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【送金】pring Part.2 【プリン/ぷりん】

342 :名無しさん@ご利用は計画的に (ワッチョイW 3305-dQFM):2020/05/11(月) 20:38:18 ID:rWl760Wj0.net
旧住友銀行は古くから先進的・効率的な経営で知られ、取引先企業の経営が傾くと容赦なく融資を引き上げるので「逃げの住友」といわれた。
戦後まもない1950年にトヨタ自動車が経営危機に陥った際、トヨタの取引銀行25行の中で唯一貸出金の回収に走り取引を打ち切ったのが住友銀行である。
「機屋(はたや)に貸せても鍛冶屋には貸せない」(機屋とは当時盛んだった繊維産業、鍛冶屋とは機械加工で自動車製造のこと。)
トヨタは帝国銀行(後の三井銀行・第一勧業銀行)・東海銀行(後のUFJ銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のための販売会社トヨタ自販の設立や1,600人のリストラなどの再建策を打ち出し、
これに反発した労働組合が無期限ストライキに入るなど大変なことになった。
結果的には朝鮮戦争特需もありトヨタは経営再建を果たすが、実質的創業者豊田喜一郎はこの件で社長を辞任し、心労がたたったのか1952年に57歳で急逝してしまった。
再建策をまとめた日本銀行名古屋支店長高梨壮夫は日銀理事を経て、後にトヨタの強い推薦で日本自動車連盟の初代会長となる。
また帝銀の支援をきっかけにトヨタは三井グループ入りする。
しかし取引を打ち切った住友銀行に対しては歴代トヨタ社長が取引再開を許さなかった。
1965年、経営危機に瀕したプリンス自動車のメインバンクだった住友銀行の頭取堀田庄三は専務小川秀彦をプリンス自動車の社長に据え、トヨタとの救済合併を画策したが、
当時のトヨタ会長石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒否した。
15年前に「機屋に貸せても鍛冶屋には貸せない」と言ったのが当時の住銀名古屋支店長小川であり、融資担当常務堀田だった。
プリンス自動車は1966年、日産自動車に吸収された。
ただし堀田は「預金者のお金を厳格に運用するのは銀行の責務」とし、住友銀行は経営方針を変えなかった。

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