/03)
橋爪大三郎,中村圭志,師茂樹,ネルケ無方,藤本晃,ティク・ナット・ハン,プラユキ・ナラテボー,アルボムッレ・スマナサーラ

453 ::2013/04/18(木) 01:10:05.30 ID:+q6Pb18N.net
 
http://monjuon.no-blog.jp/

マインドフルネス&アクセプタンス
第3世代の認知行動療法であるマインドフルネスとACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の普及を目指しています。
ここでご紹介する方法はすべてセルフ・カウンセリングになっていて、日常生活を療法にします。

1.マインドフルネス&アクセプタンス

第3世代の認知行動療法としてマインドフルネス&アクセプタンスが日本に再上陸してかなりの年月になりますが、いまだに普及の兆しが見られません。
再上陸というのは、もともと禅仏教の「瞑想」と「あるがまま」が西洋風に受け取られたものがマインドフルネス&アクセプタンスだからです。
これらが普及しない理由は、
「苦しみを受け容れる」というこれまでの心理療法とはまったく逆の発想が求められること、
禅の経験者でなければなかなか指導できないことなどが挙げられると思います。
また禅や仏教の経験者から見ると、とらえ方は鋭いのですが、根拠の部分が失われています。

そこで日本人向けに、もう一度オリジナルの仏教に戻ってこの2つをとらえ直すことにしました。
ですからこれは「禅セラピー」とか「仏教セラピー」といったほうがよいのかもしれません。
仏教といっても何かを信ずる必要はなく、ただ行動を繰り返して効果を検証すればよいだけです。
仏教はもともと実践的な心理療法であり、脳力開発法や成仏法とは局面の目的が異なるだけでまったく同じものです。
心理学の発達に伴って、真の意味での仏教がようやく理解されようとしているのです。
もう一つ禅仏教に戻ったときに言えることは、これは取ってつけた療法なのではなく、戻ることのない自分の生き方の変革であるということです。

454 ::2013/04/18(木) 20:29:29.26 ID:+q6Pb18N.net
 
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1336302241/315-321

315 :神も仏も名無しさん:2012/08/01(水) 23:59:59.82 ID:Bkk4eVCs
後期中観派は結局のところ外界を実在と捉えるのか非実在と捉えるのかどっちなの?
決着ついてないにしてもどっちが有利だったの?
もし後期において非実在であったなら後期だと有部だけが実在としてたの?

321 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 08:56:15.82 ID:oz/j3UjI
中観の真理について聞いてるわけではないんだ。
認識の対象として認められる対象は有るのか、それとも心でしかないのか。
という点について中期(月称を含む)までは中観系は唯識の
外界は存在せず認識の対象は存在しない
って考えを否定して、外界の実在を唱えていて、
それが後期のシャータンラクシタやカマラシーラやハリバドラになっちゃうと唯識色が強くなっちゃって
実在とも非実在とも主張されるようになっちゃって、じゃあ、そこで結局どっちなの?ってことが聞きたかったんだ。
蛇足だけど、
>なんらかの見解を提示したり、思想を批判して何らかの思想構築するものじゃないから。
>少なくとも月称菩薩はそうだ。
っていってるけど、プラサンナパダーだってバーヴィヴェーカを批判して組み上げたモノでしょ?
っていうか帰謬論証という立場というか方法は他の思想の批判の上に成り立つものだよね。

455 ::2013/04/18(木) 20:39:45.20 ID:+q6Pb18N.net
 
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1336302241/323-327

323 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 09:39:24.12 ID:oz/j3UjI
月称菩薩の事に関しては確かに自分が一面的な見解に依りすぎていた。
たしかに貴方が言うように月称菩薩は帰謬論証すらしておらず、戯論寂滅のみを行なっていたにすぎないというのもあり得る話だ。
考えたこともなかった。貴重な考えを仕入れさせてもらった。ありがとう。
でも、自分が求めていたのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
なんだ。引き続き有識者の見解を待ちます。

327 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 12:00:23.72 ID:oz/j3UjI
純粋な知的好奇心からです。
あくまで私が知りたいのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
についてです。

456 ::2013/04/18(木) 20:45:16.40 ID:+q6Pb18N.net
 
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1336302241/337

337 :神も仏も名無しさん:2012/08/03(金) 19:49:57.91 ID:WUrQafom
色々資料を挙げてくれてありがとう。
しかしながら、ひとつも合致するものは無かったよ。
質問は「外界が実在と捉えるか非実在と捉えるか」であって「自性の実有」では無いんだ。

457 ::2013/04/18(木) 21:21:20.46 ID:+q6Pb18N.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4393101669/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

空と中観 (シリーズ大乗仏教)/春秋社 (2012/11)
高崎直道,桂紹隆,下田正弘,末木文美士,斎藤明

102〜103ページ参照

カマラシーラの 『 修習次第 』

1)瑜伽行派の立場に依拠して
瑜伽行者は外界の対象は実在しないと理解し
外界実在論を説く説一切有部や経量部の立場を超える

2)瑜伽行派の形象虚偽論の立場をとり
瑜伽行者は無二知に住して
形象真実論の立場を超える

3)無二知の実在性に対する執着を排除して
瑜伽行者は中観派の説く
無二知さえも顕現しない瞑想に住し
大乗を見る

無二知
客体と主体という二つの区分を離れた
無分別の知

458 ::2013/04/18(木) 21:30:07.81 ID:+q6Pb18N.net
 
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://www.logsoku.com/r/psy/1336302241/315

315 : 神も仏も名無しさん[] : 投稿日:2012/08/01 23:59:59 ID:Bkk4eVCs [1/1回]
後期中観派は結局のところ外界を実在と捉えるのか非実在と捉えるのかどっちなの?
決着ついてないにしてもどっちが有利だったの?

もし後期において非実在であったなら後期だと有部だけが実在としてたの?

459 ::2013/04/19(金) 09:04:15.00 ID:Hio0NKLb.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ学派
プルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる
プルシャはこの展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した 『 理性 ・ 自我意識などを主体である 』 と思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない 『 実体がある 』 とした

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bungaku88/B088R001.pdf
異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 永久不滅・常住不変のアートマン
経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮設する

460 ::2013/04/19(金) 09:29:00.39 ID:Hio0NKLb.net
 
末那識(まなしき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この 『 深層的な自我心(末那識) 』 を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
  _  _  _

チベット ゲルク
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

自立論証派は、
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります

461 ::2013/04/19(金) 10:04:56.18 ID:Hio0NKLb.net
 
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0090/BO00900L031.pdf

異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 永久不滅・常住不変のアートマン
経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮設する

カマラシーラによる因果論の吟味は
プラマーナすなわち直接知覚と推理を通じて
二自性に基づく因果関係は成立しないと導くものである

プラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない
なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している

実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ
また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く

462 ::2013/04/19(金) 10:30:35.00 ID:Hio0NKLb.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明・法灯明」の教えを説いた
  _  _  _

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
  _  _  _

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は、想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち : 受 ・ 想 ・ 行 : が滅している

463 ::2013/04/19(金) 10:51:28.14 ID:Hio0NKLb.net
 
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm#%E8%A6%B3%E6%B3%95%E5%93%81%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB

中論觀法品第十八

一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ

諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ,と

それ故に

諸の禅定の中で,滅尽定(想受滅)を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する

八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
  _  _  _

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten3.htm

心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数、数

細々した心の働き。八識と相応して起るもの

464 :Classical名無しさん:2013/04/19(金) 10:57:06.04 ID:Cfs4Dfjj.net
答えたよ

465 ::2013/04/19(金) 23:36:44.11 ID:Hio0NKLb.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

無知(無明)の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
三種の行為を行う(カルマを積む)(中論26-1)

無知の暗に覆われていることが原因で
人間は三種類の行為を行うことになるが
その行為はその者自身を
来世もまた人間として
生まれて来てしまうようにさせる
性質を持っているのである(中論26-1の意訳)

466 ::2013/04/19(金) 23:49:57.60 ID:Hio0NKLb.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/大蔵出版 (2010/05)/99〜101ページ参照

「無明」(根源的無知)の障りを持つ者は

再び輪廻に生まれるための

三種の「行」(行為)を実際になし

それらの業によって,生存の場所に赴く

467 ::2013/04/20(土) 00:07:07.45 ID:0IIf2ZZJ.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

感覚感情(感受/受)によって条件づけられた

(感覚を原因とした)ものが渇望/欲求(渇愛/愛)である

渇望/欲求は感覚感情のせいで生じる

それが生じるとき、固執/掴むこと(取)も生じる

四つの種類の固執/掴むことである(中論26-6)

感覚をともなった感情が原因で渇望が生じる

渇望が生じると、同時に固執も生じる

それが四つの種類の固執である(中論26-6の意訳)

468 ::2013/04/20(土) 00:19:29.27 ID:0IIf2ZZJ.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜121ページ参照

「受」(感覚)を縁として「愛」(欲望)が〔起こる〕のは

「受」(感覚)を得るために「愛」(欲望)を生じるからである

「愛」(欲望)を持つと,それに執着(「取」)して

四つのものに執着(「取」)するようになる

469 :Classical名無しさん:2013/04/20(土) 19:12:27.50 ID:TNxOuqat.net
なむしゃかむにぶつ

だった

470 :Classical名無しさん:2013/04/21(日) 08:00:56.84 ID:7XE975vj.net
真言、名号を唱えるもよし

471 :Classical名無しさん:2013/04/22(月) 08:06:34.75 ID:muUaYwXJ.net
瞑想、座禅もよし

472 ::2013/04/22(月) 13:39:02.25 ID:7gdy15Tk.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf
固執/掴むことが存在するとき
固執する者/掴む者(有)が
存在として立ち現れてくる
もし彼が掴まなかったら
そして解放されているなら
彼は存在としてやって来ないだろう(中論26-7)

(欲望や誤った見方への)固執が現れると
その固執の主人である「固執する者」も現れる
もし彼が欲望などにとらわれなければ
悟って輪廻から解脱しているならば
彼が人間として生まれてくることはないであろう(中論26-7の意訳)

固執する者/掴む者(有)というのは
輪廻における生存者のことである

473 ::2013/04/22(月) 13:50:20.57 ID:7gdy15Tk.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜122ページ参照

「取」(執着)が存在すると

執着する人の「有」(生存)が生じる

もし「取」(執着)が存在しなければ

解脱して,輪廻の生存(「有」)は生じない

474 ::2013/04/22(月) 16:57:00.55 ID:7gdy15Tk.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

このような存在(有)はまた五つの集合体(五蘊)でもある
存在は誕生(生)によって
老いと死(老死)と不幸と
苦しみと悲しみと…(中論26-8)

混乱と動揺が
これらのものすべてが誕生の結果として生じてくる
そのようにして大いなる苦しみであるこの全体が
存在として立ち現れてくるのである(中論26-9)

こうして固執したことによって生まれてくる人間は
肉体と精神活動とからなる集合体でもある
このような輪廻の世界の存在は
誕生したことによって、老いと死と不幸
苦しみや悲しみ、混乱や動揺を経験するようになる
そのようにして大きな苦しみ全体が姿を現すのである(中論26-8・9の意訳)

475 ::2013/04/22(月) 17:09:39.85 ID:7gdy15Tk.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜126ページ参照

「有」(生存)もまた五蘊である

「有」(生存)から「生」(誕生)が生じる

「老死」(老化と死),心痛

悲嘆の言葉,苦痛(26-8)

不愉快,心の動揺などは皆

「生」(誕生)から生じている

このようにして

苦しみばかりの集合体(蘊)が生じる(26-9)

476 ::2013/04/22(月) 17:20:43.75 ID:7gdy15Tk.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

輪廻する存在の根は行為/心的要素の集成(諸行)である
したがって、賢者は行為しない
したがって、愚者は行為の担い手である
賢者は洞察力があるので、そうはならない(中論26-10)

輪廻の中に生きる者となる根本的原因は
心の活動が集まり
蓄積された傾向となって現れるような行為にある
したがって賢者は行為せず
愚か者は行為の主人となるのである
賢者は洞察力があるのでそのような行為の主人とはならない(中論26-10の意訳)

477 ::2013/04/22(月) 17:28:43.53 ID:7gdy15Tk.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜132ページ参照

故に,賢者たちは

輪廻の源となる行ないをなさない

賢者たちは真如を見ているからである

〔輪廻の源となる行ないをするのは〕賢くない者たちである

478 :Classical名無しさん:2013/04/23(火) 08:12:58.29 ID:hKKB1R81.net
机さんは虐げられるチベット仏教徒ではなく、唯物論者で無神論者で、神仏を廃棄する
中共を応援していた
悟りもへったくれもないね

479 ::2013/04/23(火) 20:09:47.12 ID:OmAxMhSU.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

無知(無明)が止まると
行為(諸行)は生じなくなるだろう
無知の停止は
瞑想と知恵(智)を通して生じるのである(中論26-11)

(存在を実体としてとらえ、自己に執着するような)
無知が取り除かれると
(カルマを蓄積する)行為は行われなくな
(り、蓄積も行われなくなり、また
輪廻の中の者としての人間も生まれなくな)るだろう
そのような無知の停止は瞑想実践による
(空性の)知恵を通して獲得されるのである(中論26-11の意訳)

480 ::2013/04/23(火) 20:21:05.73 ID:OmAxMhSU.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜134ページ参照

「無明」(根源的無知)を滅したなら

「行」(行為)などのすべても生じない

「無明」(根源的無知)の断滅は

〔縁起という〕真如を知って

それに瞑想することから〔得られる〕

481 ::2013/04/23(火) 20:37:18.79 ID:OmAxMhSU.net
 
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

初期仏教の解脱・悟り=想受滅(滅尽定)

四禅を超えて想受滅(滅尽定)

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は、想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している
  _  _  _

受 ・ 想 : を滅させたなら

「行」(行為)などのすべても生じない

「無明」(根源的無知)の断滅は

受 ・ 想 ・ 行 : 滅させる事によって得られる

と言う意味だと思います

482 :Classical名無しさん:2013/04/23(火) 20:39:15.65 ID:C4Y4BeQ1.net
あのなぁ〜〜〜。 御釈迦さんはそないな難しいことゆうとらんのやがな・・・

発句経でも読む事をお奨めするがな

483 ::2013/04/23(火) 20:41:08.24 ID:OmAxMhSU.net
 
受 ・ 想 ・ 行 : 滅させる事によって得られる

            ↓

受 ・ 想 ・ 行 : を滅させる事によって得られる

と言う意味だと思います

484 ::2013/04/23(火) 20:54:08.42 ID:OmAxMhSU.net
 
> 御釈迦さんはそないな難しいことゆうとらんのやがな

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

仏教は

一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる

仏教は輪廻と,その輪廻からの解脱の考えに基づいている

人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる

その苦しみから抜け出すことが解脱であり

修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

身体について…感覚について…心について…諸法について…

(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明・法灯明」の教えを説いた

485 ::2013/04/23(火) 23:58:37.57 ID:OmAxMhSU.net
 
大乗仏教とは何か (シリーズ大乗仏教)/春秋社 (2011/06)
高崎直道,桂紹隆,下田正弘,末木文美士,斎藤明

現在の仏教学界を代表する執筆陣による最新の研究成果を反映
大乗仏教の起源説や訳経論など、その全体像を浮き彫りにする
大乗仏教の定義に始まり
経典論、起源論、訳経論、資料論、教判論、思想論など
最新の研究成果をふまえて、大乗仏教の特質に迫る

唯識と瑜伽行 (シリーズ大乗仏教)/春秋社 (2012/08)
高崎直道,桂紹隆

最新の研究成果に基づき、唯識思想の成立・歴史的展開・思想的概要などを凝縮
唯識研究の最前線
インド大乗仏教の一大流派・瑜伽行唯識派の思想を歴史的に辿り
唯識系経典の形成、思想的特質、実践的特徴ならびに中国における展開などを論究する

空と中観 (シリーズ大乗仏教)/春秋社 (2012/11)
高崎直道,桂紹隆,下田正弘,末木文美士,斎藤明

インドにおける中観思想の成立と展開に始まり
中観派の学匠の思想をたどりつつ、チベットや中国における展開にも触れる
インドにおける中観思想の成立から、チベット・中国における展開に至るまで
主たる中観派の学匠について個別にたどりつつ、大乗仏教における空とは何かを論究する

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4393101669/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

486 :Classical名無しさん:2013/04/24(水) 09:31:50.55 ID:RupeOjm+.net
偉い学者がみんな年食って、でも若い学者は余り育ってないようだね

487 ::2013/04/24(水) 10:32:51.89 ID:0b6ZHDtM.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF

『スッタニパータ』(Sutta Nipata)

最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない
(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経)
現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている
ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ
パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから
仏典の中でも最古層に位置づけられている

また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている
『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから
この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている

『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている

488 :Classical名無しさん:2013/04/24(水) 10:35:00.48 ID:Wk9OKUNg.net
学者や研究者は大勢いても、本当に悟った人は皆無に等しい。

お釈迦様は悟ったかもしれんが、この悟れない現実をどう解消してゆくか明快な答えはない・・

489 ::2013/04/24(水) 11:03:24.72 ID:0b6ZHDtM.net
 
>>482 ID:C4Y4BeQ1
> あのなぁ〜
> 御釈迦さんはそないな難しいことゆうとらんのやがな
> 発句経( ← 法句経 )でも読む事をお奨めするがな

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/400007007X/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
ブッダのことば スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)/中村元/岩波書店 (1991/01)
仏教書のうちで最も古い聖典
後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく
人間としての生きる道が,ブッダとの対話のなかで具体的に語られる
訳注は他仏典との関連さらには比較文化論にも及び,興味はつきない

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4000070401/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
ブッダの真理のことば・感興のことば (ワイド版 岩波文庫)/中村元/岩波書店 (1991/06)
『法句経』の名で知られる「真理のことば」(ダンマパダ)も、併収の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)も
ブッダの教えを集めたもので
人間そのものへの深い反省や生活の指針が、風格ある簡潔な句に表わされている
「ウダーナヴァルガ」とは
ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉集の意味で、初めての完訳

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4000071947/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 (ワイド版岩波文庫)/中村元/岩波書店 (2001/10)
原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない
だが彼の死は、信徒にとって永久に忘れえぬ出来事だった
パーリ語本『大パリニッバーナ経』の中に
ブッダの死とその前後の事件が詠歎をこめて語られている
本書はこのパーリ語本を底本とし
サンスクリット本、漢訳本を参照して邦訳
巻末に周到詳細な注を付した

490 ::2013/04/24(水) 11:33:19.98 ID:0b6ZHDtM.net
 
> お釈迦様は悟ったかもしれんが、お釈迦様以外の者が悟れない現実をどう解消してゆくか明快な答えはない

第六表面意識で 『 すべて無である 』 と哲学的に思惟しても,我愛を滅する事が出来ない理由は?

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
無明と渇愛が絡み合って、無始なる過去から,輪廻を繰り返している

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
末那識(まなしき)
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識(あらやしき)を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心(末那識)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
  _  _  _

末那識(深層的な自我心)が

阿頼耶識に対して

心の働きの根源であると考えて執着し続けているので

第六表面意識で 『 すべて無である 』 と哲学的に思惟しても,我愛を滅する事が出来ない

と言う意味だと思います

491 ::2013/04/24(水) 11:57:40.35 ID:0b6ZHDtM.net
 
深層的な自我心(末那識)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

深層的な自我心(末那識)を滅させる為の方法は?

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm#%E8%A6%B3%E6%B3%95%E5%93%81%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB
中論觀法品第十八
一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ,と
それ故に
諸の禅定の中で,滅尽定(想受滅)を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten3.htm
心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数、数
細々した心の働き。八識と相応して起るもの

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は、想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している

492 ::2013/04/24(水) 12:09:51.56 ID:0b6ZHDtM.net
 
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落とさせるものである

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC
クンダリニー
ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる
クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至るが
今世で解脱できる魂は極一部といわれている

493 :Classical名無しさん:2013/04/26(金) 08:10:56.79 ID:NS1tm07I.net
伝道師コーヘルト曰く、空の空、空の空なるかな、全ては空なり、と

494 ::2013/04/26(金) 21:48:43.81 ID:FK261mAV.net
 
安田理深 唯識論講義 上/本多弘之/春秋社 (2012/06)

西洋近代哲学をも視野に入れつつ、実在的・求道的な問題意識から
唯識思想の本質を解明しようとする、安田理深師の最晩年の講義録
迫真の言葉に満ちた名講義を再現

14ページ参照

願心自身というのは

『成唯識論』に「唯識性」という字がありますが

これは唯識の「心の実性」という意味です

心自身
チッタ(citta)
チッタ・ダルマター(citta-dharmata)
心法性

495 :Classical名無しさん:2013/04/27(土) 09:42:51.89 ID:TwpbC/pt.net
パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む((単行本))
片山 一良 (著)

を買った

496 :Classical名無しさん:2013/04/28(日) 08:37:12.94 ID:zivHuF7Q.net
沖縄のエイサーの起源は多分、仏教

497 ::2013/04/29(月) 00:29:10.57 ID:CqO70x0L.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804613382/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む/片山一良/大法輪閣 (2012/08)

ブッダが比丘たちに説いた
『大念処経』(マハーサティーパッターナ・スッタ)には
四種の修行の仕方(四念処観)から四諦・八正道といった
仏教の基本となる実践方法が説かれており
それを定評ある訳と分かり易い解説をほどこす
  _  _  _

 ↑ これはまだ読んだ事ないけど,たぶん良いかもしれない

498 ::2013/04/29(月) 00:38:56.18 ID:CqO70x0L.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC

エイサーは、沖縄県でお盆の時期に踊られる伝統芸能

この時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するため
若者たちが歌と囃子に合わせ、踊りながら地区の道を練り歩く

また、かつては祝儀を集めて集落や青年会の活動資金とする機能も重視され
その金でため池を設けた例もある

地域によってはヤイサー、エンサー、七月舞(しちぐわちもーい)
念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれる

近年では太鼓を持つスタイルが多くなり
踊り自体を鑑賞するために各地域のエイサーを集めたイベント等も開催され
重要な観光イベントとなっている

499 :Classical名無しさん:2013/04/30(火) 08:17:35.90 ID:Qw7RiqBQ.net
つまりエイサーのルーツは踊り念仏だ

500 ::2013/04/30(火) 13:21:00.62 ID:YxSDA65k.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

これやあれ(これによってあれが生じるということ)を止めることで
これやあれ(これによってあれが生じるということ)は表に出ないものとなってくる
大いなる苦しみのすべてが
ここにおいて実際に、すべて消滅するのである(中論26-12)

(十二の原因として示された)「これ」や「あれ」を停止させることによって
(十二の原因/個別的に存在しているように見える事象である)
「これ」や「あれ」が生じなくなって行く
大いなる苦しみのすべてが、そうすることで実際に、すべて消滅するのである(中論26-12の意訳)

501 ::2013/04/30(火) 13:35:59.49 ID:YxSDA65k.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜135ページ参照

それぞれ〔縁起の十二支の前の項目〕を滅することにより

それぞれ〔縁起の十二支の後の項目〕が生じることはなくなる

苦しみばかりの集合体カ(蘊)は

こうして完全に滅せられる

502 ::2013/04/30(火) 15:27:09.70 ID:YxSDA65k.net
 
仏教 議論スレッド 67
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1367073730/224

224 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2013/04/30(火) 11:29:00.95 ID:jWds7Fp9 [3/8]
信仰を捨てよ!Sn.1146
  _  _  _

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には

永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を

: 無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

503 : 【ぴょん吉】 :2013/05/01(水) 05:31:21.42 ID:eWTRkxPi.net
仏教徒がおみくじしたってイイじゃない

504 ::2013/05/02(木) 00:02:21.84 ID:alJN4Gas.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf
内的にであろうと外的にであろうと
「私」と「私のもの」という観点が消滅するとき
自己に固執する者(取著)は消滅する
これが消滅すると、誕生することも止まる(中論18-4)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜155ページ参照

内にも,外にも

「私」と「私のもの」という思いを滅すると

執着(「取」)がなくなる

これが滅すると,〔輪廻に〕生まれることはない

505 ::2013/05/02(木) 19:26:21.79 ID:T5Ib+3Fh.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf

行為〔カルマ〕と苦悩
(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの
(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する(中論18-5)

カルマによって引き起こされる苦しみが消滅した地点に
輪廻から解放された涅槃(ニルヴァーナ)があるのである
カルマによる苦しみは、概念による思考から生じてくるのであり
概念的思考は心的なプロセスによって作り出され
組み立てられた迷妄である
そのように作り出され組み上げられたものは
空性の体得(悟り)によって消滅する(中論18-5の意訳)

506 ::2013/05/02(木) 19:38:08.97 ID:T5Ib+3Fh.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜156ページ参照

行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕

行為と煩悩は誤った認識(妄分別)から生じ

それら〔の誤った認識〕は戯論から生じる

そして戯論は,空によって滅せられる

507 :Classical名無しさん:2013/05/03(金) 09:31:52.49 ID:Z6yFIa0w.net
唯識こそ最高の相対論

508 :Classical名無しさん:2013/05/04(土) 09:54:16.65 ID:MHCiDkfX.net
平川彰の本で二百五十戒を研究しよう!

509 :Classical名無しさん:2013/05/05(日) 08:11:07.68 ID:wDu7o+pk.net
比丘尼は三百四十八戒

510 ::2013/05/05(日) 14:17:49.22 ID:fiHElf0A.net
 
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/3409/1/KJ00005242159.pdf#search=%27%E4%BB%8F%E6%95%99+%E6%A5%AD%E3%82%92%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%99%27

議伽行派の修行道における利他行の問題

1 序 − 問題の所在 −
2 初期仏教の解説道
3 善業の蓄積による成仏論
4 普遍的救済の親念と善業の蓄積の出世間道化
5 初期大乗経論における剥位行と解説の対立およびその解決
6 <菩霊地>の解決方法
7 結び

511 ::2013/05/05(日) 14:40:11.27 ID:fiHElf0A.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf
ブッダによって
自己は存在すると説かれ、また
無我であるという教義も説かれた
同様に
自己も非自己も存在しないという教義(法)も説かれた(中論18-6)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜160ページ参照

自我は存在するとも言われたし
無我の教えも説かれた

そして仏陀たちは
自我もなく、無我もない
という教えも説かれた

512 ::2013/05/05(日) 15:01:45.70 ID:fiHElf0A.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜162ページ参照
  _  _  _

「 自我は存在するとも言われたし 」 というのは

サーンキヤ学派などの主張です
  _  _  _

「 自我もなく、無我もない 」 というのは

「 それ自体の自性によって成立しているのではない 」

「 因と縁に依存しているので空である 」 と言う意味です

513 ::2013/05/05(日) 15:30:11.18 ID:fiHElf0A.net
 
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784393111642

平川彰著作集 〈第14巻〉 二百五十戒の研究 1

仏教僧の原点である二百五十戒の一々の条文を制戒の因縁から解釈
判定の基準まで、あらゆる原典を精査して解明した世界初の研究
本巻は戒序・波羅夷法四条・僧残法13条の研究を収録。戒律研究篇

序章 二百五十戒と波羅提木叉
第1章 「戒序」の研究
第2章 波羅夷法の研究
第3章 僧残法の研究

514 ::2013/05/05(日) 15:44:57.73 ID:fiHElf0A.net
 
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/3409/1/KJ00005242159.pdf#search=%27%E4%BB%8F%E6%95%99+%E6%A5%AD%E3%82%92%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%99%27

瑜伽行派の修行道における利他行の問題

515 :Classical名無しさん:2013/05/06(月) 08:14:04.34 ID:WpnrgI1m.net
戒の他に律蔵もある

516 :Classical名無しさん:2013/05/06(月) 10:18:52.77 ID:WpnrgI1m.net
禅宗において、「自己本来の面目」といったり、「一無位の真人」といったりして、
仏教において否定した自我を、一見、再定義したようにいうのは恐らく、
リョウガ経において、アーラヤ識の不滅が説かれているからではないか?
当然、ゲジンミッ経がいうように、アートマンとアーラヤ識は違う別物であり、
アーラヤ識は恒久不変の実体を持たない!無我の流れであり、自我や自性ではないし、
自我や自性を持っていない
禅宗におけるアーラヤ識観は更に研究が必要だ

517 ::2013/05/06(月) 18:35:06.09 ID:c+uAJNgu.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf

言葉が表現しているものは実在でないものである
思考の領域は実在でないものである
涅槃のように、生じたものでもなく、消滅したものでもない
というのが事物の性質なのである(中論18-7)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜163ページ参照

心が従事する対象がなくなると

言語表現の行ないもなくなる

生成もなく,消滅もないというあるがままの姿(真如)は

涅槃の如くである

518 ::2013/05/06(月) 19:02:24.79 ID:c+uAJNgu.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf

すべてのものは
実在であり
実在ではない
実在でもあり、実在でもない
実在だということはなく、実在でないということもない
これが首長たる,ブッダの教えである(中論18-8)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜166ページ参照

すべては真実である
すべては真実ではない
すべては真実であり,かつ真実ではない
すべては真実であるのではなく,かつ真実ではないのでもない
これは,仏陀が 〔 弟子たちの資質に 〕 合わせて説かれた教えである
  _  _  _

http://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E6%83%B3%E9%9D%9E%E9%9D%9E%E6%83%B3%E5%A4%A9

非想非非想処
ここに生まれる者は
粗雑な煩悩(ぼんのう)がないから非想といい
微細な煩悩がまだ残っているから非非想という

「 想うことはない,だけど想わないということもない 」

519 :Classical名無しさん:2013/05/07(火) 08:58:07.14 ID:FI7DX7BX.net
六祖慧能は壇経において、自性というのを獲得すべきものとして肯定的に述べた
当然、これは旧来の仏説にいう無自性の自性ではなく、如来蔵的な意味、
文脈において語られている
それは体解した般若の知恵が法器たる肉体を持って世間に働き、
大乗としての菩薩道を実践する、その媒介としての心を指す
しかし、それは難し過ぎて常人には分からない上に、
既存のタームを以前と違った意味に使用するから混乱や誤解を多々生じた
これは飯炊き男であった慧能にインテリジェンスが欠けていたからであろう
つまり、例えば禅宗であってもインテリジェンスが必要不可欠なことを明かしている
歴史的には禅宗は達磨に始まるとされ、達磨はリョウガ経による理入と、
座禅による行入を提唱した
達磨はインドのスーパーインテリである
それが慧能から難解なリョウガ経を止めて、金剛経を用い出した、といわれる
金剛経は般若経典で無論、難しいには難しいが唯識教学、理論は出てこない
これは何を意味するのか?
恐らく慧能は唯識を充分にはやっていない
荷沢も同じだろう
これに比べ臨済や徳山、洞山はしっかりと修めていると思われる
禅宗の衰退の要因、秘密もここにあるだろう(@_@)

520 ::2013/05/07(火) 18:35:01.78 ID:vTvAmHjZ.net
 
http://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E8%94%B5

如来蔵(にょらいぞう)

世界大百科事典内の如来蔵の言及

… 竜樹を祖とする〈中観(ちゆうがん)派〉と

弥勒(みろく)を祖とする〈唯識(ゆいしき)派〉とである

後者と深いかかわりをもち,おもに彼らによって継承された思想に,如来蔵説がある

学派としての形成はついになされることはなかったが,その思想は

密教の成立に大いに寄与し,また中国,日本の仏教に深い影響を与えた …

521 ::2013/05/07(火) 19:09:34.10 ID:vTvAmHjZ.net
 
大日経住心品講讃/松長有慶/大法輪閣(2010/02)

28〜29ページ参照

設教の因縁とは
衆生は本来仏性を具えているが
それに気づかず迷う

如来は教え導くのに
機根(各自の宗教的な能力)に従って
顕教あるいは密教をもってする

密教は自受法楽の実践で
顕教と密教との間には本質的な相違があると見る

522 ::2013/05/07(火) 19:20:06.69 ID:vTvAmHjZ.net
 
> 衆生は本来仏性を具えているが,それに気づかず迷う

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという

解脱してあなたたちは思う
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし、(「解脱すれば仏だ」と言う事に)

 → 気づくまでは,気づくことは難しい ←

悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる
悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる

523 ::2013/05/07(火) 19:43:33.74 ID:vTvAmHjZ.net
 
どうして 「 気づくまでは,気づくことは難しい 」 のか? その理由は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

末那識(まなしき)

睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心(末那識)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
  _  _  _

例えば
第六表面意識で
「 すべて無(む)である 」 「 心の働きも無(む)である 」 と哲学的に思惟しても
深層的な自我心(末那識)を滅させる事は出来ない
  _  _  _

: 受 ・ 想 ・ 行 : を滅させる為には?

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する

(C)は、想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち : 受 ・ 想 ・ 行 : が滅している

524 :Classical名無しさん:2013/05/08(水) 08:45:30.98 ID:TpwFuEku.net
日本の仏教は戒律を全て廃止した、また
日本の仏教の僧侶は結婚を可能としたが、それは国家権力が認めたから
などといったスキャンダルは、宗教の腐敗、堕落ではなく、
変異すなわち進化である
あらゆるタイプの原理主義者は、進化、
また時効を認めない狂乱のイデオロギーをもった異常者である

525 :Classical名無しさん:2013/05/09(木) 08:06:44.72 ID:fGlh+6Ax.net
先ずは具足戒の研究から始めましょう

526 :Classical名無しさん:2013/05/10(金) 07:42:24.01 ID:+uU6Peyo.net
サンガにおいては一切の労働が禁止されていた
作家をやって金を稼ぐなど言語道断だな

527 ::2013/05/10(金) 09:32:48.47 ID:cCl2SlJn.net
 
具足戒(ぐそくかい)
http://kotobank.jp/word/%E5%85%B7%E8%B6%B3%E6%88%92

百科事典マイペディアの解説
小乗仏教の僧・尼僧の戒
また出家教団(僧伽(そうが))に入るための条件となるもの
本来完全な戒の意
入団に際して10人の僧が入団希望者にこの戒を守ることを誓わせる儀式があり
スリランカ,ミャンマー,タイなどでは現在も行われる

世界大百科事典内の具足戒の言及
…仏弟子となるためには必ず道徳の基準となる戒を受けなければならないが
戒には出家と在家,その他の相違によっていくつかの種類があり
それに応じて受戒の作法にも相違がある
在家の戒としては五戒や八斎戒(はつさいかい)があり
また出家の戒としては比丘や比丘尼の具足戒
沙弥(しやみ)や沙弥尼の十戒
式叉摩尼(しきしやまに)の六戒(これは十戒に含まれる)などがあるが
八斎戒が1日(1昼夜),式叉摩尼の六戒が2年に限られているのに対し
他は捨戒しない限り,一生涯保つべきものである
受戒作法のうち最も複雑なのはもちろん出家の具足戒で
これには戒和上(かいわじよう)と羯磨阿闍梨(こんまあじやり)と教授阿闍梨
それに7人の証人(〈三師七証〉…

528 ::2013/05/10(金) 09:56:14.32 ID:cCl2SlJn.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf

他のものに依存することなく、休らいでおり、また
心的構築作用(偽造)によって組み立てられておらず
思考(/されたもの)ではなく、区別(差異)がない
それが真実(実在)(それであること)の性質である
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜170ページ参照

他から知るのではなく

寂静で,戯論によって作り出される虚構もなく

概念思考(妄分別)もなく,意味が異なることもない

これが真如の特徴(相)である

529 ::2013/05/10(金) 09:58:37.87 ID:cCl2SlJn.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf

他のものに依存することなく、休らいでおり、また
心的構築作用(偽造)によって組み立てられておらず
思考(/されたもの)ではなく、区別(差異)がない
それが真実(実在)(それであること)の性質である(中論18-9)

530 ::2013/05/10(金) 22:57:24.96 ID:cCl2SlJn.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

空を理解する事の出来ない(実体性)論者に対して

我々がここで主張することは
空性と空の目的、および空性の意義についての
あなたがたの理解は、矛盾しているということである
その結果あなたがたは、そのことで害されているのである(中論24-7)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜185ページ参照

それらに答えて我らは言う

あなた方は空の目的,空

空の意味を理解していないので

このような批判をしている

531 :Classical名無しさん:2013/05/11(土) 07:59:50.38 ID:8se0QZsh.net
円頓戒

532 ::2013/05/11(土) 23:14:07.66 ID:cCEPI5LY.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf
ダルマについてのブッダの教えは
二つの真実(二諦)に基づいている
この世の
現象的な真実と
究極の真実である(中論24-8)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜187ページ参照

「二つの真理」に正しく基づいて

仏陀たちは法を説かれた

世間的な「世俗の真理」と

究極的な「勝義の真理」である

533 ::2013/05/11(土) 23:20:36.68 ID:cCEPI5LY.net
 
円頓戒(えんどんかい)
http://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E9%A0%93%E6%88%92

百科事典マイペディアの解説

古くは円戒
天台宗で行われる大乗菩薩(ぼさつ)の守る戒
法華によって組織された天台円教の理念と〈梵(ぼん)網経〉などによる
菩薩戒(三聚(さんじゅ)浄戒)との結合によって立てられた戒で
これを受けるとき,すでに成仏が約束され,これを犯すことがあっても
受けることによって得た止悪修善の原動力である戒体は失われないなどと説く

534 :Classical名無しさん:2013/05/12(日) 08:21:08.76 ID:dlVsHRiW.net
神=ゴッド=エホバ=アラー

535 ::2013/05/13(月) 17:20:31.93 ID:AjU0PvxR.net
 
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90
世界大百科事典内のエホバの言及
【ヤハウェ】より
… ユダヤ教では神名を唱えるのを避け
聖四文字YHWHにそれと無関係の母音符号を付し
多くの場合〈アドナイ(主)〉と呼び
〈永遠のケレー(読み)〉と称した
エホバJehovahという呼称は
この習慣を忘れた16世紀以来のキリスト教会の誤読に基づく
ヤハウェ(あるいはヤーウェ)とは
言語学的には
セム語の〈生成する,である〉を意味する動詞ハーヤーと関係するが
歴史的には
南パレスティナの遊牧民集団シャースー(またはショースー)の残した文書に現れるYHWəとの関係が注目されている …

http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC
世界大百科事典内のアラーの言及
【アッラー】より
… 日本ではアラーともよばれる
イスラムの教義では
この神は天地創造以前の永遠の昔から
永遠の未来にわたって存在するものであるが
歴史的にみれば
すでにイスラム以前のアラブの間に知られていたことが
碑文や人名やコーランの記述などから知られる …

536 ::2013/05/13(月) 17:49:05.66 ID:AjU0PvxR.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

この世の現象的な真実と、究極の真実

この二つの真実の間に引かれた区分を
理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも
理解しないであろう(中論24-9)

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるもの
の重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない(中論24-10)

537 ::2013/05/13(月) 18:06:41.02 ID:AjU0PvxR.net
 
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜188ページ参照

世間的な「世俗の真理」と、究極的な「勝義の真理」
  _  _  _

これらの「二つの真理」の

区別を知らない人々は

仏陀が説かれた教えの

深遠なる真如を知ることはない
  _  _  _

世間的なレベル〔の現象〕に依存することなく

究極の意味を示すことはできない

究極の意味を悟らなければ

涅槃に至ることはできない

538 :Classical名無しさん:2013/05/14(火) 10:34:35.81 ID:9tyKBDVC.net
南伝かんでん

539 ::2013/05/14(火) 14:38:26.44 ID:plCkfNLw.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに
タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)

紀元前後、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって
積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる
この考え方は急速に広まり
アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)

8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進
同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)

紀元前5世紀頃 - インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 - セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 - 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 - 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年) - 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 - チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀 - ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀 - タイに伝わる(東南アジアの仏教)

540 :Classical名無しさん:2013/05/15(水) 10:01:43.79 ID:9V9uWKNJ.net
ブハ仏教のブハは幾つあったんでしょうね?

541 :Classical名無しさん:2013/05/16(木) 09:06:06.03 ID:AgPWmYWi.net
仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする
悪意の除去が救済であり、それは共通している

542 :Classical名無しさん:2013/05/17(金) 10:33:11.41 ID:u21JhPHM.net
キリスト教の悪意はサタンと呼ばれ、仏教の悪意は自我執着と呼ばれる

543 ::2013/05/17(金) 22:37:17.05 ID:kKGqVQBz.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E6%B4%BE%E4%BB%8F%E6%95%99

北伝(20部派)

大衆部
一説部
鶏胤部
多聞部
説仮部
説出世部
制多山部
西山住部
北山住部
上座部
雪山部
説一切有部
犢子部
法上部
賢冑部
正量部
密林山部
化地部
法蔵部
飲光部
経量部

544 ::2013/05/17(金) 22:39:28.87 ID:kKGqVQBz.net
 
南伝(18部派)

大衆部
一説部
鶏胤部
多聞部
説仮部
制多山部
上座部
犢子部
法上部
賢冑部
正量部
密林山部
化地部
説一切有部
飲光部
説転部
経量部
法蔵部

545 ::2013/05/17(金) 22:45:38.16 ID:kKGqVQBz.net
 
> 仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする
> 悪意の除去が救済であり、それは共通している

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています

渇愛の特色の一つは『punabbhava』
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で
成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです
たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし
立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます
それは止まりません
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」
という心の状態になることは、決してありません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます

546 ::2013/05/17(金) 22:56:54.10 ID:kKGqVQBz.net
 
> 仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする
> 悪意の除去が救済であり、それは共通している

永久不滅・常住不変のアートマンではなく
それ自体の自性によって成立しているのではなく

因と縁の依存によって
無明と渇愛によって

苦しみが現れる、そして
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです

547 :Classical名無しさん:2013/05/18(土) 08:11:00.91 ID:/lEty9Mo.net
唯識は犢子部から出た

548 :Classical名無しさん:2013/05/19(日) 08:13:11.24 ID:mBysOBMx.net
唯識三十頌

549 :Classical名無しさん:2013/05/20(月) 09:38:17.20 ID:vVZ9/u+M.net
唯識二十論

550 ::2013/05/20(月) 16:33:53.22 ID:GsY0jrEZ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%A2%E5%AD%90%E9%83%A8

犢子部(とくしぶ)は、

釈迦の没後300年頃に分派した、部派仏教の一派である。

上座部系の説一切有部から分派した。

この派は、

輪廻の主体としての人格的主体である「補特伽羅(ほとがら)」(Skt.Pudgala)を、

五薀のほかに想定したことが特徴である。

その理由は、

生命とは五薀の仮和合(けわごう)によって構成された仮の存在で実体を持たない(無我)という説と、

人間が死んだ後に輪廻するという、二つの説を説明するためであると考えられる。

551 ::2013/05/20(月) 16:43:04.20 ID:GsY0jrEZ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

阿頼耶識と種子のはたらき

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、
その影響は種子(阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、
阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。
これを薫習という。
ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が
阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。
このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。
阿頼耶識の「アラヤ」という音は「蔵」という意味のサンスクリット語である。
さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、
新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。
さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、
外界の現象から縁を受けることもある。
この種子は前五識から意識・末那識を通過して、
阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。
これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。
このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。

552 ::2013/05/20(月) 16:48:03.69 ID:GsY0jrEZ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

第一能変
異熟というのは、
阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、
あらゆる種子 (biija) を内蔵している。
感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。
感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。
感触その他もまた、同様である。
そして、根源的識知は激流のごとく活動している。
「暴流の如し」

第二能変
末那識 (mano naama vijJaana) は、
阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。
我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、
我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。
なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。
さらにその他に感触などを随伴する。

この末那識は自我意識と呼んでもよい。
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

この末那識と意識によって、思量があり、
その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。

553 :Classical名無しさん:2013/05/21(火) 08:43:34.82 ID:9CSxmOIs.net
識体転似二分

554 ::2013/05/21(火) 16:26:45.06 ID:wOjkZJQW.net
 
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/yuishikiha2.htm

識の転変 − 「成論」釈 

識の転変との語を「成論」はどのように釈しているかと言うと、
安慧釈が識の相の時間的変化として釈しているのに対して、
「成論」は同一刹那における識の中での作用として釈している。

識の転変とは「識体転似二分(識体が転じて二分と似(の)る)」
ことであると短い句を以って明確に釈されており、
この句は法相宗においては公理化されている。

この句が意味するところは、
識は各刹那において「見分」と「相分」との二つの分として機能し、
二分の間で認識・表象が為されるという教説である。

見分とは識における認識する・表象する側つまり主体の側であり、
相分とは識における認識される・表象される側つまり対象・客観の側である。

認識・表象とは、本来は一つである識が見分と相分とに二分して、
主体の側である見分が対象の側である相分を
認識・表象するということとして為されると主張される。

識との語は識(しる)という主体的作用を意味しているが、
衆生の認識作用においては識る主体とは別の、
主体とは分離した対象・客観が実在するように誤謬されてしまう。

つまり衆生は何かを認識する際に対象を遍計所執・虚妄分別してしまう。

唯識派においては、
遍計所執・虚妄分別されたもの、つまり対象として認識されたものは、
対象としては非実在であり無であると断言される。

555 :Classical名無しさん:2013/05/22(水) 08:12:30.87 ID:axWuuj4J.net
不落因果、不落スレッド

556 ::2013/05/22(水) 09:50:32.52 ID:e8p8vSV3.net
 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410840489

「不落因果」は生きた事象としての現実の全ての因果は看取れないという認識の元に、
所詮全てを明らかにはしてくれない現実の中での因果を敢えて断ち切る謂わば方便のようなものです。
噛み砕いた言い方をするなら
「今日は昨日の続きではない。また明日の為の今日ではない」あるいは「今を生きる」あるいは
「果報を未来に期待せず、今この時に頂いてしまう。すなわち楽しい事をするのではなく、する事を楽しむ」
また考えようによっては「日日是好日」や「一期一会」も同じ事態の違う表現と考える事も可能なはずです。

ただ「不落因果」とは言っても本質的には因果を無視して良いと言ってはいません。
あくまでも意識的に断ち切る謂わば方便と申し上げたはずです。
ですから対を成す「不昧因果」が同時に言われると考えて下さい。

ですからこの両者は2つ対になって意味を成すと考える事も可能かと思われます。

557 ::2013/05/22(水) 09:57:58.47 ID:e8p8vSV3.net
 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1018818515

http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/071101.html

「不昧因果」は「不落因果 不昧因果」と言う対になった言葉です。

因果から抜け出せないと言うこと(不落因果)を考えて長い間野狐に身をやつしていた人が

「真実は因果に暗からず」という言葉を聞いてたちどころに悟ったという話です。

不昧とは、明るくさせる、おろかでない、道理を明らかにさせるという意味です。

不昧因果とは、「因果をくらまさない、因果をごまかさない」という意味の禅語です。

558 ::2013/05/22(水) 10:06:56.07 ID:e8p8vSV3.net
 
「不落因果」は生きた事象としての現実の全ての因果は看取れないという認識の元に
所詮全てを明らかにはしてくれない現実の中での因果を敢えて断ち切る謂わば方便のようなものです
  _  _  _

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には

永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を

: 無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に
気づくまでは、気づくことは難しい

559 :Classical名無しさん:2013/05/25(土) 09:27:43.49 ID:TWZVt/2L.net
スレッド落ちずに七百生

560 :Classical名無しさん:2013/05/26(日) 09:18:13.14 ID:T3H15EVS.net
灰身滅智

561 ::2013/05/26(日) 14:03:56.92 ID:vBep3jMq.net
 
灰身滅智(ケシンメッチ)
http://kotobank.jp/word/%E7%81%B0%E8%BA%AB%E6%BB%85%E6%99%BA
  _  _  _

デジタル大辞泉の解説
《身を灰にし、智を滅する意》仏語
煩悩(ぼんのう)を断ち、身も心も無にして執着を捨てること
上座部仏教の理想とする境地。灰断(けだん)。灰滅(けめつ)
  _  _  _

大辞林 第三版の解説
〔身を灰にし智を滅する,の意〕
一切の煩悩(ぼんのう)を断ち切り心身を全くの無に帰すこと
小乗仏教の理想とする涅槃(ねはん)の境地。灰滅。無余灰断(けだん)

562 ::2013/05/27(月) 09:34:49.30 ID:DPPBLvmP.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf

依存的に生じること(縁起)を理解する者は
誰であれ苦しみ(苦諦)をも理解し
そして、それが生じるということ(集諦)を理解し
そしてその方法(道諦)とともに、
それが消滅するということ(滅諦)を理解するのである(中論24-40)
  _  _  _

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜217ページ参照

縁起を見る者は

苦諦、集諦

滅諦、道諦の

すべてを見る

563 ::2013/05/27(月) 09:49:36.54 ID:DPPBLvmP.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

苦諦
集諦

滅諦
「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い
いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり
煩悩の火の吹き消された世界をいう
または、苦の滅があるということを認識すること
すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という

道諦
「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法
実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である
その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である

564 :Classical名無しさん:2013/05/28(火) 09:39:38.09 ID:2ecAE2DM.net
道諦…童貞を卒業するための修行の道程のこと
早くウープランドへ行こう!!

565 :Classical名無しさん:2013/05/30(木) 08:07:57.15 ID:QhhiiYlt.net
Wikipediaによると、

ソープランドは、湯船のある部屋(浴室)で女性従業員(風俗嬢)が、
男性客に対し性的なサービスを行う風俗店である。
風俗店の中でも性交を含めた至れり尽くせりのサービスを提供する
ため「風俗の王様」と称される。
「ソープ」、「特殊浴場」、「個室(高級)サウナ」などとも呼ばれる。
日本で独特に発達した営業形態であるが、
やや形を変えた同様の業態が外国にも見られる。
平成24年度(2012年)版警察白書によると
ソープランド等の届出店は2011年(平成23年)時点では1246店ある。

566 :Classical名無しさん:2013/05/31(金) 10:43:50.72 ID:I8DJsE3H.net
ちなみに維摩経には【うーぷらんど】へ逝ってよし!!と書いてある

567 :【吉】 :2013/06/01(土) 05:33:02.30 ID:7MqwVYPd.net
てす(@_@)

568 ::2013/06/01(土) 13:49:47.48 ID:Pro/IFJL.net
 
> ちなみに維摩経には【うーぷらんど】へ逝ってよし!!と書いてある

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/490450772X/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

サンガジャパン Vol.4(2011Winter)

後期密教の悟り

性的ヨーガ開発

107ページ参照

性欲を修行によって悟りへの原動力に変容させることをもくろんだからにほかならない

と私(正木晃)は思う

569 :Classical名無しさん:2013/06/02(日) 13:22:51.18 ID:fRs86ZEL.net
原始仏典『スッタニパータ(経集)』では
「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得たものを得るたびに
 そのたびごとに失う人がいる。これは破滅への門である。」

570 ::2013/06/02(日) 18:12:14.17 ID:27wePnRs.net
 
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

106
女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる
これは破滅への門である

571 :Classical名無しさん:2013/06/03(月) 17:36:42.35 ID:WNpsxaUb.net
維摩経方便品第二において維摩居士は仏教的に正しく、模範とすべき行動例として
・賭博施設に入り
・売春宿に入り
・酒場に入り
などをしている
法の為にそれらに入らない、関わらない考えと、法の為にこそそれらに入り、
交わるという考えがある
前者が小乗と呼ばれ、後者が大乗と称されるが、
いずれもあくまでも法の為にされることに注意

572 :Classical名無しさん:2013/06/05(水) 08:27:15.14 ID:pzPPSj79.net
維摩は浄名ともいう
維摩はヴィマラキールティの音写で、意訳すると浄名になる

573 :Classical名無しさん:2013/06/06(木) 09:26:38.51 ID:dO/Ws58f.net
鴨長明の方丈記は維摩経から来ている

574 ::2013/06/07(金) 08:54:13.56 ID:pwFQCXeM.net
 
> 法の為にそれらに入らない、関わらない考えと、法の為にこそ
> 前者が小乗と呼ばれ、後者が大乗と称され

大乗でも
空海の場合は
法と言うのは
三十七菩提分法の事であるらしい

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483660814

日本(の大乗の場合)では
真言宗空海様がその著書「弁顕密二教論」の中に
「三十七菩提分法是れ法宝なり」と書かれ

また
曹洞宗道元禅師様が「正法眼蔵」の第六十で
「この三十七菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり
仏祖一枚、これを三十七菩提分法と参学しきたれり」
と書かれています

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E9%81%93%E5%93%81

三十七道品(さんじゅうしちどうぽん)とは
中阿含経などに説かれた、悟りに至るための三十七の修行法のこと

575 ::2013/06/07(金) 09:06:04.30 ID:pwFQCXeM.net
 
>>574 の続き

悟りに至るための具体的な方法は?

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には

永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を

: 無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』

およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます

一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に
気づくまでは、気づくことは難しい

576 ::2013/06/07(金) 09:18:15.58 ID:pwFQCXeM.net
 
>>575 の続き

なぜ 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に、気づくまでは、気づくことは難しいのか? その理由は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

末那識(まなしき)

睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける

この深層的な自我心(末那識)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩

577 ::2013/06/07(金) 13:00:23.08 ID:pwFQCXeM.net
 
>>576 の続き
> 深層的な自我心(末那識)を滅することによって、無我の行を実践する為には?

想受滅(滅尽定)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する
(C)は、想受滅においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち : 受 ・ 想 ・ 行 : が滅している

578 ::2013/06/07(金) 13:14:25.87 ID:pwFQCXeM.net
 
>>577 の続き
> : 受 ・ 想 ・ 行 : を滅させる為の方法は?

新アジア仏教史 09 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ
チャンダーリーの火とは
臍(へそ)のチャクラに宿る熱である
この熱の力で「風(ルン)」を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り、留まり、溶け込む事に習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に
四段階の歓喜が生じ、最終的には
源初から存在する(倶生)大楽を元に
楽空無別の智恵を獲得する
  _  _  _

絶倫的精力によって

性欲を修行によって悟りへの原動力に変容させることをもくろんだからにほかならない

と言う事であるらしい

579 ::2013/06/09(日) 08:18:50.84 ID:IsMEAGAg.net
ヨガらない
ヨガります
ヨガれば
ヨガれ
ヨガろう!!

580 :Classical名無しさん:2013/06/10(月) 08:07:21.09 ID:IIFdRwEX.net
吸って吐く

581 :Classical名無しさん:2013/06/11(火) 08:36:36.52 ID:cW2UTyy9.net
ヨガ経を読もう

582 ::2013/06/11(火) 09:03:43.52 ID:6Xn+EkFk.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9

『ヨーガ・スートラ』(瑜伽経、ゆがきょう、とも)は
インド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。
成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって編纂されたとされる。
『スートラ』は『糸』の意味であり、糸のようにパタンジャリが説いた短い言葉を連ねたものである。
「ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としての8階梯と、その背景にある思想が述べられる。

4章195節からなる。
第1章(51節) - 概要・定義など
第2章(55節) - 禁戒、勧戒、座法、調気法、制感など
第3章(55節) - 凝念、静慮、三昧など
第4章(34節) - 補足など

アシュタンガヨーガとも。(アシュト=8、アンガ=枝・手足)
1).ヤマ:禁戒 - やってはいけないことを守る。暴力をふるわない・嘘をつかない・盗みをしない・貪らない・貞潔
2).ニヤマ:勧戒 - すすめられるべき道徳。清浄・足るを知る・苦行・学誦・神霊への帰入
3).アーサナ:座法 - 正しい姿勢をとる。
4).プラーナーヤーマ:調息 - 呼吸法でプラーナ(気)を取り入れる。
5).プラティヤーハーラ:制感 - 外側に向けていた感覚を内側に向け、内的感覚を養う。
6).ダーラナー:凝念 - 意識を対象に集中させる。
7).ディヤーナ(ディヤーン):観想(静慮) - 意識が対象から流出し、拡大する。「禅」はこの音写。
8).サマーディ:三昧 - 意識が対象と一体化する。

『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 平河出版社
『ヨーガ根本経典』 佐保田鶴治 平河出版社
『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 スワミ・サッチダーナンダ著 伊藤 久子訳 出版社:めるくまーる

583 :Classical名無しさん:2013/06/13(木) 09:53:09.38 ID:lmsx5CD8.net
仏教とブックオフは似ている…いない

584 :Classical名無しさん:2013/06/14(金) 09:30:41.00 ID:0dmTgZ/U.net
仏教とドッキングは似ていない

585 ::2013/06/14(金) 18:12:49.54 ID:NcRhgL7n.net
 
http://www.sist.ac.jp/~shinba/quantumsuicide.pdf

6.遍在転生世界観
転生世界観は,通常の確率論における,参照集団としての可能世界集合を,人格の立場で規定しているのだといえそうである
私であったかも知れない人格を,私であるといって良いのか、と言う基本的問題に戻ってしまうのでは無いだろうか

586 ::2013/06/14(金) 18:18:43.10 ID:NcRhgL7n.net
 
サーンキヤ学派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

サーンキヤでは精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、
それに対し物質原理であるプラクリティを第1原因とも呼び、
サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる3つの構成要素からなるとし、
これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。

しかしプルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる。
プラクリティ → 理性 → 自我意識 という順序で原理が現れ、自我意識からは思考器官・知覚器官・行為器官が生まれる。
知覚器官には耳・皮膚・眼・舌・鼻があり、行為器官には発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官がある。
また、自我意識は他方では元素としての(音・触感・色・味・香)を生み、
元素は五大の要素(虚空・風・火・水・地)を生む。これらの対象は知覚器官に対応している。

プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする。

人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが、
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている。

サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。

587 ::2013/06/14(金) 18:27:57.14 ID:NcRhgL7n.net
 
チベット ゲルク
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

自相とは、
「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」
と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

自立論証派は、
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します。
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。

588 ::2013/06/14(金) 18:35:55.24 ID:NcRhgL7n.net
 
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

永久不滅・常住不変のアートマンではなく

それ自体の自性によって成立しているのではなく

因と縁に依存して

空である故に

我愛と、戯論(けろん)と、善悪業によって

又,次の,この世の生に戻り来る

589 ::2013/06/14(金) 20:01:10.45 ID:NcRhgL7n.net
 
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/643

643 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:25:35.30 ID:OX1DmfIT
仮とか空とか縁起は形而上学でしかないのかもね
不生不滅っていっても現実問題生まれるし死ぬしね
輪廻するかしないかなんか証明できないし
中観派は縁起で全部説明できると思ってるのかもしんないけど、実際死後は死なきゃわからんよ
  _  _  _

中論觀四諦品第二十四
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm

世俗諦とは、一切の法は、性空だが
而し、世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ、世間には、是れが、実である
諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に、一切の法は、皆、空で、無生だ、と知り
聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける

衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ、と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた

590 ::2013/06/14(金) 20:46:45.83 ID:NcRhgL7n.net
 
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/643

643 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:25:35.30 ID:OX1DmfIT
仮とか空とか縁起は形而上学でしかないのかもね
不生不滅っていっても
  _  _  _

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 91〜94ページ参照

因と縁の依存によって 『 滅している 』 ものは

それ自体の自性で 『 滅しているのではない 』

因と縁の依存によって 『 生じている 』 ものは

それ自体の自性で 『 生じているのではない 』

591 :Classical名無しさん:2013/06/16(日) 08:11:37.06 ID:l+p6rBPx.net
空の論理は形而上と形而下のアウフヘーベンなり

592 :Classical名無しさん:2013/06/17(月) 17:16:29.06 ID:pW9GYPk7.net
空の論理は形而上学である、と言えば間違いだし、かといって
形而上学ではない、と言っても間違い

593 :Classical名無しさん:2013/06/18(火) 08:57:00.86 ID:644UKK8o.net
存在と認識の中道を説くのが仏教である

594 :Classical名無しさん:2013/06/20(木) 09:37:08.26 ID:Wo64Gw4+.net
中道とは四句に偏らないこと

595 :Classical名無しさん:2013/06/21(金) 08:30:00.01 ID:33KKTm8d.net
坊主バーが流行ってる

596 ::2013/06/22(土) 08:31:31.05 ID:rSXAjK2P.net
 
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

永久不滅・常住不変のアートマンではない
それ自体の自性によって成立しているのではない

空である故に
因と縁の依存によって

人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された我愛が現起して
その力にうながされて
自己に愛著して
無始の時以来続いて来た執着された戯論(けろん)と善悪業によって
死から次の生存への出生に至る
中有身が形成される
  _  _  _

#4 魔界潜入!怪奇心霊(秘)ファイル01
https://www.youtube.com/watch?v=L9kLI8kEWqk

           ↑

やらせ、しこみ、合成動画、かもしれないけど

我愛と、戯論(けろん)と、善悪業によって形成された中有身、かもしれない

597 :Classical名無しさん:2013/06/22(土) 08:47:56.02 ID:eBGSFNbO.net
しかし、坊主バーはアゴン経から見ても、維摩経から見ても、サンガの戒から見ても、
アウトでしょう

598 ::2013/06/22(土) 09:40:09.29 ID:rSXAjK2P.net
 
坊主バーの中の人にも

机先生と同じ様に

「 すべて無である 」 と勘違いしている人も結構たくさん居るかもしれない
  _  _  _

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ、と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
  _  _  _

『 八正道を修習して … 』 と衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いているのに

「 中論は(表面意識で思惟する)哲学である 」 と勘違いしている人も結構たくさん居るかもしれない

599 :Classical名無しさん:2013/06/23(日) 09:01:27.13 ID:BIpbYbuf.net
沢山いると思いますよ
坊主バーの彼らは多分、人助けが仏教だと思ってる
しかし困ってる人を救うならお金をばら蒔けばイイのです
しかし彼らは逆に酒代を取って、労働の対価を得て、サービス業に精を出している
そしてホントの仏教の救済である自我執着を打ち破り、
苦しみから解脱するというとこまでは行こうともしないし、
行かせてあげようともしない

600 :Classical名無しさん:2013/06/25(火) 07:57:12.11 ID:QPooxFPP.net
坊主バーには極楽浄土という名のカクテルがあるらしい

601 :Classical名無しさん:2013/06/27(木) 08:06:11.80 ID:GmP9Qvi4.net
阿鼻叫喚地獄

602 :Classical名無しさん:2013/06/29(土) 07:21:10.56 ID:8J5oEZHB.net
灼熱地獄

603 :【ぴょん吉】 :2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:sfT5m+sd.net
↑イイのが出ますように!!!!!(@_@)

屮(@_@)屮

604 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E7%8D%84

長阿含経
(1) 想地獄
(2) 黒縄地獄
(3) 堆圧地獄
(4) 叫喚地獄
(5) 大叫喚地獄
(6) 焼炙(しょうしゃ)地獄
(7) 大焼炙(だいしょうしゃ)地獄
(8) 無間地獄である

想地獄は現在の等活地獄、焼炙・大焼炙地獄は
焦熱・大焦熱地獄に対応していると思われるが
具体的な内容は不明

605 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20130701_605845.html

D-Wave社の量子コンピュータは「本物」〜米研究者グループが「量子効果を確認」とネイチャーに発表 2013/7/1 11:09

カナダのD-Wave社が開発、販売した「量子コンピュータ」が本物である可能性が極めて高くなった

28日、米国の研究者グループがNature Communicationsに発表した論文の中で
「量子効果を確認した」と主張しており、この論文内容が認められれば
今世紀初め以来利用されてきたコンピュータの原理と本質的に異なる
量子コンピュータが現実に商業的に販売されていることになり
これまでよりもはるかに高速に特定の問題を解くことが可能になる

D-Wave社は2011年に同社初の量子コンピュータ「D-Wave One」を発表し
米国最大の防衛産業企業ロッキードマーチン社との契約を締結した
また2013年5月には、米NASAと米Googleなどが購入契約を締結している

これまでD-Waveが量子コンピュータであるか否かについて、物理学者たちの間で意見の一致を見ていなかった
それでも確かに高速に問題を解くことができているとの見解が複数の研究者により繰り返し発表されてきた

今回、28日に南カリフォルニア大学のSergio Boixo氏とTameem Albash氏、Daniel A. Lidar氏らの研究チームが
Nature Communicationsに発表した論文「Experimental signature of programmable quantum annealing」の中で
D-Waveのコンピュータが古典力学に従うコンピューティングモデルではなく
量子力学的効果を使用していることが確認できたと主張している

606 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/456302435X/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

相転移・臨界現象の統計物理学 新物理学シリーズ [単行本]/西森 秀稔 (著)

内容紹介

くりこみ群やKT転移などの基本的な概念について,初心者向けのわかりやすい(しかし手抜きのない)解説がされています。
また,ランダム系,厳密解,双対性などのやや進んだ話題についても,
物理学科などで3年生までに学ぶ標準的な統計力学,量子力学,物理数学以上の予備知識はなくても読めて面白さが分かるだけでなく,
ある程度「使える」ようになることを目指して書かれてあります。

統計力学や物性理論を専攻する大学院生だけでなく,意欲のある学部学生,
相転移・臨界現象の理論を改めて勉強したい他分野の研究者・学生の皆さんにも役立つことと思います。

内容(「BOOK」データベースより)
本書は統計力学の基礎を学んだ人を念頭に、相転移、臨界現象の全般についてまとめた入門的解説書である。
相転移・臨界現象の標準的なテーマを解説したあと、ランダム系、厳密解、双対性といったややトピック的な題材も取り上げ丁寧に説明。

607 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%BB%A2%E7%A7%BB

相転移(そうてんい、英語:phase transition)とは
化学的、物理的に均一な物質の部分である相 (Phase) が他の形態の相へ転移することの
熱力学あるいは統計力学上の概念であり、それらを発生機構とする物理現象の総称でもある
相転移の発生は特定の原因に由来せず、原子あるいは分子間の相互作用を初めとし
結晶構造や局所構造あるいは磁場や温度・エネルギー分布など
場合に応じて複数の要素が複合的に作用して発生する現象である

次に代表的な相転移の例を示す

構造相転移(気相、液相、固相間の転移など)
磁気相転移(常磁性、強磁性、反強磁性などの間での転移)
金属-絶縁体転移(モット転移など)
常伝導-超伝導転移(超伝導)
常誘電体-強誘電体転移
真空の相転移(宇宙論)

608 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4054051278/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

実録 本当にあった警察の心霊事件簿/北芝健、川口友万

内容説明

元警視庁公安私服警察官である北芝健が実際に捜査した刑事事件で遭遇した心霊現象の数々
事件で犠牲になった人々の無念を晴らすために、彼が実践したサイキック捜査とはいったい何か
けっして調書には記されることのない超常現象を一挙大公開する

日本でも心霊捜査は行われていた!元警視庁私服捜査官が明かす犯罪捜査の真実

609 ::2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB.net
 
稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 1
貸出開始日: 2013/07/05
収録時間: 85分
出演者: 稲川淳二 二宮歩美 奥山奈々

稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 2
貸出開始日: 2013/07/05
収録時間: 85分
出演者: 稲川淳二 疋田紗也 奥山奈々

2003年からスタートした 『 恐怖の現場 』 シリーズが遂に最終章!
今回も最終章にふさわしく様々な心霊現象を撮らえることに成功!

610 :Classical名無しさん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:gPLoRkh5.net
地獄はグシャロンにも書かれてありますな

611 :Classical名無しさん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN ID:WRi3BfCH.net
もうグシャグシャ

612 :Classical名無しさん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:6z6wfBZ2.net
ちなみに滅茶苦茶も元は仏教語

613 :Classical名無しさん:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:gJyZDsfO.net
空海と論戦した徳一
イイ勝負だったことでしょう

614 ::2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:T6Povn8Y.net
 
ほんとにあった!呪いのビデオ 53
貸出開始日: 2013/07/05
収録時間: 65分

ほんとにあった!呪いのビデオ 54
貸出開始日: 2013/08/02
収録時間: 65分

一般投稿による心霊映像を集めた人気シリーズ『ほんとにあった!呪いのビデオ』最新作。
一般ユーザーの反響も交え、全国からつぎつぎと寄せられる新規投稿も満載!

615 ::2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:BqH5iUuQ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96

『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は
説一切有部の『発智論』『大毘婆沙論』(婆沙論)の説を
中心に他部派の説も加えて
仏教哲学の基本的問題を整理したものである
世親著。略称を『倶舎論』という

説一切有部の行き過ぎた教理に対して
経量部の立場から批判が加えられている部分がある点に特色がある
このため後に衆賢の『順正理論』によって批判される

1.界品(かいぼん) - 存在の種類
2.根品(こんぼん) - 存在現象の活動
3.世間品(せけんぼん) - 世界の構成
4.業品(ごうぼん) - 有情の輪廻の原因となる業
5.随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩
6.賢聖品(けんしょうぼん) - 悟りの段階
7.智品(ちぼん) - 智慧
8.定品(じょうぼん) - 禅定
9.破我品(はがぼん)

界品・根品で基礎的範疇を説明し
世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し
賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く

616 ::2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:BqH5iUuQ.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日 (旧暦)(835年4月22日))は
平安時代初期の僧
弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が
今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し
中国より真言密教をもたらした

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80
徳一(とくいつ)は奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧
最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や
空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる

617 ::2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:+D0zLmIm.net
 
サンライズ出雲
http://4travel.jp/domestic/area/chugoku/shimane/matsue/matsue/travelogue/10647220

618 ::2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:+D0zLmIm.net
 
新アジア仏教史02インドII
仏教の形成と展開/奈良康明、下田正弘

第2章 原始仏教の世界/並川孝儀/68ページ参照

チベット語訳で伝えられる
『 アビダルマコーシャ・ウパーイカ 』 の全貌が明らかになり
新しい阿含経が開示された
全訳が出版される予定であるが
この成果は初期仏教研究に大いなる実りをもたらしそうである

619 ::2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:e2wg5Pog.net
 
サンライズ瀬戸
http://natsuco.jugem.cc/?eid=4955

620 ::2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN ID:CKblk4XM.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

業(ごう)とは
仏教の基本的概念である karman を意訳したもの、「行為」を意味する

アートマンを認めない無我の立場をとる思想では

 → 心の流れ(心相続)に付随するものとされた ←

中国、日本の思想にも影響を与える
  _  _  _

因と縁の依存によって現れ滅するので
永久不滅、常住不変の我ではない

621 :Classical名無しさん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN ID:lYcRJ3fQ.net
それがさー付き合いとかもあるだわ。
自分で取りなよー。

ヤクザ風の男の人といたってー。
あなたでそんなんで私たちはどうするのー?
千尋千尋。

お、いつもの3人組だ。

622 ::2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:m4nO7l5w.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&amp;nonum=&amp;kaeri=&amp;mode2=2&amp;useid=0099_,02,0029c01

T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&amp;nonum=&amp;kaeri=&amp;mode2=2&amp;useid=0099_,02,0032a21

T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。
  _  _  _

T0099_.02.0032a26: 見我異我相在不 ← 我と見るか? 異我か? 相在か? 不か?

我でもない、異我でもない、相在でもない

623 ::2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0029c01:0099_,02,0029c08.html

624 ::2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032a21:0099_,02,0032b06.html

T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。受想
T0099_.02.0032a27: 行識。亦復如是。復問。云何仙尼。色是如
T0099_.02.0032a28: 來耶。答言。不也世尊。受想行識。是如來
T0099_.02.0032a29: 耶。答言。不也世尊。復問。仙尼。異色有
T0099_.02.0032b01: 如來耶。異受想行識有如來耶。答言。不
T0099_.02.0032b02: 也世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受想
T0099_.02.0032b03: 行識中有如來耶。答言。不也世尊。復問。仙
T0099_.02.0032b04: 尼。如來中有色耶。如來中有受想行識耶。
T0099_.02.0032b05: 答言。不也世尊。復問。仙尼。非色非受想行
T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼。

625 ::2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032b05:0099_,02,0032b19.html

T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼。
T0099_.02.0032b07: 我諸弟子。聞我所説不悉解義。而起慢無
T0099_.02.0032b08: 間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。
T0099_.02.0032b09: 捨此陰已。與陰相續生。是故仙尼。我則記
T0099_.02.0032b10: 説。是諸弟子。身壞命終。生彼彼處。所以
T0099_.02.0032b11: 者何。以彼有餘慢故。仙尼。我諸弟子。於
T0099_.02.0032b12: 我所説。能解義者。彼於諸慢。得無間等。
T0099_.02.0032b13: 得無間等故諸慢則斷。諸慢斷故身壞命終
T0099_.02.0032b14: 更不相續。仙尼。如是弟子我不説彼捨此
T0099_.02.0032b15: 陰已生彼彼處。所以者何。無因縁可記説
T0099_.02.0032b16: 故。欲令我記説者。當記説。彼斷諸愛欲。
T0099_.02.0032b17: 永離有結。正意解脱。究竟苦邊。我從昔來
T0099_.02.0032b18: 及今現在常説。慢過慢集慢生慢起。若於慢
T0099_.02.0032b19: 無間等。觀衆苦不生。

626 :☆ おじゃる ☆:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:XpdEKTRd.net
 
おじゃる 屮(_ ._)屮

627 :☆ おじゃる ☆:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:kLoH5Taz.net
 
卍 仏教以外でもよしっ! 卍

628 :☆ おじゃる ☆:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:NCZOGm4P.net
 
禅定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A

心を統一して瞑想し、真理を観察すること
またそれによって心身ともに動揺することがなくなった
安定した状態を指す
坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする
仏教においては
涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く
禅定を得る止行に対して、観行も重視される

日本仏教と禅定
日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても
禅定を得るために様々なアプローチが派生してきたといわれる
曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと
天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し
真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する
浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える
時宗においては踊りながら念仏を唱え
日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える
いずれのアプローチも
思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる

629 :☆ おじゃる ☆:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:94ZAa27z.net
 
> 生きて涅槃もあります

有余涅槃ですね? ↓

//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

有余涅槃
釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う

無余涅槃は
八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである

この場合の、「余」とは「身体」のこととみて
身体のある間の「さとり」
身体のなくなった「さとり」とわける

630 :☆ おじゃる ☆:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:94ZAa27z.net
 
> 凡人には煩悩を滅しきるのが不可能に近く
> 死んだら煩悩も無くなるので、死→涅槃と変わっていったのでしょう

この現世において、慢を滅させることのできなかった場合は

『 たとえ身壊れて命終しても又、次の、この世の生(来世)に戻り来る 』

 ↓ ということであるらしい

T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五

//21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032b05:0099_,02,0032b19.html

T0099_.02.0032b06: 佛告仙尼。
T0099_.02.0032b07: 我諸弟子。聞我所説不悉解義。而起慢無
T0099_.02.0032b08: 間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。
T0099_.02.0032b09: 捨此陰已。與陰相續生。是故仙尼。我則記
T0099_.02.0032b10: 説。是諸弟子。身壞命終。生彼彼處。所以
T0099_.02.0032b11: 者何。以彼有餘慢故。

631 :☆ おじゃる ☆:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:ubKqZIFl.net
 
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1579_,30,0279a01:1579_,30,0279a07.html

T1579_.30.0279a01:
T1579_.30.0279a02: No.1579[cf.Nos.1580-1584]
T1579_.30.0279a03:
T1579_.30.0279a04: 瑜伽師地論卷第一
T1579_.30.0279a05: 彌勒菩薩説
T1579_.30.0279a06: 三藏法師玄奘奉 詔譯
T1579_.30.0279a07: 本地分中五識身相應地第一

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1579_,30,0282c29:1579_,30,0283a10.html

T1579_.30.0282c29:
T1579_.30.0283a01: 爾時父母貪愛倶極。最
T1579_.30.0283a02: 後決定各出一滴濃厚精血。二滴和合住母
T1579_.30.0283a03: 胎中合爲一段。猶如熟乳凝結之時。當於
T1579_.30.0283a04: 此處。一切種子異熟所攝。執受所依阿頼耶
T1579_.30.0283a05: 識和合依託。云何和合依託。謂此所出濃厚
T1579_.30.0283a06: 精血合成一段。與顛倒縁中有倶滅。與滅
T1579_.30.0283a07: 同時即由一切種子識功能力故。有餘微細
T1579_.30.0283a08: 根及大種。和合而生。及餘有根同分精血和
T1579_.30.0283a09: 合摶生。於此時中説識已住結生相續。即
T1579_.30.0283a10: 此名爲羯羅藍位。

632 :人鏡止水爺:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:rs+VVA8g.net
懺悔懺悔〜
六根清浄!

633 ::2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:ubKqZIFl.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94

仏教において懺悔

自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること
本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ
半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか
自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった

また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に

 『 懺悔、懺悔、六根清浄 』 と唱える
  _  _  _

屮(_ ._)屮< 『 懺悔懺悔〜 六根清浄!』

634 :☆ おじゃる ☆:2013/09/03(火) 12:58:06.59 ID:NaB+5s/h.net
 
> 無知のまま浅薄な誤謬論が繰り返されている

> 『悟り』は迷妄である

無知のまま浅薄な誤謬論を繰り返してる

世俗の衆生を引導する為に仮名の空を以って説明する必要がある

ということですね?

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm

中論觀四諦品第二十四

衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ!と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる

是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である!但だ

衆生を引導するが故に仮名の空を以って説いた

空ならば、有無の二辺を離れる

635 :☆ おじゃる ☆:2013/09/04(水) 14:19:20.80 ID:1kjG0jiA.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC

ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる

クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる

サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至るが
今世で解脱できる魂は極一部といわれている

636 :☆ おじゃる ☆:2013/09/13(金) NY:AN:NY.AN ID:mhAmIf4T.net
 
稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 1
貸出開始日: 2013/07/05
収録時間: 85分

稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 2
貸出開始日: 2013/07/05
収録時間: 85分

北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.1〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd
貸出開始日: 2013/06/05
収録時間: 112分

北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.2〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd
貸出開始日: 2013/07/03
収録時間: 112分

北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.3〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd
貸出開始日: 2013/07/10
収録時間: 112分

怪談新耳袋 殴り込み!劇場版 魔界編 【前編】
貸出開始日: 2013/08/07
収録時間: 90分

怪談新耳袋 殴り込み!劇場版 魔界編 【後編】
貸出開始日: 2013/08/07
収録時間: 90分

637 :淀屋橋ハニワ:2013/09/13(金) 10:19:47.06 ID:0wU97X5E.net
UN・BABA・UN・BA・UN・BABA・UN・BA・HO!(◎д◎)

638 :☆ おじゃる ☆:2013/09/13(金) 17:29:45.98 ID:mhAmIf4T.net
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97

ラップ(rap)とは、音楽手法、歌唱法のひとつ
小節の終わりなどで韻を踏みながら、あまりメロディを付けずに
リズミカルに喋るように歌う方法の事である
ヒップホップ四大要素の一つ。稀にMCingと呼ばれることもある
この歌唱法で作られた音楽のジャンルを指してラップと呼ばれることもある
ラップとは上記のような歌唱法を指す言葉なので、ジャンルを指しては
ラップ・ミュージックやヒップホップ・ミュージックなどと呼んだほうが正しい
ラップをする人のことをラッパー(rapper)やMCと言う

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97%E7%8F%BE%E8%B1%A1

ラップ現象(ラップげんしょう)とは
誰も関与しないまま
「 誰もいない部屋や、何も存在しない(ように見える)空間からある種の音が発生し、鳴り響く 」
とされる現象で
超常現象、心霊現象といわれるものの一つである
本来の超常現象的あるいは心霊現象的なラップ音以外にも
原因不明の音声が鳴る現象を、広義でこう呼ぶ場合もある

639 :Classical名無しさん:2013/09/15(日) 14:03:11.75 ID:N6S1l379.net
ある時、イエスが弟子たちを連れて街中を闊歩していると一人の女性が民衆から石を投げつけられていた。
なぜこんなことをしているのかと、弟子が民衆の一人に問うと、「この女は罪人だからだ」と答えた。
それを聞いたイエスは民衆にこう言った。

「ならばしかたがない。続けなさい」
そしてこう続けた。
「ただし、一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」

民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ、
石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。

640 :Classical名無しさん:2013/09/15(日) 14:05:50.72 ID:cA6sAUfs.net


641 :Classical名無しさん:2013/09/17(火) 07:57:01.49 ID:qK9TqIOc.net
罰当たりwww

642 :Classical名無しさん:2013/09/22(日) 07:59:36.19 ID:QKCk8qSE.net
しょーこしょーこしょこしょこしょーこ
あさはらしょーこ♪

643 :☆ おじゃる ☆:2013/09/23(月) 04:39:24.29 ID:B7TxSgol.net
 
★イイ女限定★俺と語ろうぜの14
http://archive.2ch-ranking.net/entrance2/1359851349.html

644 :☆ おじゃる ☆:2013/09/23(月) 13:07:03.67 ID:B7TxSgol.net
 
まりか ◆Ck/jz51Ib. part1
http://www.logsoku.com/r/intro/1371222470/

645 :☆ おじゃる ☆:2013/09/27(金) 05:10:43.36 ID:pOOjWxMG.net
 
299 と 300 と 301 の続き

龍樹の中論
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf

第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

11.
無知(無明)が止まると
行為(諸行)は生じなくなるだろう
無知の停止は
瞑想と知恵(智)を通して生じるのである

646 :☆ おじゃる ☆:2013/10/10(木) 14:36:55.70 ID:fZ2ivQvH.net
 
チベット ゲルク派
http://rdor-sems.jp/index.php?%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E7%89%B9%E8%89%B2

チベット仏教の教理と実践

「般若経」の思想をもとに説かれた
ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』
チャンドラキールティ(月称)の『入中論』
弥勒菩薩の『現観荘厳論』などは
チベットの僧院で学習する中心課題となっている

『中論』と『入中論』は、空と縁起の哲学を説いている
「空」とは、あらゆる存在に実体がないことであり
「縁起」とは
そのように実体を伴わぬものが他に依存して成立することだ
私たちの世界は、全て縁起によって成立し
その本当のあり方は空にほかならない
こうした真理を深く学び、瞑想を通じて体得することにより
貪欲・怒り・無知などの煩悩を減らしてゆくというのが
智慧の面での仏道修行だ

647 :Classical名無しさん:2013/10/14(月) 02:41:50.91 ID:3XiZd5ue.net
 
仏教の総合的な議論スレッドです
仏教に関すること全て扱います
仏教 質問箱スレッドで議論になったら
または、議論に発展すると感じたら
或いは、話題・論点を拡げたい時は
ここに誘導し、質問箱の機能の確保に御協力ください

前スレ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1380986425/

ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

Wikipedia ― Category:仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99

論文検索
http://ci.nii.ac.jp/
http://sc.chat-shuffle.net/
http://www.jstage.jst.go.jp/AF13S010Init/-char/ja/
http://www.inbuds.net/jpn/index.html
http://www.totetu.org/index.php?id=523

パーリ三蔵
http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
http://www.tipitaka.org/romn/

大正蔵経検索
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php

648 :Classical名無しさん:2013/10/14(月) 02:53:41.24 ID:3XiZd5ue.net
 
仏教議論スレッド74
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1380986425/
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1380986425/

649 :☆ おじゃる ☆:2013/10/25(金) 00:52:06.85 ID:v+iJAywW.net
 
仏教の総合的な議論スレッドです
仏教に関すること全て扱います
仏教 質問箱スレッドで議論になったら
または、議論に発展すると感じたら
或いは、話題・論点を拡げたい時は
ここに誘導し、質問箱の機能の確保に御協力ください

前スレ
仏教議論スレッド 75
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381725427/
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1381725427/

ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

Wikipedia ― Category:仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99

論文検索
http://ci.nii.ac.jp/
http://sc.chat-shuffle.net/
http://www.jstage.jst.go.jp/AF13S010Init/-char/ja/
http://www.inbuds.net/jpn/index.html
http://www.totetu.org/index.php?id=523

パーリ三蔵
http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
http://www.tipitaka.org/romn/

大正蔵経検索
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php

650 :☆ おじゃる ☆:2013/11/13(水) 23:32:35.86 ID:BS3Fnzm+.net
 
990 ID:BBCwaDpy さんへ

>> 仏教経典・論書は縁起を説明する為に残されたものだと思います

> 本当に、その通りなら、真言も出なかった筈です

密教においては

仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し

それ自体の自性ではなく
因と縁の依存によって

双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる

と仮名の空を以って説明してます

幻のごとき「空」であるからこそ、因と縁によって果と報が現れる

と言う事だと思います

651 :☆ おじゃる ☆:2013/11/21(木) 20:22:02.14 ID:3V9nQS4S.net
 
//21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0296b24:0099_,02,0296c02.html

雜阿含經

T0099_.02.0296b24:
T0099_.02.0296b25: (一一一九)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給
T0099_.02.0296b26: 孤獨園。爾時世尊告諸比丘。時有天帝釋及
T0099_.02.0296b27: 鞞盧闍那子婆稚阿修羅王。有絶妙之容。
T0099_.02.0296b28: 於晨朝時倶詣佛所。稽首佛足退坐一面。
T0099_.02.0296b29: 時天帝釋及鞞盧闍那子婆稚阿修羅王。身
T0099_.02.0296c01: 諸光明普照祇樹給孤獨園。爾時鞞盧闍那
T0099_.02.0296c02: 阿修羅王説偈白佛

652 :☆ おじゃる ☆:2013/11/22(金) 11:38:52.94 ID:xDyjOozi.net
 
>>37 の続き

漢訳 第一義空經
//www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html

此の陰滅し已らば異陰相續す。俗數法をば除く
耳・鼻・舌・身・意も 亦是の如く説き 俗數法をば除く
俗數法とは

謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、又復た

 − これに対して −

此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す
是の如く廣説し 乃至純大苦聚滅す

653 :☆ おじゃる ☆:2013/11/27(水) 15:33:26.97 ID:Iw+7Qv5S.net
 
404 と 405 の続き

ウダーナヴァルガのギルギット写本
//archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
因と縁に依存するものがなければ、動揺はない
動揺がなければ、愛著はない
愛著がなければ … … あらゆる苦しみの大きな集まりが消滅する
縁起したものを離れることは
思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり
形成作用の寂滅であり

//www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処を超え
想受を滅させて

死ぬことも、生まれることも〔説か〕ない
それこそが苦しみの終わりである

654 :☆ おじゃる ☆:2013/11/28(木) 17:11:55.24 ID:l65iTxep.net
         //l:::::::::::::::::::::|.|.|:::::j | | !::::::::::::: !,!|::::::::|:||:::::::::::::::::::::l
       ///l ::::r┐::::::,j !イニ |_|、! |l___l ll ィ--,ニ,┐::::::::::l !:::: !
     .////l::::::|,!.|::::::::l'lア::。::lヽヽ      /,イ"。:ヾ||::::::::::| !::::::|
   / /./. //l::::::::|亅::::::|.|ヽ__,ノ .`      ヽ___/ ||:::::::::|ノ::::::::!
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/   / / ./  ! ::::::::::::::|:::::::l.l:::::: ヽ、    ー   _,ィ'´::::::::,||:::::::::|::::|::::l l,
  /./ /  .l::::::::::::::/|::::::,!,!|:::_,ノ| ``ー---‐'"  ト_ ::::::l !::::::::|l:::|l::::| !l

地獄少女・閻魔あい(声・能登麻美子)
闇に惑いし哀れな影よ 人を傷つけ貶めて 罪に溺るる業の魂 いっぺん死んでみる?

655 :☆ おじゃる ☆:2013/11/29(金) 06:17:50.30 ID:YbUIS3T6.net
 ΛΛ
(; ;)

656 :☆ おじゃる ☆:2013/11/29(金) 06:22:34.45 ID:YbUIS3T6.net
 ΛΛ
(;  ;)

657 :☆ おじゃる ☆:2013/11/29(金) 06:37:47.75 ID:YbUIS3T6.net
 
東海道新幹線の駅弁
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(^-^)

658 :☆ おじゃる ☆:2013/11/30(土) 18:30:37.57 ID:IKyi3oTG.net
 
我(が):衆生を自由に主宰するもの
自らを他に対する特別な存在として妄信すること。我は阿特曼(あとくまん、アートマン)の訳語
原意は呼吸、引いては生命、自己、身体、自我、本質、自性等を指す
また、独立永遠の主体を指す
この主体は、一切の物の根源の内に潜在して、一個体を支配し統一する
乃ち印度思想界の重要な主題の一であるが
仏教は無我説を主張して、存在と縁起との性の関係を明示して
永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定して
『我』の不存在、不真実を強調する

我所(がしょ):衆生の手脚を操るもの、色受想行識の五陰、衆生の身心
自らの所有あるいは所属、たとえば身体ないし心が他に対して特別な存在であると妄信すること
また別の説では、我の所有の略。自身を我といい、自身以外の万物を我所有という。我に対する事物

659 :☆ おじゃる ☆:2013/12/01(日) 08:14:50.65 ID:EbuQX6CP.net
 
ERROR:Lvが足りなくてスレッド立て(ら)れません

660 :おじゃる:2013/12/09(月) 18:34:15.63 ID:JxOARC8C.net
一切とは

比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。
「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、
その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
南伝 相応部経典35-23

んで、一切皆苦が説明できる訳
んで、我も肉体に依存した妄想に過ぎないとなる訳
全てが空である理由もみんなこの一切、つまり六根を通して生じる
「有るな」と思わせてる妄想みたいな惑だから空=実体無しとなる訳

661 :おじゃる:2013/12/12(木) 05:03:56.88 ID:CN9ajykp.net
 
http://www.pmiyazaki.com/udo_2/hty.htm
宮崎 鵜戸神宮 鵜戸山八丁坂(うどさんはっちょうざか)

662 :おじゃる:2013/12/12(木) 05:54:14.82 ID:CN9ajykp.net
 
ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる説法
http://www.tibethouse.jp/culture/37.html
http://www.tibethouse.jp/culture/37_02.html#12

四つの聖なる真理

釈尊は以下のような四つの真理を説かれました
1.この世が苦であるという真理を知りなさい
2.苦の源を断ち切りなさい
3.苦を断じた境地があるという真理
4.苦を断じるための道(を示すことができるのはラマあるいは善師だけである)

663 :おじゃる:2013/12/12(木) 12:47:23.84 ID:CN9ajykp.net
 
想受滅(滅尽定)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)

想受滅は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる

(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も超えて、想受滅を成就する

(C)は、想受滅においては、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している

664 :おじゃる:2013/12/13(金) 02:06:55.41 ID:vpqYfrXE.net
 
スッタニパータ 876
(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と巧みに語っている

 − これに対して −

中論觀法品第十八
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm

八聖道分を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する

想受を滅させる為の 滅尽定 を以って、第一と為し、又、終に、無余涅槃に帰する

と衆生の人達を導く為に、仮名の空を以って説いている

665 :おじゃる:2013/12/15(日) 03:02:37.73 ID:1eKTdxVW.net
 
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html

無明と渇愛(タンハー)を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです

666 :おじゃる:2014/01/04(土) 22:28:48.53 ID:fDML7ncD.net
 
test

667 :おじゃる:2014/01/06(月) 17:27:20.53 ID:udNPZFTH.net
 
チベット ニンマ派
http://www.tibethouse.jp/culture/37_04.html

3)仏法の本質

煩悩障と所知障を取り除くための方便を示すのが、仏法です
仏教では悟りの智慧のさまたげになる四つの障害を説きます
カルマの障害、煩悩の障害(煩悩障)、智慧の障害(所知障)、薫重(くんじゅう)の障害です
しかし、障害のなかでも基本となるのは、やはり煩悩障と所知障です

証悟とは、四つの聖なる真理のなかの
滅諦(苦の滅した状態、涅槃にまつわる真理)と
道諦(涅槃にいたる修行の道にまつわる真理)とかかわる教えです
特に戒律・禅定・智慧の三学は道諦と深くかかわっています
戒律・禅定・智慧の三学を修して
様々な障害を浄化したところで、滅諦へと到るのです

668 :Classical名無しさん:2014/02/27(木) 21:35:57.92 ID:WaLd0oc6.net
【物理】電子の質量は「0.000548579909067原子質量単位」だった…過去最高精度で測定
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1393321751/

669 :おじゃる ◆asgSnuOzyA :2014/02/28(金) 17:22:23.52 ID:hJkAWk3S.net
 
http://www.afpbb.com/articles/-/3008949#blogbtn

電子の質量、過去最高精度で測定 研究 2014年02月24日 13:17

【2月24日 AFP】
これまでで最も高い精度で電子の質量を測定したとするドイツの研究が、
19日の英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。
この成果は、
物理学の「標準理論」の実験を進めている科学者にとって役立つツールを提供することになる。

電子は負の電荷を持つ素粒子。
ドイツのハイデルベルク(Heidelberg)にある
マックス・プランク核物理学研究所(Max Planck Institute for Nuclear Physics)の
スベン・シュトルム(Sven Sturm)氏率いる研究チームは、
静電場と静磁場を用いて荷電粒子を閉じ込めるペニングトラップ装置を使って、電子の質量を測定した。

研究チームは、すでに質量が判明している炭素原子核とセットになった単一の電子を測定。
質量は、「0.000548579909067原子質量単位」だった。
測定の精度は過去の推計と比べて13倍となった。

研究チームは、
ネイチャーに掲載された研究で
「この結果は将来の標準理論についての基礎物理実験と精密試験の基礎を築くものだ」と述べた。(c)AFP

670 :おじゃる ◆asgSnuOzyA :2014/02/28(金) 17:35:33.16 ID:hJkAWk3S.net
 
サーンキヤ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

プルシャは
プラクリティから様々な原理が展開してゆくことを観察するのみで、プルシャそれ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている

サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

671 :[´・ω・`] softbank126036251149.bbtec.net:2014/02/28(金) 17:50:25.20 ID:PrWqm2Oi.net
Test

672 :おじゃる ◆asgSnuOzyA :2014/02/28(金) 18:02:22.41 ID:hJkAWk3S.net
 
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.ht
上座部である部派仏教徒の一部は
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという説一切有部の「三世実有法体恒有」の思想を展開させた
(これに対して)
大衆部は
仮に過去・現在・未来と名前を与えて呼んでいるにすぎず
現在の一刹那のみが実有であって、過去と未来は実有はないとする
(これに対して)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
釈迦は
因と縁の依存によって
五蘊の仮和合の
仮に現れている状態で
現在の一刹那のみも実有ではなく

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
(「仮設としての」と言う意味で)
過去からの
心の流れ(心相続)によって、仮に現れているとする

673 :おじゃる ◆asgSnuOzyA :2014/02/28(金) 18:08:53.52 ID:hJkAWk3S.net
 
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.ht

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm

674 :おじゃる ◆asgSnuOzyA :2014/02/28(金) 18:40:18.94 ID:hJkAWk3S.net
 
過去からの
心の流れ(心相続)によって現れているものは

因と縁の依存によって
五蘊の仮和合の
仮に現れている状態で
現在の一刹那のみも実有ではないので

それ故に

この現世においての
過去の私と現在の私は同一ではないとする

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html

第二十七章 見解(邪見)の考察

3.
「私は(この現世においての)過去に存在していた」と言うことは妥当ではない
(この現世においての)過去に存在していたものは
その者(この現世においての過去の私)と同一ではないからである

675 :Classical名無しさん:2014/03/08(土) 13:07:28.65 ID:gtgfa6yq.net
龍樹は鳥の鳴き声まで調べた

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