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郷田ほづみはアンパンマンに殴られ死亡した
- 1 :ドルアーガ殺す暴力団:2016/08/08(月) 14:41:51.97 ID:gpgbk1Ki.net
- 郷田ほづみは世界一下手な役者
- 2 :名無しは20歳になってから:2016/10/18(火) 19:39:57.01 ID:MM4CJJbt.net
- cigaret:たばこ[重要削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1283005481/27-
- 3 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 17:28:10.35 ID:FcUuBFgP1
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 4 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 17:39:41.19 ID:FcUuBFgP1
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 5 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 17:51:11.72 ID:FcUuBFgP1
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 6 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 18:02:42.23 ID:FcUuBFgP1
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 7 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 18:14:12.75 ID:FcUuBFgP1
- が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
- 8 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 18:38:59.24 ID:FcUuBFgP1
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 9 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 19:01:44.65 ID:FcUuBFgP1
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 10 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 19:14:55.22 ID:ipQeuOI/l
- 栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。
- 11 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 19:26:26.53 ID:ipQeuOI/l
- 考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――
- 12 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 19:37:57.34 ID:ipQeuOI/l
- それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。
- 13 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 19:49:28.08 ID:ipQeuOI/l
- 馬琴はとうとうふき出した。
- 14 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 20:00:58.84 ID:ipQeuOI/l
- が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
- 15 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 20:12:29.51 ID:ipQeuOI/l
- 癇癪を起しちゃいけませんって。」
- 16 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 20:24:00.37 ID:ipQeuOI/l
- 「おやおや、それっきりかい。」
- 17 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 20:35:31.27 ID:ipQeuOI/l
- 太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。
- 18 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 21:10:06.75 ID:ipQeuOI/l
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 19 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 21:21:38.20 ID:ipQeuOI/l
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 20 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 21:33:09.25 ID:ipQeuOI/l
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 21 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 21:44:40.01 ID:ipQeuOI/l
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 22 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 21:56:10.97 ID:ipQeuOI/l
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 23 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 22:07:42.18 ID:ipQeuOI/l
- うちの中は森としている。
- 24 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 22:19:12.95 ID:ipQeuOI/l
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 25 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 22:33:44.08 ID:ipQeuOI/l
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 26 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 22:45:15.06 ID:ipQeuOI/l
- それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。
- 27 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 22:56:46.09 ID:ipQeuOI/l
- 彼は昔から「先王の道」
- 28 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 23:08:20.29 ID:ipQeuOI/l
- 彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」
- 29 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 23:19:50.92 ID:ipQeuOI/l
- だから、そこに矛盾はない。
- 30 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 23:31:21.64 ID:ipQeuOI/l
- が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。
- 31 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 23:42:52.49 ID:ipQeuOI/l
- 従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。
- 32 :名無しは20歳になってから:2018/06/09(土) 23:54:23.25 ID:ipQeuOI/l
- もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。
- 33 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 00:05:55.47 ID:HSD7Uh8dr
- 実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。
- 34 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 00:17:26.45 ID:HSD7Uh8dr
- しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。
- 35 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 00:28:57.18 ID:HSD7Uh8dr
- 彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」
- 36 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 00:40:27.86 ID:HSD7Uh8dr
- と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――
- 37 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 00:51:58.79 ID:HSD7Uh8dr
- 水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
- 38 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 01:03:29.50 ID:HSD7Uh8dr
- この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。
- 39 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 01:15:00.22 ID:HSD7Uh8dr
- が、彼の前には水滸伝がある。
- 40 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 01:26:31.28 ID:HSD7Uh8dr
- 不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。
- 41 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 01:38:02.39 ID:HSD7Uh8dr
- そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。
- 42 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 01:49:33.37 ID:HSD7Uh8dr
- 袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。
- 43 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:01:04.99 ID:HSD7Uh8dr
- 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
- 44 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:12:35.82 ID:HSD7Uh8dr
- 「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」
- 45 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:24:06.54 ID:HSD7Uh8dr
- 崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。
- 46 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:35:37.16 ID:HSD7Uh8dr
- 見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。
- 47 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:47:07.79 ID:HSD7Uh8dr
- 「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
- 48 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 02:58:38.40 ID:HSD7Uh8dr
- 「おお、さっそく、拝見しましょう。」
- 49 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 03:10:09.19 ID:HSD7Uh8dr
- 崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。
- 50 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 03:21:40.00 ID:HSD7Uh8dr
- 絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。
- 51 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 03:33:10.91 ID:HSD7Uh8dr
- 林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、――
- 52 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 03:44:41.59 ID:HSD7Uh8dr
- 画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。
- 53 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 03:56:12.29 ID:HSD7Uh8dr
- 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。
- 54 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 04:07:43.08 ID:HSD7Uh8dr
- 「いつもながら、結構なお出来ですな。
- 55 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 04:19:14.33 ID:HSD7Uh8dr
- 私は王摩詰を思い出します。
- 56 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 04:30:45.36 ID:HSD7Uh8dr
- 食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」
- 57 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 04:42:16.46 ID:HSD7Uh8dr
- 「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
- 58 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:02:01.68 ID:+2mtTH9x2
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 59 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:13:32.55 ID:+2mtTH9x2
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 60 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:25:03.38 ID:+2mtTH9x2
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 61 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:36:33.91 ID:+2mtTH9x2
- 笑わなかったばかりではない。
- 62 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:48:04.44 ID:+2mtTH9x2
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 63 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 16:59:34.97 ID:+2mtTH9x2
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 64 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 17:11:06.35 ID:+2mtTH9x2
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 65 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 17:22:36.90 ID:+2mtTH9x2
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 66 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 17:34:07.47 ID:+2mtTH9x2
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 67 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 17:45:38.07 ID:+2mtTH9x2
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 68 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 17:57:09.01 ID:+2mtTH9x2
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 69 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 18:08:39.58 ID:+2mtTH9x2
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 70 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 18:20:10.85 ID:+2mtTH9x2
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 71 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 18:31:41.37 ID:+2mtTH9x2
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 72 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 18:43:11.91 ID:+2mtTH9x2
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 73 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 18:54:42.54 ID:+2mtTH9x2
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 74 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 19:06:13.04 ID:+2mtTH9x2
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 75 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 19:17:43.83 ID:+2mtTH9x2
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 76 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 19:29:15.67 ID:+2mtTH9x2
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 77 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 19:40:46.36 ID:+2mtTH9x2
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 78 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 19:52:16.96 ID:+2mtTH9x2
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 79 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 20:03:47.55 ID:+2mtTH9x2
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 80 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 20:15:18.48 ID:+2mtTH9x2
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 81 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 20:26:49.06 ID:+2mtTH9x2
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 82 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 20:38:22.17 ID:+2mtTH9x2
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 83 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 20:49:52.79 ID:+2mtTH9x2
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 84 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:01:23.34 ID:+2mtTH9x2
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 85 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:12:53.95 ID:+2mtTH9x2
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 86 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:24:25.97 ID:+2mtTH9x2
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 87 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:35:56.55 ID:+2mtTH9x2
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 88 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:47:29.01 ID:+2mtTH9x2
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 89 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 21:58:59.63 ID:+2mtTH9x2
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 90 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 22:10:30.17 ID:+2mtTH9x2
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 91 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 22:22:00.99 ID:+2mtTH9x2
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 92 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 22:33:31.54 ID:+2mtTH9x2
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 93 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 22:45:02.10 ID:+2mtTH9x2
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 94 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 22:56:33.85 ID:+2mtTH9x2
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 95 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 23:08:04.38 ID:+2mtTH9x2
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 96 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 23:19:34.91 ID:+2mtTH9x2
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 97 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 23:31:05.45 ID:+2mtTH9x2
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 98 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 23:42:35.97 ID:+2mtTH9x2
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 99 :名無しは20歳になってから:2018/06/10(日) 23:54:06.53 ID:+2mtTH9x2
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 100 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 00:05:37.99 ID:vAL9z1B1T
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 101 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 00:17:08.50 ID:vAL9z1B1T
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 102 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 00:28:39.00 ID:vAL9z1B1T
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 103 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 00:40:09.51 ID:vAL9z1B1T
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 104 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 00:51:40.06 ID:vAL9z1B1T
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 105 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 01:03:10.57 ID:vAL9z1B1T
- しかも彼の強大な「我」
- 106 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 01:14:41.92 ID:vAL9z1B1T
- とに避難するにはあまりに情熱に溢れている。
- 107 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 01:26:12.71 ID:vAL9z1B1T
- 彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。
- 108 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 01:37:43.24 ID:vAL9z1B1T
- もしこの時、彼の後ろの襖が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様ただいま。」
- 109 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 01:49:13.74 ID:vAL9z1B1T
- という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝な気分の中に、いつまでも鎖されていたことであろう。
- 110 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:00:44.28 ID:vAL9z1B1T
- が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝の上へ勢いよくとび上がった。
- 111 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:12:15.26 ID:vAL9z1B1T
- 「お祖父様ただいま。」
- 112 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:23:46.80 ID:vAL9z1B1T
- 「おお、よく早く帰って来たな。」
- 113 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:35:17.46 ID:vAL9z1B1T
- この語とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。
- 114 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:46:47.97 ID:vAL9z1B1T
- 茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えている。
- 115 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 02:58:18.51 ID:vAL9z1B1T
- 時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。
- 116 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 03:09:49.06 ID:vAL9z1B1T
- 太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。
- 117 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 03:21:19.62 ID:vAL9z1B1T
- 外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。
- 118 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 03:32:51.04 ID:vAL9z1B1T
- 「あのね、お祖父様にね。」
- 119 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 03:44:21.55 ID:vAL9z1B1T
- 独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。
- 120 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 03:55:52.09 ID:vAL9z1B1T
- 偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。
- 121 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 04:07:22.63 ID:vAL9z1B1T
- 彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。
- 122 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 04:18:53.11 ID:vAL9z1B1T
- が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。
- 123 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 04:30:23.88 ID:vAL9z1B1T
- 仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。
- 124 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 04:41:55.60 ID:vAL9z1B1T
- うちの中は森としている。
- 125 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 04:53:26.50 ID:vAL9z1B1T
- 彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。
- 126 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 05:04:57.22 ID:vAL9z1B1T
- そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。
- 127 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 05:16:27.73 ID:vAL9z1B1T
- それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。
- 128 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 05:27:58.27 ID:vAL9z1B1T
- 彼は昔から「先王の道」
- 129 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 05:39:29.11 ID:vAL9z1B1T
- 彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」
- 130 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 05:51:00.93 ID:vAL9z1B1T
- だから、そこに矛盾はない。
- 131 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 06:02:31.53 ID:vAL9z1B1T
- が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。
- 132 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 06:14:02.39 ID:vAL9z1B1T
- 従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。
- 133 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 06:25:33.37 ID:vAL9z1B1T
- もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。
- 134 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 06:37:03.99 ID:vAL9z1B1T
- 実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。
- 135 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 06:48:34.50 ID:vAL9z1B1T
- しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。
- 136 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:00:05.93 ID:vAL9z1B1T
- 彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」
- 137 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:11:36.49 ID:vAL9z1B1T
- と称しながら、常に彼のうちに磅する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。――
- 138 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:23:07.01 ID:vAL9z1B1T
- 水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。
- 139 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:34:37.74 ID:vAL9z1B1T
- この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。
- 140 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:46:08.32 ID:vAL9z1B1T
- が、彼の前には水滸伝がある。
- 141 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 07:57:38.86 ID:vAL9z1B1T
- 不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。
- 142 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 08:09:10.53 ID:vAL9z1B1T
- そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。
- 143 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 08:20:41.07 ID:vAL9z1B1T
- 袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。
- 144 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 08:32:11.60 ID:vAL9z1B1T
- 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
- 145 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 08:43:42.25 ID:vAL9z1B1T
- 「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」
- 146 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 08:55:12.81 ID:vAL9z1B1T
- 崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。
- 147 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 09:06:43.35 ID:vAL9z1B1T
- 見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。
- 148 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 09:18:14.84 ID:vAL9z1B1T
- 「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
- 149 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 09:29:45.41 ID:vAL9z1B1T
- 「おお、さっそく、拝見しましょう。」
- 150 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 09:41:15.96 ID:vAL9z1B1T
- 崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。
- 151 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 09:52:46.80 ID:vAL9z1B1T
- 絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。
- 152 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 10:04:17.36 ID:vAL9z1B1T
- 林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、――
- 153 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 10:15:47.92 ID:vAL9z1B1T
- 画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。
- 154 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 10:27:19.26 ID:vAL9z1B1T
- 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。
- 155 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 10:38:50.06 ID:vAL9z1B1T
- 「いつもながら、結構なお出来ですな。
- 156 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 10:50:20.62 ID:vAL9z1B1T
- 私は王摩詰を思い出します。
- 157 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 11:01:51.14 ID:vAL9z1B1T
- 食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」
- 158 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 11:13:21.78 ID:vAL9z1B1T
- 「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
- 159 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 11:24:52.40 ID:vAL9z1B1T
- 崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足そうにこう言った。
- 160 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 11:36:23.66 ID:vAL9z1B1T
- 「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――
- 161 :名無しは20歳になってから:2018/06/11(月) 11:47:54.22 ID:vAL9z1B1T
- とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
- 162 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 21:18:12.92 ID:+G0wycNNI
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 163 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 21:36:50.75 ID:+G0wycNNI
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 164 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 21:48:21.87 ID:+G0wycNNI
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 165 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 21:59:52.59 ID:+G0wycNNI
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 166 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 22:11:23.29 ID:+G0wycNNI
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 167 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 22:22:54.11 ID:+G0wycNNI
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 168 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 22:34:24.78 ID:+G0wycNNI
- 「いや、大いにありますよ。」
- 169 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 22:45:55.42 ID:+G0wycNNI
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 170 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 22:57:26.24 ID:+G0wycNNI
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 171 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 23:08:56.97 ID:+G0wycNNI
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 172 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 23:20:27.80 ID:+G0wycNNI
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 173 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 23:31:58.67 ID:+G0wycNNI
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 174 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 23:43:29.30 ID:+G0wycNNI
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 175 :名無しは20歳になってから:2018/06/13(水) 23:55:00.00 ID:+G0wycNNI
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 176 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 00:06:32.92 ID:FBCIaxUiK
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 177 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 00:18:03.59 ID:FBCIaxUiK
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 178 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 00:29:34.30 ID:FBCIaxUiK
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 179 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 00:41:05.36 ID:FBCIaxUiK
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 180 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 00:52:35.97 ID:FBCIaxUiK
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 181 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 01:04:06.58 ID:FBCIaxUiK
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 182 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 01:15:37.21 ID:FBCIaxUiK
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 183 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 01:27:07.99 ID:FBCIaxUiK
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 184 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 01:38:38.71 ID:FBCIaxUiK
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 185 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 01:50:09.50 ID:FBCIaxUiK
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 186 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:01:40.12 ID:FBCIaxUiK
- 私にはそうも思われませんが。」
- 187 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:13:10.69 ID:FBCIaxUiK
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 188 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:24:41.27 ID:FBCIaxUiK
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 189 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:36:12.36 ID:FBCIaxUiK
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 190 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:47:43.10 ID:FBCIaxUiK
- 「私が心細いのではない。
- 191 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 02:59:14.23 ID:FBCIaxUiK
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 192 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 03:10:44.96 ID:FBCIaxUiK
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 193 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 03:22:15.91 ID:FBCIaxUiK
- 「とにかく、それよりほかはないようですな。」
- 194 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 03:33:46.51 ID:FBCIaxUiK
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 195 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 03:45:17.41 ID:FBCIaxUiK
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 196 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 03:56:48.41 ID:FBCIaxUiK
- 笑わなかったばかりではない。
- 197 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 04:08:19.38 ID:FBCIaxUiK
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 198 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 04:19:50.07 ID:FBCIaxUiK
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 199 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 04:31:20.70 ID:FBCIaxUiK
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 200 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 04:42:51.64 ID:FBCIaxUiK
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 201 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 04:54:22.27 ID:FBCIaxUiK
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 202 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 05:05:53.36 ID:FBCIaxUiK
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 203 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 05:17:24.29 ID:FBCIaxUiK
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 204 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 05:28:54.94 ID:FBCIaxUiK
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 205 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 05:40:25.57 ID:FBCIaxUiK
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 206 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 05:51:56.14 ID:FBCIaxUiK
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 207 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 06:03:26.80 ID:FBCIaxUiK
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 208 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 06:14:57.47 ID:FBCIaxUiK
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 209 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 06:26:28.45 ID:FBCIaxUiK
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 210 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 11:36:16.97 ID:v5g89n0R9
- と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
- 211 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 11:48:03.07 ID:v5g89n0R9
- 「しかし絵の方は羨ましいようですな。
- 212 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 11:59:48.74 ID:v5g89n0R9
- 公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
- 213 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 12:11:34.37 ID:v5g89n0R9
- 今度は馬琴が、話頭を一転した。
- 214 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 12:23:20.04 ID:v5g89n0R9
- 御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
- 215 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 12:35:05.71 ID:v5g89n0R9
- 「いや、大いにありますよ。」
- 216 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 12:46:51.75 ID:v5g89n0R9
- 馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。
- 217 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 12:58:37.45 ID:v5g89n0R9
- そうして、それにこんな批評をつけ加えた。
- 218 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 13:10:24.04 ID:v5g89n0R9
- 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。
- 219 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 13:22:10.31 ID:v5g89n0R9
- 自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。
- 220 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 13:33:56.04 ID:v5g89n0R9
- また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。
- 221 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 13:45:41.70 ID:v5g89n0R9
- それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。
- 222 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 13:57:27.98 ID:v5g89n0R9
- 言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。
- 223 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 14:09:13.65 ID:v5g89n0R9
- 自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」
- 224 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 14:20:59.31 ID:v5g89n0R9
- 崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、
- 225 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 14:32:45.13 ID:v5g89n0R9
- 「それは大きにそういうところもありましょう。
- 226 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 14:44:30.88 ID:v5g89n0R9
- しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。
- 227 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 14:56:16.80 ID:v5g89n0R9
- 改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」
- 228 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 15:08:02.87 ID:v5g89n0R9
- 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。
- 229 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 15:19:48.51 ID:v5g89n0R9
- そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」
- 230 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 15:31:34.15 ID:v5g89n0R9
- 馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
- 231 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 15:43:20.00 ID:v5g89n0R9
- 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
- 232 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 15:55:05.79 ID:v5g89n0R9
- 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
- 233 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 16:06:51.50 ID:v5g89n0R9
- 私にはそうも思われませんが。」
- 234 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 16:18:37.55 ID:v5g89n0R9
- 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。
- 235 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 16:30:23.22 ID:v5g89n0R9
- 焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」
- 236 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 16:42:08.90 ID:v5g89n0R9
- 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
- 237 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 16:53:54.72 ID:v5g89n0R9
- 「私が心細いのではない。
- 238 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 17:05:40.42 ID:v5g89n0R9
- 改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
- 239 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 17:17:26.14 ID:v5g89n0R9
- 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
- 240 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 17:40:59.04 ID:v5g89n0R9
- 「そこでまた、御同様に討死ですか。」
- 241 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 17:52:44.83 ID:v5g89n0R9
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 242 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 18:04:31.00 ID:v5g89n0R9
- 笑わなかったばかりではない。
- 243 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 18:16:17.03 ID:v5g89n0R9
- 馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。
- 244 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 18:28:02.71 ID:v5g89n0R9
- それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。
- 245 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 18:39:49.16 ID:v5g89n0R9
- 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。
- 246 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 18:51:35.57 ID:v5g89n0R9
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 247 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 19:03:21.91 ID:v5g89n0R9
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 248 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 19:15:07.79 ID:v5g89n0R9
- 崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。
- 249 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 19:26:53.51 ID:v5g89n0R9
- が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。
- 250 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 19:38:39.44 ID:v5g89n0R9
- 崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。
- 251 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 19:50:25.66 ID:v5g89n0R9
- 先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。
- 252 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 20:02:11.54 ID:v5g89n0R9
- そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
- 253 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 20:13:59.32 ID:v5g89n0R9
- すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。
- 254 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 20:25:46.06 ID:v5g89n0R9
- 字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。
- 255 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 20:37:31.88 ID:v5g89n0R9
- 彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。
- 256 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 20:49:17.72 ID:v5g89n0R9
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 257 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 21:01:03.82 ID:v5g89n0R9
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 258 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 21:12:50.06 ID:v5g89n0R9
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 259 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 21:24:35.97 ID:v5g89n0R9
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 260 :名無しは20歳になってから:2018/06/14(木) 21:36:21.73 ID:v5g89n0R9
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 261 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 10:30:11.86 ID:Vi7Kn5t1o
- 今度は二人とも笑わなかった。
- 262 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 10:42:12.49 ID:Vi7Kn5t1o
- 笑わなかったばかりではない。
- 263 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 11:30:15.47 ID:Vi7Kn5t1o
- 討死はいつでも出来ますからな。」
- 264 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 11:42:16.05 ID:Vi7Kn5t1o
- ほどを経て、馬琴がこう言った。
- 265 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 13:30:23.02 ID:Vi7Kn5t1o
- 「今の己の心もちが悪いのだ。
- 266 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 13:42:23.56 ID:Vi7Kn5t1o
- 書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」
- 267 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 13:54:24.15 ID:Vi7Kn5t1o
- そう思って、彼はもう一度読み返した。
- 268 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 14:06:25.40 ID:Vi7Kn5t1o
- が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。
- 269 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 14:18:25.94 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。
- 270 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 14:30:26.46 ID:Vi7Kn5t1o
- 「このもう一つ前はどうだろう。」
- 271 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 14:42:27.18 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼はその前に書いたところへ眼を通した。
- 272 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 14:54:27.66 ID:Vi7Kn5t1o
- すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。
- 273 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 15:06:29.05 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼はさらにその前を読んだ。
- 274 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 15:18:29.53 ID:Vi7Kn5t1o
- そうしてまたその前の前を読んだ。
- 275 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 15:30:30.02 ID:Vi7Kn5t1o
- しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。
- 276 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 15:42:30.53 ID:Vi7Kn5t1o
- そこには何らの映像をも与えない叙景があった。
- 277 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 15:54:31.05 ID:Vi7Kn5t1o
- 何らの感激をも含まない詠歎があった。
- 278 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 16:06:32.39 ID:Vi7Kn5t1o
- そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。
- 279 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 16:18:33.26 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。
- 280 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 16:30:33.81 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。
- 281 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 16:42:34.32 ID:Vi7Kn5t1o
- 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
- 282 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 16:54:34.84 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。
- 283 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 17:06:36.29 ID:Vi7Kn5t1o
- が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。
- 284 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 17:18:36.84 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。
- 285 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 17:30:37.34 ID:Vi7Kn5t1o
- この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――
- 286 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 17:42:37.88 ID:Vi7Kn5t1o
- そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。
- 287 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 17:54:38.41 ID:Vi7Kn5t1o
- それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような――
- 288 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 18:06:39.93 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。
- 289 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 18:18:40.87 ID:Vi7Kn5t1o
- 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。
- 290 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 18:30:41.39 ID:Vi7Kn5t1o
- が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」
- 291 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 18:42:41.90 ID:Vi7Kn5t1o
- こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。
- 292 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 18:54:42.43 ID:Vi7Kn5t1o
- 彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。
- 293 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 19:06:43.74 ID:Vi7Kn5t1o
- が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。
- 294 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 19:18:44.61 ID:Vi7Kn5t1o
- その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。
- 295 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 19:30:45.49 ID:Vi7Kn5t1o
- しかも彼の強大な「我」
- 296 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 20:07:00.35 ID:g4MZvOqp8
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 297 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 20:19:19.75 ID:g4MZvOqp8
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 298 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 20:31:35.50 ID:g4MZvOqp8
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 299 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 20:43:54.07 ID:g4MZvOqp8
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 300 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 20:56:09.76 ID:g4MZvOqp8
- なども到底この「西遊記」
- 301 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 21:08:26.68 ID:g4MZvOqp8
- も愛読書の一つである。
- 302 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 21:20:42.26 ID:g4MZvOqp8
- これも今以て愛読してゐる。
- 303 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 21:32:57.92 ID:g4MZvOqp8
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 304 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 21:45:13.67 ID:g4MZvOqp8
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 305 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 21:57:29.29 ID:g4MZvOqp8
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 306 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 22:09:45.10 ID:g4MZvOqp8
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 307 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 22:22:00.77 ID:g4MZvOqp8
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 308 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 22:34:16.41 ID:g4MZvOqp8
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 309 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 22:46:32.07 ID:g4MZvOqp8
- だから人の事は笑へない。
- 310 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 22:58:47.69 ID:g4MZvOqp8
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 311 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 23:11:03.50 ID:g4MZvOqp8
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 312 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 23:23:19.39 ID:g4MZvOqp8
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 313 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 23:35:35.36 ID:g4MZvOqp8
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 314 :名無しは20歳になってから:2018/06/15(金) 23:47:51.12 ID:g4MZvOqp8
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 315 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 00:00:07.41 ID:cTxgDtk45
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 316 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 00:12:23.15 ID:cTxgDtk45
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 317 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 00:24:38.83 ID:cTxgDtk45
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 318 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 00:36:54.44 ID:cTxgDtk45
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 319 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 00:49:10.03 ID:cTxgDtk45
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 320 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 01:01:25.68 ID:cTxgDtk45
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 321 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 01:13:41.44 ID:cTxgDtk45
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 322 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 01:25:57.03 ID:cTxgDtk45
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 323 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 01:38:12.63 ID:cTxgDtk45
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 324 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 01:50:28.29 ID:cTxgDtk45
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 325 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 02:02:43.94 ID:cTxgDtk45
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 326 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 02:14:59.75 ID:cTxgDtk45
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 327 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 02:27:15.62 ID:cTxgDtk45
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 328 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 02:39:31.24 ID:cTxgDtk45
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 329 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 02:51:46.84 ID:cTxgDtk45
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 330 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 03:04:02.59 ID:cTxgDtk45
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 331 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 03:16:18.29 ID:cTxgDtk45
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 332 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 03:28:33.90 ID:cTxgDtk45
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 333 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 03:40:49.50 ID:cTxgDtk45
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 334 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 03:53:05.68 ID:cTxgDtk45
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 335 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 04:05:21.70 ID:cTxgDtk45
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 336 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 04:17:37.48 ID:cTxgDtk45
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 337 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 04:29:53.09 ID:cTxgDtk45
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 338 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 04:42:08.99 ID:cTxgDtk45
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 339 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 04:54:24.71 ID:cTxgDtk45
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 340 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 05:06:40.30 ID:cTxgDtk45
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 341 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 05:18:56.07 ID:cTxgDtk45
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 342 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 05:31:11.91 ID:cTxgDtk45
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 343 :名無しは20歳になってから:2018/06/16(土) 05:43:27.53 ID:cTxgDtk45
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 344 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 14:11:18.10 ID:xRp8y3FB8
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 345 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 14:23:49.30 ID:xRp8y3FB8
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 346 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 14:36:20.48 ID:xRp8y3FB8
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 347 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 14:48:51.20 ID:xRp8y3FB8
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 348 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 15:01:21.86 ID:xRp8y3FB8
- なども到底この「西遊記」
- 349 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 15:13:52.87 ID:xRp8y3FB8
- も愛読書の一つである。
- 350 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 15:26:23.50 ID:xRp8y3FB8
- これも今以て愛読してゐる。
- 351 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 15:38:54.13 ID:xRp8y3FB8
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 352 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 15:51:24.86 ID:xRp8y3FB8
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 353 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 16:03:55.48 ID:xRp8y3FB8
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 354 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 16:16:26.48 ID:xRp8y3FB8
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 355 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 16:28:57.31 ID:xRp8y3FB8
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 356 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 16:41:28.01 ID:xRp8y3FB8
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 357 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 16:53:58.69 ID:xRp8y3FB8
- だから人の事は笑へない。
- 358 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 17:06:31.00 ID:xRp8y3FB8
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 359 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 17:19:02.13 ID:xRp8y3FB8
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 360 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 17:31:33.04 ID:xRp8y3FB8
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 361 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 17:44:03.69 ID:xRp8y3FB8
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 362 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 17:56:34.40 ID:xRp8y3FB8
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 363 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 18:09:05.07 ID:xRp8y3FB8
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 364 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 18:21:36.12 ID:xRp8y3FB8
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 365 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 18:34:06.87 ID:xRp8y3FB8
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 366 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 18:46:37.52 ID:xRp8y3FB8
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 367 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 18:59:08.20 ID:xRp8y3FB8
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 368 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 19:11:38.94 ID:xRp8y3FB8
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 369 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 19:24:10.20 ID:xRp8y3FB8
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 370 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 19:36:40.99 ID:xRp8y3FB8
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 371 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 19:49:11.85 ID:xRp8y3FB8
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 372 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 20:01:43.00 ID:xRp8y3FB8
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 373 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 20:14:14.33 ID:xRp8y3FB8
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 374 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 20:26:45.60 ID:xRp8y3FB8
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 375 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 20:39:16.59 ID:xRp8y3FB8
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 376 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 20:51:47.37 ID:xRp8y3FB8
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 377 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 21:04:18.15 ID:xRp8y3FB8
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 378 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 21:16:48.97 ID:xRp8y3FB8
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 379 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 21:29:19.82 ID:xRp8y3FB8
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 380 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 21:41:50.54 ID:xRp8y3FB8
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 381 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 21:54:21.43 ID:xRp8y3FB8
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 382 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 22:06:52.30 ID:xRp8y3FB8
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 383 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 22:19:23.04 ID:xRp8y3FB8
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 384 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 22:31:54.33 ID:xRp8y3FB8
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 385 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 22:44:25.12 ID:xRp8y3FB8
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 386 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 22:56:55.87 ID:xRp8y3FB8
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 387 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 23:09:27.97 ID:xRp8y3FB8
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 388 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 23:22:00.23 ID:xRp8y3FB8
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 389 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 23:34:32.02 ID:xRp8y3FB8
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 390 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 23:47:03.30 ID:xRp8y3FB8
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 391 :名無しは20歳になってから:2018/06/18(月) 23:59:33.98 ID:xRp8y3FB8
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 392 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 00:12:06.56 ID:wHNbAPkZT
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 393 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 00:26:37.26 ID:wHNbAPkZT
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 394 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 00:39:08.43 ID:wHNbAPkZT
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 395 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 00:51:39.15 ID:wHNbAPkZT
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 396 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 01:04:10.46 ID:wHNbAPkZT
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 397 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 01:16:41.35 ID:wHNbAPkZT
- 一層これが甚しかつた。
- 398 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 01:29:11.97 ID:wHNbAPkZT
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 399 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 01:41:42.85 ID:wHNbAPkZT
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 400 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 01:54:13.89 ID:wHNbAPkZT
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 401 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 02:06:44.66 ID:wHNbAPkZT
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 402 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 02:19:15.33 ID:wHNbAPkZT
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 403 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 02:31:46.46 ID:wHNbAPkZT
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 404 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 02:44:18.17 ID:wHNbAPkZT
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 405 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 02:56:49.53 ID:wHNbAPkZT
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 406 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 03:09:20.26 ID:wHNbAPkZT
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 407 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 03:21:50.94 ID:wHNbAPkZT
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 408 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 03:34:21.61 ID:wHNbAPkZT
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 409 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 03:46:52.64 ID:wHNbAPkZT
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 410 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 03:59:23.27 ID:wHNbAPkZT
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 411 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 04:11:53.93 ID:wHNbAPkZT
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 412 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 04:24:24.97 ID:wHNbAPkZT
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 413 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 04:36:56.10 ID:wHNbAPkZT
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 414 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 04:49:27.21 ID:wHNbAPkZT
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 415 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 05:01:58.10 ID:wHNbAPkZT
- 松脂の匂と日の光と、――
- 416 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 05:14:28.92 ID:wHNbAPkZT
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 417 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 05:26:59.93 ID:wHNbAPkZT
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 418 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 05:39:30.87 ID:wHNbAPkZT
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 419 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 05:52:01.99 ID:wHNbAPkZT
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 420 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 06:04:33.08 ID:wHNbAPkZT
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 421 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 06:17:04.46 ID:wHNbAPkZT
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 422 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 06:29:35.18 ID:wHNbAPkZT
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 423 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 06:42:05.85 ID:wHNbAPkZT
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 424 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 06:54:36.96 ID:wHNbAPkZT
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 425 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 07:07:07.61 ID:wHNbAPkZT
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 426 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 07:19:38.32 ID:wHNbAPkZT
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 427 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 07:32:08.99 ID:wHNbAPkZT
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 428 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 07:44:39.67 ID:wHNbAPkZT
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 429 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 07:57:10.86 ID:wHNbAPkZT
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 430 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 08:09:41.57 ID:wHNbAPkZT
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 431 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 08:22:12.25 ID:wHNbAPkZT
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 432 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 08:34:42.97 ID:wHNbAPkZT
- (御隠しになつてはいや。
- 433 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 08:47:14.04 ID:wHNbAPkZT
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 434 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 08:59:45.17 ID:wHNbAPkZT
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 435 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 09:12:16.12 ID:wHNbAPkZT
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 436 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 09:24:46.86 ID:wHNbAPkZT
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 437 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 09:37:17.56 ID:wHNbAPkZT
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 438 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 09:49:48.31 ID:wHNbAPkZT
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 439 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 10:02:19.43 ID:wHNbAPkZT
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 440 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 10:14:50.18 ID:wHNbAPkZT
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 441 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 10:27:21.12 ID:wHNbAPkZT
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 442 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 10:39:52.04 ID:wHNbAPkZT
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 443 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 10:52:22.88 ID:wHNbAPkZT
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 444 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 11:04:54.10 ID:wHNbAPkZT
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 445 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 11:17:24.92 ID:wHNbAPkZT
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 446 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 11:29:56.32 ID:wHNbAPkZT
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 447 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 15:39:47.38 ID:oyiaLSmDK
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 448 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 15:52:33.23 ID:oyiaLSmDK
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 449 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 16:05:18.82 ID:oyiaLSmDK
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 450 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 16:18:04.38 ID:oyiaLSmDK
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 451 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 16:30:49.94 ID:oyiaLSmDK
- なども到底この「西遊記」
- 452 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 16:43:36.48 ID:oyiaLSmDK
- も愛読書の一つである。
- 453 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 16:56:21.97 ID:oyiaLSmDK
- これも今以て愛読してゐる。
- 454 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 17:09:07.52 ID:oyiaLSmDK
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 455 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 17:21:53.03 ID:oyiaLSmDK
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 456 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 17:34:38.52 ID:oyiaLSmDK
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 457 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 17:47:24.99 ID:oyiaLSmDK
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 458 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 18:00:10.49 ID:oyiaLSmDK
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 459 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 18:12:55.98 ID:oyiaLSmDK
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 460 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 18:25:41.49 ID:oyiaLSmDK
- だから人の事は笑へない。
- 461 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 18:38:26.99 ID:oyiaLSmDK
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 462 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 18:51:13.42 ID:oyiaLSmDK
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 463 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 19:03:59.20 ID:oyiaLSmDK
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 464 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 19:16:44.72 ID:oyiaLSmDK
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 465 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 19:29:30.28 ID:oyiaLSmDK
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 466 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 19:42:16.54 ID:oyiaLSmDK
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 467 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 19:55:03.34 ID:oyiaLSmDK
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 468 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 20:07:50.34 ID:oyiaLSmDK
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 469 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 20:20:36.67 ID:oyiaLSmDK
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 470 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 20:33:23.15 ID:oyiaLSmDK
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 471 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 20:46:08.82 ID:oyiaLSmDK
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 472 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 20:58:55.33 ID:oyiaLSmDK
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 473 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 21:11:41.05 ID:oyiaLSmDK
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 474 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 21:24:26.61 ID:oyiaLSmDK
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 475 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 21:37:12.19 ID:oyiaLSmDK
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 476 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 21:49:57.72 ID:oyiaLSmDK
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 477 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 22:02:44.19 ID:oyiaLSmDK
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 478 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 22:15:29.93 ID:oyiaLSmDK
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 479 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 22:28:17.94 ID:oyiaLSmDK
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 480 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 22:41:03.59 ID:oyiaLSmDK
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 481 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 22:53:49.16 ID:oyiaLSmDK
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 482 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 23:06:35.66 ID:oyiaLSmDK
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 483 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 23:19:21.21 ID:oyiaLSmDK
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 484 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 23:32:06.72 ID:oyiaLSmDK
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 485 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 23:44:52.26 ID:oyiaLSmDK
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 486 :名無しは20歳になってから:2018/06/19(火) 23:57:37.80 ID:oyiaLSmDK
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 487 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 00:10:24.26 ID:ICvAfyEC8
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 488 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 00:23:09.81 ID:ICvAfyEC8
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 489 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 00:35:55.34 ID:ICvAfyEC8
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 490 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 00:48:40.86 ID:ICvAfyEC8
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 491 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 01:01:26.43 ID:ICvAfyEC8
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 492 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 01:14:12.84 ID:ICvAfyEC8
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 493 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 01:26:58.57 ID:ICvAfyEC8
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 494 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 01:39:44.11 ID:ICvAfyEC8
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 495 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 09:57:02.26 ID:p7HDxm51T
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 496 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 10:36:04.50 ID:p7HDxm51T
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 497 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 10:49:05.21 ID:p7HDxm51T
- なども到底この「西遊記」
- 498 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 11:02:05.98 ID:p7HDxm51T
- も愛読書の一つである。
- 499 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 11:15:06.93 ID:p7HDxm51T
- これも今以て愛読してゐる。
- 500 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 12:20:07.92 ID:p7HDxm51T
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 501 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 12:33:08.63 ID:p7HDxm51T
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 502 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 12:46:09.34 ID:p7HDxm51T
- だから人の事は笑へない。
- 503 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 14:30:14.71 ID:p7HDxm51T
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 504 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 17:19:28.34 ID:p7HDxm51T
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 505 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 20:21:39.91 ID:p7HDxm51T
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 506 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 20:34:40.56 ID:p7HDxm51T
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 507 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 20:47:41.39 ID:p7HDxm51T
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 508 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 21:00:45.82 ID:p7HDxm51T
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 509 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 21:13:46.51 ID:p7HDxm51T
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 510 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 21:26:47.47 ID:p7HDxm51T
- 一層これが甚しかつた。
- 511 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 21:39:48.18 ID:p7HDxm51T
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 512 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 21:52:49.14 ID:p7HDxm51T
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 513 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 22:05:49.84 ID:p7HDxm51T
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 514 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 22:18:50.73 ID:p7HDxm51T
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 515 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 22:31:51.37 ID:p7HDxm51T
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 516 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 22:44:51.97 ID:p7HDxm51T
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 517 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 22:57:52.54 ID:p7HDxm51T
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 518 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 23:10:54.60 ID:p7HDxm51T
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 519 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 23:23:56.52 ID:p7HDxm51T
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 520 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 23:36:57.30 ID:p7HDxm51T
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 521 :名無しは20歳になってから:2018/06/20(水) 23:49:57.99 ID:p7HDxm51T
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 522 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 00:03:01.58 ID:eCpDgJDvr
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 523 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 00:16:02.54 ID:eCpDgJDvr
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 524 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 00:29:03.28 ID:eCpDgJDvr
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 525 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 00:42:03.88 ID:eCpDgJDvr
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 526 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 00:55:04.70 ID:eCpDgJDvr
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 527 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 01:08:05.31 ID:eCpDgJDvr
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 528 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 01:21:06.03 ID:eCpDgJDvr
- 松脂の匂と日の光と、――
- 529 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 01:34:06.55 ID:eCpDgJDvr
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 530 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 01:47:07.25 ID:eCpDgJDvr
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 531 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 02:00:07.83 ID:eCpDgJDvr
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 532 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 02:13:08.38 ID:eCpDgJDvr
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 533 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 02:26:08.99 ID:eCpDgJDvr
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 534 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 02:39:09.54 ID:eCpDgJDvr
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 535 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 03:52:40.59 ID:eCpDgJDvr
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 536 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 04:05:41.41 ID:eCpDgJDvr
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 537 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 04:18:42.15 ID:eCpDgJDvr
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 538 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 04:31:42.76 ID:eCpDgJDvr
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 539 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 04:44:43.65 ID:eCpDgJDvr
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 540 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 04:57:44.30 ID:eCpDgJDvr
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 541 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 05:10:45.03 ID:eCpDgJDvr
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 542 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 05:23:45.71 ID:eCpDgJDvr
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 543 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 05:36:46.34 ID:eCpDgJDvr
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 544 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 05:49:46.97 ID:eCpDgJDvr
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 545 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 06:02:48.02 ID:eCpDgJDvr
- (御隠しになつてはいや。
- 546 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 06:15:48.80 ID:eCpDgJDvr
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 547 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 06:28:49.50 ID:eCpDgJDvr
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 548 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 06:41:50.06 ID:eCpDgJDvr
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 549 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 06:54:50.70 ID:eCpDgJDvr
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 550 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 07:07:51.34 ID:eCpDgJDvr
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 551 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 07:20:51.91 ID:eCpDgJDvr
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 552 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 07:33:53.02 ID:eCpDgJDvr
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 553 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 07:46:53.72 ID:eCpDgJDvr
- もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
- 554 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 07:59:54.50 ID:eCpDgJDvr
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 555 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 08:12:55.57 ID:eCpDgJDvr
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 556 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 08:25:56.39 ID:eCpDgJDvr
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 557 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 08:38:57.34 ID:eCpDgJDvr
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 558 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 08:51:58.04 ID:eCpDgJDvr
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 559 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 09:04:58.65 ID:eCpDgJDvr
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 560 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 09:17:59.28 ID:eCpDgJDvr
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 561 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 09:30:59.91 ID:eCpDgJDvr
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 562 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 09:44:01.31 ID:eCpDgJDvr
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 563 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 09:57:01.89 ID:eCpDgJDvr
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 564 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 10:10:03.10 ID:eCpDgJDvr
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 565 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 10:23:03.67 ID:eCpDgJDvr
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 566 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 10:36:04.58 ID:eCpDgJDvr
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 567 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 10:49:05.38 ID:eCpDgJDvr
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 568 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 11:02:06.03 ID:eCpDgJDvr
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 569 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 11:15:06.70 ID:eCpDgJDvr
- 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
- 570 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 11:28:07.34 ID:eCpDgJDvr
- それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
- 571 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 11:41:08.01 ID:eCpDgJDvr
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 572 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 11:54:07.08 ID:eCpDgJDvr
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 573 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 12:07:07.72 ID:eCpDgJDvr
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 574 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 12:20:08.34 ID:eCpDgJDvr
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 575 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 12:33:08.95 ID:eCpDgJDvr
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 576 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 12:46:09.62 ID:eCpDgJDvr
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 577 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 12:59:10.36 ID:eCpDgJDvr
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 578 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 13:12:11.02 ID:eCpDgJDvr
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 579 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 13:25:11.66 ID:eCpDgJDvr
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 580 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 13:38:12.55 ID:eCpDgJDvr
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 581 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 13:51:13.31 ID:eCpDgJDvr
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 582 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 14:04:14.10 ID:eCpDgJDvr
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 583 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 14:17:14.80 ID:eCpDgJDvr
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 584 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 14:30:15.38 ID:eCpDgJDvr
- と何時になく厭味を云つた。
- 585 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 14:43:16.00 ID:eCpDgJDvr
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 586 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 14:56:16.85 ID:eCpDgJDvr
- それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
- 587 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 15:09:17.81 ID:eCpDgJDvr
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 588 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 15:22:18.46 ID:eCpDgJDvr
- そんな事も口へ出した。
- 589 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 15:35:19.51 ID:eCpDgJDvr
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 590 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 15:48:20.24 ID:eCpDgJDvr
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 591 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 16:01:20.82 ID:eCpDgJDvr
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 592 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 16:14:21.56 ID:eCpDgJDvr
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 593 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 16:27:22.27 ID:eCpDgJDvr
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 594 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 16:40:23.14 ID:eCpDgJDvr
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 595 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 16:53:23.70 ID:eCpDgJDvr
- と、囁くやうな声で云つた。
- 596 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 17:06:25.42 ID:eCpDgJDvr
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 597 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 17:19:26.16 ID:eCpDgJDvr
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 598 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 17:32:26.86 ID:eCpDgJDvr
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 599 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 17:45:27.59 ID:eCpDgJDvr
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 600 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 17:58:28.39 ID:eCpDgJDvr
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 601 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 18:11:29.29 ID:eCpDgJDvr
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 602 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 18:24:30.18 ID:eCpDgJDvr
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 603 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 18:37:31.04 ID:eCpDgJDvr
- と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
- 604 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 18:50:31.70 ID:eCpDgJDvr
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 605 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 19:03:32.35 ID:eCpDgJDvr
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 606 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 19:16:33.35 ID:eCpDgJDvr
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 607 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 19:29:34.35 ID:eCpDgJDvr
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 608 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 19:42:35.46 ID:eCpDgJDvr
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 609 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 19:55:36.40 ID:eCpDgJDvr
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 610 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 20:08:37.23 ID:eCpDgJDvr
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 611 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 20:21:39.08 ID:eCpDgJDvr
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 612 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 20:34:39.89 ID:eCpDgJDvr
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 613 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 20:47:40.74 ID:eCpDgJDvr
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 614 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 21:00:41.40 ID:eCpDgJDvr
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 615 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 21:13:42.12 ID:eCpDgJDvr
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 616 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 21:26:43.89 ID:eCpDgJDvr
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 617 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 21:39:44.94 ID:eCpDgJDvr
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 618 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 21:52:45.65 ID:eCpDgJDvr
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 619 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 22:35:14.92 ID:UewqUxrTq
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 620 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 22:48:30.79 ID:UewqUxrTq
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 621 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 23:01:46.47 ID:UewqUxrTq
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 622 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 23:15:02.46 ID:UewqUxrTq
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 623 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 23:28:18.66 ID:UewqUxrTq
- なども到底この「西遊記」
- 624 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 23:41:34.49 ID:UewqUxrTq
- も愛読書の一つである。
- 625 :名無しは20歳になってから:2018/06/21(木) 23:54:50.16 ID:UewqUxrTq
- これも今以て愛読してゐる。
- 626 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 00:08:08.17 ID:xH/+8eHrT
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 627 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 00:21:23.94 ID:xH/+8eHrT
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 628 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 00:34:39.58 ID:xH/+8eHrT
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 629 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 00:47:55.50 ID:xH/+8eHrT
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 630 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 01:01:11.22 ID:xH/+8eHrT
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 631 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 01:14:27.11 ID:xH/+8eHrT
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 632 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 01:27:43.74 ID:xH/+8eHrT
- だから人の事は笑へない。
- 633 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 01:40:59.45 ID:xH/+8eHrT
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 634 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 01:54:15.29 ID:xH/+8eHrT
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 635 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 02:07:31.10 ID:xH/+8eHrT
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 636 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 02:20:47.14 ID:xH/+8eHrT
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 637 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 02:34:02.80 ID:xH/+8eHrT
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 638 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 02:47:18.99 ID:xH/+8eHrT
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 639 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 03:02:18.43 ID:xH/+8eHrT
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 640 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 03:15:34.22 ID:xH/+8eHrT
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 641 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 03:28:49.97 ID:xH/+8eHrT
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 642 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 03:42:05.67 ID:xH/+8eHrT
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 643 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 03:55:21.33 ID:xH/+8eHrT
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 644 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 04:08:37.43 ID:xH/+8eHrT
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 645 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 04:21:53.05 ID:xH/+8eHrT
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 646 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 04:35:08.87 ID:xH/+8eHrT
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 647 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 04:48:24.62 ID:xH/+8eHrT
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 648 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 05:01:40.36 ID:xH/+8eHrT
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 649 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 05:14:56.38 ID:xH/+8eHrT
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 650 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 05:28:12.34 ID:xH/+8eHrT
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 651 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 05:41:28.12 ID:xH/+8eHrT
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 652 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 05:54:43.79 ID:xH/+8eHrT
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 653 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 06:07:59.49 ID:xH/+8eHrT
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 654 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 06:21:15.70 ID:xH/+8eHrT
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 655 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 06:34:31.54 ID:xH/+8eHrT
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 656 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 06:47:47.36 ID:xH/+8eHrT
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 657 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 07:01:03.19 ID:xH/+8eHrT
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 658 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 07:14:19.03 ID:xH/+8eHrT
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 659 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 07:27:35.15 ID:xH/+8eHrT
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 660 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 07:40:50.99 ID:xH/+8eHrT
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 661 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 07:54:06.62 ID:xH/+8eHrT
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 662 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 08:07:22.29 ID:xH/+8eHrT
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 663 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 08:20:38.09 ID:xH/+8eHrT
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 664 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 08:33:54.49 ID:xH/+8eHrT
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 665 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 08:47:10.55 ID:xH/+8eHrT
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 666 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 09:00:26.39 ID:xH/+8eHrT
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 667 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 10:04:14.68 ID:ekwgsn/fw
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 668 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 10:46:19.94 ID:ekwgsn/fw
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 669 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 10:59:53.16 ID:ekwgsn/fw
- なども到底この「西遊記」
- 670 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 11:13:23.64 ID:ekwgsn/fw
- も愛読書の一つである。
- 671 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 11:26:54.17 ID:ekwgsn/fw
- これも今以て愛読してゐる。
- 672 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 12:34:28.98 ID:ekwgsn/fw
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 673 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 12:47:59.57 ID:ekwgsn/fw
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 674 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 13:01:30.11 ID:ekwgsn/fw
- だから人の事は笑へない。
- 675 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 14:49:34.26 ID:ekwgsn/fw
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 676 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 16:19:59.86 ID:ekwgsn/fw
- 少年は可愛いと云うよりもむしろ可憐な顔をしている。
- 677 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 16:33:30.38 ID:ekwgsn/fw
- 彼等の後ろには雑沓した仲店。
- 678 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 16:47:00.88 ID:ekwgsn/fw
- 彼等はこちらへ歩いて来る。
- 679 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 17:00:31.39 ID:ekwgsn/fw
- 斜めに見たある玩具屋の店。
- 680 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 17:14:01.88 ID:ekwgsn/fw
- 少年はこの店の前に佇んだまま、綱を上ったり下りたりする玩具の猿を眺めている。
- 681 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 17:27:32.42 ID:ekwgsn/fw
- 玩具屋の店の中には誰も見えない。
- 682 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 17:41:02.90 ID:ekwgsn/fw
- 少年の姿は膝の上まで。
- 683 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 18:55:04.77 ID:ekwgsn/fw
- 綱を上ったり下りたりしている猿。
- 684 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 19:08:36.04 ID:ekwgsn/fw
- 猿は燕尾服の尾を垂れた上、シルク・ハットを仰向けにかぶっている。
- 685 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 19:22:07.51 ID:ekwgsn/fw
- この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり。
- 686 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 20:48:41.54 ID:ekwgsn/fw
- 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
- 687 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 21:02:27.43 ID:ekwgsn/fw
- それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
- 688 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 21:16:13.55 ID:ekwgsn/fw
- 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
- 689 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 21:29:59.24 ID:ekwgsn/fw
- 俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
- 690 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 21:43:44.82 ID:ekwgsn/fw
- と、低い声で云ひ続けた。
- 691 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 21:57:31.24 ID:ekwgsn/fw
- 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
- 692 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 22:11:16.76 ID:ekwgsn/fw
- すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
- 693 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 22:25:02.34 ID:ekwgsn/fw
- 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
- 694 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 22:38:47.85 ID:ekwgsn/fw
- が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
- 695 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 22:52:33.40 ID:ekwgsn/fw
- 御姉様は何故昨夜も――」
- 696 :名無しは20歳になってから:2018/06/22(金) 23:06:19.61 ID:ekwgsn/fw
- 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
- 697 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 14:33:52.66 ID:zap7Woqzu
- 子供の時の愛読書は「西遊記」
- 698 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 14:47:53.93 ID:zap7Woqzu
- これ等は今日でも僕の愛読書である。
- 699 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 15:01:54.60 ID:zap7Woqzu
- 比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
- 700 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 15:15:55.25 ID:zap7Woqzu
- 名高いバンヤンの「天路歴程」
- 701 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 15:29:56.05 ID:zap7Woqzu
- なども到底この「西遊記」
- 702 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 15:43:56.72 ID:zap7Woqzu
- も愛読書の一つである。
- 703 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 15:57:57.45 ID:zap7Woqzu
- これも今以て愛読してゐる。
- 704 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 16:11:58.12 ID:zap7Woqzu
- の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
- 705 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 16:25:58.87 ID:zap7Woqzu
- その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
- 706 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 16:39:59.68 ID:zap7Woqzu
- だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
- 707 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 16:54:00.66 ID:zap7Woqzu
- 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
- 708 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 17:08:01.38 ID:zap7Woqzu
- や小島烏水氏の「日本山水論」
- 709 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 17:22:02.03 ID:zap7Woqzu
- 同時に、夏目さんの「猫」
- 710 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 17:36:02.73 ID:zap7Woqzu
- だから人の事は笑へない。
- 711 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 17:50:03.44 ID:zap7Woqzu
- の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
- 712 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 18:04:04.10 ID:zap7Woqzu
- 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
- 713 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 18:18:05.42 ID:zap7Woqzu
- それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
- 714 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 18:32:06.12 ID:zap7Woqzu
- ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
- 715 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 18:46:06.78 ID:zap7Woqzu
- ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
- 716 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 19:00:07.82 ID:zap7Woqzu
- その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
- 717 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 19:14:08.69 ID:zap7Woqzu
- これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
- 718 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 19:28:10.82 ID:zap7Woqzu
- などの影響であつたらうと思ふ。
- 719 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 19:42:11.65 ID:zap7Woqzu
- さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
- 720 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 19:56:12.38 ID:zap7Woqzu
- 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
- 721 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 20:10:14.36 ID:zap7Woqzu
- スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
- 722 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 20:24:15.18 ID:zap7Woqzu
- 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
- 723 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 20:38:15.97 ID:zap7Woqzu
- を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
- 724 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 20:52:16.72 ID:zap7Woqzu
- あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
- 725 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 21:06:17.84 ID:zap7Woqzu
- を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
- 726 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 21:20:18.65 ID:zap7Woqzu
- 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
- 727 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 21:34:19.44 ID:zap7Woqzu
- 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
- 728 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 21:48:20.32 ID:zap7Woqzu
- 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
- 729 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 22:02:21.13 ID:zap7Woqzu
- が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
- 730 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 22:16:21.85 ID:zap7Woqzu
- そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
- 731 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 22:30:22.57 ID:zap7Woqzu
- 彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
- 732 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 22:44:23.28 ID:zap7Woqzu
- 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
- 733 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 22:58:24.14 ID:zap7Woqzu
- 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
- 734 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 23:12:25.25 ID:zap7Woqzu
- それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
- 735 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 23:26:25.92 ID:zap7Woqzu
- 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
- 736 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 23:40:26.89 ID:zap7Woqzu
- さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
- 737 :名無しは20歳になってから:2018/06/23(土) 23:54:27.57 ID:zap7Woqzu
- かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
- 738 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 00:08:35.28 ID:xCPARlK+C
- が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
- 739 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 00:22:36.35 ID:xCPARlK+C
- だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
- 740 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 00:36:37.10 ID:xCPARlK+C
- 尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
- 741 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 00:50:37.93 ID:xCPARlK+C
- 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
- 742 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 01:04:38.56 ID:xCPARlK+C
- が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
- 743 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 01:18:39.33 ID:xCPARlK+C
- それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
- 744 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 01:32:40.54 ID:xCPARlK+C
- 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
- 745 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 01:47:00.78 ID:+zMp4z2GP
- その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
- 746 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 02:01:16.60 ID:+zMp4z2GP
- 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
- 747 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 02:15:32.21 ID:+zMp4z2GP
- 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
- 748 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 02:29:47.79 ID:+zMp4z2GP
- 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
- 749 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 02:44:03.42 ID:+zMp4z2GP
- 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
- 750 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 02:58:19.48 ID:+zMp4z2GP
- 一層これが甚しかつた。
- 751 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 03:12:35.16 ID:+zMp4z2GP
- 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
- 752 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 03:26:50.76 ID:+zMp4z2GP
- 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
- 753 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 03:41:06.32 ID:+zMp4z2GP
- 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
- 754 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 03:55:21.87 ID:+zMp4z2GP
- さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
- 755 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 04:09:37.68 ID:+zMp4z2GP
- その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
- 756 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 04:23:53.30 ID:+zMp4z2GP
- 同窓たちは皆不思議がつた。
- 757 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 04:38:09.04 ID:+zMp4z2GP
- その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
- 758 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 04:52:24.67 ID:+zMp4z2GP
- 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
- 759 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 05:06:40.22 ID:+zMp4z2GP
- 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
- 760 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 05:20:55.78 ID:+zMp4z2GP
- が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
- 761 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 05:35:11.34 ID:+zMp4z2GP
- 彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
- 762 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 05:49:27.03 ID:+zMp4z2GP
- 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
- 763 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 06:03:42.65 ID:+zMp4z2GP
- さうして彼是二月ばかり経つと――
- 764 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 06:17:58.51 ID:+zMp4z2GP
- 全く信子を忘れてしまつた。
- 765 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 06:32:14.16 ID:+zMp4z2GP
- 勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
- 766 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 06:46:29.77 ID:+zMp4z2GP
- 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
- 767 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 07:00:45.52 ID:+zMp4z2GP
- 彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
- 768 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 07:15:01.11 ID:+zMp4z2GP
- 松脂の匂と日の光と、――
- 769 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 07:29:16.74 ID:+zMp4z2GP
- それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
- 770 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 07:43:32.36 ID:+zMp4z2GP
- 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
- 771 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 07:57:48.01 ID:+zMp4z2GP
- もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
- 772 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 08:12:03.71 ID:+zMp4z2GP
- どうか、どうか私を御赦し下さい。
- 773 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 08:26:19.41 ID:+zMp4z2GP
- 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
- 774 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 08:40:35.16 ID:+zMp4z2GP
- 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
- 775 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 08:54:50.78 ID:+zMp4z2GP
- さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
- 776 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 09:09:07.52 ID:+zMp4z2GP
- 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
- 777 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 09:23:23.48 ID:+zMp4z2GP
- それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
- 778 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 09:37:39.23 ID:+zMp4z2GP
- あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
- 779 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 09:51:55.18 ID:+zMp4z2GP
- あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
- 780 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 10:06:10.79 ID:+zMp4z2GP
- この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
- 781 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 10:20:26.39 ID:+zMp4z2GP
- ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
- 782 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 10:34:42.13 ID:+zMp4z2GP
- 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
- 783 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 10:48:57.83 ID:+zMp4z2GP
- けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
- 784 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 11:03:13.49 ID:+zMp4z2GP
- 御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
- 785 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 11:17:29.41 ID:+zMp4z2GP
- (御隠しになつてはいや。
- 786 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 11:31:45.01 ID:+zMp4z2GP
- 私はよく存じて居りましてよ。)
- 787 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 11:46:00.72 ID:+zMp4z2GP
- 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
- 788 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 12:00:16.48 ID:+zMp4z2GP
- それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
- 789 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 12:14:32.10 ID:+zMp4z2GP
- さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
- 790 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 12:28:41.47 ID:+zMp4z2GP
- 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
- 791 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 12:42:57.12 ID:+zMp4z2GP
- 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
- 792 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 12:57:14.01 ID:+zMp4z2GP
- さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
- 793 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 13:56:48.74 ID:Qo5IKl6T5
- けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
- 794 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 14:11:19.36 ID:Qo5IKl6T5
- 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
- 795 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 14:25:49.85 ID:Qo5IKl6T5
- 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
- 796 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 14:40:20.39 ID:Qo5IKl6T5
- が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
- 797 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 14:54:51.59 ID:Qo5IKl6T5
- さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
- 798 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 15:09:22.13 ID:Qo5IKl6T5
- 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
- 799 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 15:23:53.05 ID:Qo5IKl6T5
- そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
- 800 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 15:38:23.66 ID:Qo5IKl6T5
- 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
- 801 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 15:52:54.25 ID:Qo5IKl6T5
- 夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
- 802 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 16:07:24.74 ID:Qo5IKl6T5
- それが毎日会社から帰つて来ると、必晩飯後の何時間かは、信子と一しよに過す事にしてゐた。
- 803 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 16:21:55.22 ID:Qo5IKl6T5
- 信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれてゐる小説や戯曲の話などもした。
- 804 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 16:36:25.80 ID:Qo5IKl6T5
- その話の中には時によると、基督教の匂のする女子大学趣味の人生観が織りこまれてゐる事もあつた。
- 805 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 16:50:56.26 ID:Qo5IKl6T5
- 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
- 806 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 17:05:27.69 ID:Qo5IKl6T5
- が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
- 807 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 17:19:58.19 ID:Qo5IKl6T5
- 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
- 808 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 17:34:28.69 ID:Qo5IKl6T5
- 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
- 809 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 17:48:59.57 ID:Qo5IKl6T5
- それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
- 810 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 18:03:30.17 ID:Qo5IKl6T5
- 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
- 811 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 18:18:00.67 ID:Qo5IKl6T5
- 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
- 812 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 18:32:31.19 ID:Qo5IKl6T5
- が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
- 813 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 18:47:01.73 ID:Qo5IKl6T5
- その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
- 814 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 19:01:32.27 ID:Qo5IKl6T5
- そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
- 815 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 19:16:03.61 ID:Qo5IKl6T5
- 夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
- 816 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 19:30:34.23 ID:Qo5IKl6T5
- と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
- 817 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 19:45:04.81 ID:Qo5IKl6T5
- しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
- 818 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 19:59:35.46 ID:Qo5IKl6T5
- 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
- 819 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 20:14:06.03 ID:Qo5IKl6T5
- 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
- 820 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 20:28:37.32 ID:Qo5IKl6T5
- が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
- 821 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 20:43:07.85 ID:Qo5IKl6T5
- 夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
- 822 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 20:57:38.66 ID:Qo5IKl6T5
- さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
- 823 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 21:12:09.24 ID:Qo5IKl6T5
- と何時になく厭味を云つた。
- 824 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 21:26:40.91 ID:Qo5IKl6T5
- 信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
- 825 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 21:41:11.48 ID:Qo5IKl6T5
- それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
- 826 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 21:55:42.06 ID:Qo5IKl6T5
- 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
- 827 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 22:10:12.57 ID:Qo5IKl6T5
- そんな事も口へ出した。
- 828 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 22:24:43.08 ID:Qo5IKl6T5
- 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
- 829 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 22:39:13.86 ID:Qo5IKl6T5
- すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
- 830 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 22:53:44.35 ID:Qo5IKl6T5
- と、やはりねちねちした調子で云つた。
- 831 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 23:08:14.88 ID:Qo5IKl6T5
- 彼女は猶更口が利けなくなつた。
- 832 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 23:22:45.39 ID:Qo5IKl6T5
- 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
- 833 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 23:37:16.79 ID:Qo5IKl6T5
- が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
- 834 :名無しは20歳になってから:2018/06/24(日) 23:51:47.33 ID:Qo5IKl6T5
- と、囁くやうな声で云つた。
- 835 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 00:06:17.83 ID:Ag8YkVaL4
- 夫はそれでも黙つてゐた。
- 836 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 00:20:48.37 ID:Ag8YkVaL4
- 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
- 837 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 00:35:18.87 ID:Ag8YkVaL4
- それから間もなく泣く声が洩れた。
- 838 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 00:49:49.38 ID:Ag8YkVaL4
- 夫は二言三言彼女を叱つた。
- 839 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 01:04:19.88 ID:Ag8YkVaL4
- その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
- 840 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 01:18:50.39 ID:Ag8YkVaL4
- が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
- 841 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 01:33:20.92 ID:Ag8YkVaL4
- 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
- 842 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 08:24:40.14 ID:psX8k8BrG
- しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
- 843 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 08:39:25.99 ID:psX8k8BrG
- 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
- 844 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 08:54:11.70 ID:psX8k8BrG
- 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
- 845 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 09:08:57.53 ID:psX8k8BrG
- 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
- 846 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 09:23:43.54 ID:psX8k8BrG
- さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
- 847 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 09:38:29.30 ID:psX8k8BrG
- 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
- 848 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 09:53:14.97 ID:psX8k8BrG
- こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
- 849 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 10:08:00.62 ID:psX8k8BrG
- 私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
- 850 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 10:22:46.20 ID:psX8k8BrG
- 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
- 851 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 10:37:31.99 ID:psX8k8BrG
- が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
- 852 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 10:52:17.68 ID:psX8k8BrG
- そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
- 853 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 11:07:03.50 ID:psX8k8BrG
- 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
- 854 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 11:21:49.33 ID:psX8k8BrG
- その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
- 855 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 11:36:35.06 ID:psX8k8BrG
- 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
- 856 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 11:51:20.72 ID:psX8k8BrG
- その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
- 857 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 12:06:06.45 ID:psX8k8BrG
- それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
- 858 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 12:20:52.18 ID:psX8k8BrG
- が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
- 859 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 12:35:37.84 ID:psX8k8BrG
- なぞと、考へ考へ話してゐた。
- 860 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 12:50:23.63 ID:psX8k8BrG
- するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
- 861 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 13:05:09.31 ID:psX8k8BrG
- 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
- 862 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 13:19:55.05 ID:psX8k8BrG
- 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
- 863 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 13:34:40.67 ID:psX8k8BrG
- 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
- 864 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 13:49:26.66 ID:psX8k8BrG
- が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
- 865 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 14:04:12.29 ID:psX8k8BrG
- 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
- 866 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 14:18:58.43 ID:psX8k8BrG
- 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
- 867 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 14:33:44.35 ID:psX8k8BrG
- 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
- 868 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 14:48:30.11 ID:psX8k8BrG
- と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
- 869 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 15:03:16.49 ID:psX8k8BrG
- 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
- 870 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 16:18:33.88 ID:psX8k8BrG
- 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
- 871 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 16:33:20.11 ID:psX8k8BrG
- その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
- 872 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 16:48:06.17 ID:psX8k8BrG
- 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
- 873 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 17:02:52.31 ID:psX8k8BrG
- 夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
- 874 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 17:17:38.05 ID:psX8k8BrG
- 「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
- 875 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 17:32:25.56 ID:psX8k8BrG
- 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
- 876 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 17:47:11.59 ID:psX8k8BrG
- が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
- 877 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 18:01:57.51 ID:psX8k8BrG
- それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
- 878 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 18:16:43.16 ID:psX8k8BrG
- その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
- 879 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 18:31:28.81 ID:lg/JwricD
- 彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
- 880 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 18:46:14.61 ID:lg/JwricD
- 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
- 881 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 19:01:00.40 ID:lg/JwricD
- そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
- 882 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 19:15:46.00 ID:lg/JwricD
- 筆の渋る事も再三あつた。
- 883 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 19:30:31.98 ID:lg/JwricD
- すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
- 884 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 19:45:17.66 ID:lg/JwricD
- 松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
- 885 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 20:00:03.44 ID:lg/JwricD
- その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
- 886 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 20:14:49.18 ID:lg/JwricD
- 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
- 887 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 20:29:34.92 ID:lg/JwricD
- が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
- 888 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 20:44:21.96 ID:lg/JwricD
- 「どれ、寝るかな。」――
- 889 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 20:59:08.59 ID:lg/JwricD
- 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
- 890 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 21:13:54.82 ID:lg/JwricD
- 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
- 891 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 21:28:40.61 ID:lg/JwricD
- 「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
- 892 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 21:43:26.34 ID:lg/JwricD
- 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
- 893 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 21:58:12.51 ID:lg/JwricD
- 照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
- 894 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 22:12:58.21 ID:lg/JwricD
- 当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
- 895 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 22:27:44.11 ID:lg/JwricD
- 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
- 896 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 22:42:29.88 ID:lg/JwricD
- 「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
- 897 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 22:57:15.59 ID:lg/JwricD
- こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
- 898 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 23:12:01.63 ID:lg/JwricD
- が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
- 899 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 23:26:47.34 ID:lg/JwricD
- 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
- 900 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 23:41:33.00 ID:lg/JwricD
- が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
- 901 :名無しは20歳になってから:2018/06/25(月) 23:56:18.66 ID:lg/JwricD
- 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
- 902 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 00:11:06.51 ID:+P8eTxeaN
- 彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
- 903 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 00:25:52.52 ID:+P8eTxeaN
- しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
- 904 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 00:40:38.25 ID:+P8eTxeaN
- のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
- 905 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 00:55:23.95 ID:+P8eTxeaN
- すべてがどの家も変りはなかつた。
- 906 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 01:10:10.01 ID:+P8eTxeaN
- この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
- 907 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 01:24:56.44 ID:+P8eTxeaN
- が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
- 908 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 01:39:42.53 ID:+P8eTxeaN
- 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
- 909 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 01:54:28.16 ID:+P8eTxeaN
- 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
- 910 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 02:09:13.95 ID:+P8eTxeaN
- 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
- 911 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 02:23:59.65 ID:+P8eTxeaN
- 俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
- 912 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 02:38:45.56 ID:+P8eTxeaN
- 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
- 913 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 02:53:31.58 ID:+P8eTxeaN
- 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
- 914 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 10:11:09.22 ID:8h8wix0Sm
- 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
- 915 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 10:26:09.87 ID:8h8wix0Sm
- 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
- 916 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 10:41:10.42 ID:8h8wix0Sm
- 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
- 917 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 10:56:10.90 ID:8h8wix0Sm
- 「どうです、大阪の御生活は?」
- 918 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 11:11:11.38 ID:8h8wix0Sm
- 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
- 919 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 11:26:12.27 ID:8h8wix0Sm
- 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
- 920 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 11:41:12.84 ID:8h8wix0Sm
- 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
- 921 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 11:56:13.34 ID:8h8wix0Sm
- 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
- 922 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 12:11:13.81 ID:8h8wix0Sm
- が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
- 923 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 12:26:14.33 ID:8h8wix0Sm
- それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
- 924 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 12:41:14.78 ID:8h8wix0Sm
- 時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
- 925 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 12:56:15.26 ID:8h8wix0Sm
- その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
- 926 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 13:11:15.80 ID:8h8wix0Sm
- 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
- 927 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 13:26:16.69 ID:8h8wix0Sm
- すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
- 928 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 13:41:17.23 ID:8h8wix0Sm
- 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
- 929 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 13:56:18.07 ID:8h8wix0Sm
- が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
- 930 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 14:11:18.59 ID:8h8wix0Sm
- その内に照子が帰つて来た。
- 931 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 14:26:19.10 ID:8h8wix0Sm
- 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
- 932 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 14:41:19.66 ID:8h8wix0Sm
- 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
- 933 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 14:56:20.15 ID:8h8wix0Sm
- 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
- 934 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 15:11:20.70 ID:8h8wix0Sm
- 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
- 935 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 15:26:21.25 ID:8h8wix0Sm
- 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
- 936 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 15:41:21.74 ID:8h8wix0Sm
- 其処へ女中も帰つて来た。
- 937 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 15:56:22.24 ID:8h8wix0Sm
- 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
- 938 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 16:11:22.76 ID:8h8wix0Sm
- 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
- 939 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 16:26:23.30 ID:8h8wix0Sm
- 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
- 940 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 16:41:23.80 ID:8h8wix0Sm
- 「ええ、俊さんだけ。」――
- 941 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 16:56:24.34 ID:8h8wix0Sm
- 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
- 942 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 18:11:56.84 ID:8h8wix0Sm
- すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
- 943 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 18:26:57.59 ID:8h8wix0Sm
- その茶も僕が入れたんだ。」
- 944 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 18:41:58.09 ID:8h8wix0Sm
- 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
- 945 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 18:56:58.64 ID:8h8wix0Sm
- が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
- 946 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 19:12:00.01 ID:8h8wix0Sm
- 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
- 947 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 19:27:00.86 ID:8h8wix0Sm
- 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
- 948 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 19:42:01.47 ID:8h8wix0Sm
- 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
- 949 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 19:57:02.15 ID:8h8wix0Sm
- 小はこの玉子から」――
- 950 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 20:12:04.71 ID:8h8wix0Sm
- なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
- 951 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 20:27:05.25 ID:8h8wix0Sm
- その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
- 952 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 20:42:05.84 ID:8h8wix0Sm
- 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
- 953 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 20:57:06.46 ID:8h8wix0Sm
- 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
- 954 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 21:12:08.36 ID:8h8wix0Sm
- 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
- 955 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 21:27:09.43 ID:8h8wix0Sm
- 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
- 956 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 21:42:10.05 ID:8h8wix0Sm
- その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
- 957 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 21:57:10.59 ID:8h8wix0Sm
- 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
- 958 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 22:12:11.91 ID:8h8wix0Sm
- すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
- 959 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 22:27:12.69 ID:8h8wix0Sm
- それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
- 960 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 22:42:13.46 ID:8h8wix0Sm
- 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
- 961 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 22:57:14.04 ID:8h8wix0Sm
- 「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
- 962 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 23:12:15.41 ID:8h8wix0Sm
- アポロは男ぢやありませんか。」――
- 963 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 23:27:15.91 ID:8h8wix0Sm
- 照子は真面目にこんな事まで云つた。
- 964 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 23:42:16.46 ID:8h8wix0Sm
- 信子はとうとう泊る事になつた。
- 965 :名無しは20歳になってから:2018/06/26(火) 23:57:17.04 ID:8h8wix0Sm
- 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
- 966 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 00:12:18.38 ID:mGgiEx5Ir
- それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
- 967 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 00:27:18.90 ID:mGgiEx5Ir
- 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
- 968 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 00:42:19.48 ID:mGgiEx5Ir
- 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
- 969 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 00:57:20.04 ID:mGgiEx5Ir
- 月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
- 970 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 01:12:21.32 ID:mGgiEx5Ir
- 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
- 971 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 01:27:22.07 ID:mGgiEx5Ir
- 「大へん草が生えてゐるのね。」――
- 972 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 11:21:07.59 ID:Qi/hOqqeq
- が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
- 973 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 11:36:08.33 ID:nq8t5TFoZ
- と呟いただけであつた。
- 974 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 11:51:09.00 ID:Qi/hOqqeq
- 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
- 975 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 12:06:09.54 ID:nq8t5TFoZ
- 鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
- 976 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 12:21:10.17 ID:Qi/hOqqeq
- 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
- 977 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 12:36:10.77 ID:nq8t5TFoZ
- しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
- 978 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 12:51:11.42 ID:Qi/hOqqeq
- 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
- 979 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 13:06:11.97 ID:nq8t5TFoZ
- 「玉子を人に取られた鶏が。」――
- 980 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 13:21:12.86 ID:Qi/hOqqeq
- 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
- 981 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 13:36:13.46 ID:nq8t5TFoZ
- 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
- 982 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 13:51:14.05 ID:Qi/hOqqeq
- 青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
- 983 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 14:06:14.69 ID:nq8t5TFoZ
- 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
- 984 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 14:21:15.80 ID:Qi/hOqqeq
- 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
- 985 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 14:36:16.82 ID:nq8t5TFoZ
- 午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
- 986 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 14:51:18.06 ID:Qi/hOqqeq
- 彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
- 987 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 15:06:18.86 ID:nq8t5TFoZ
- が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
- 988 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 15:21:19.79 ID:Qi/hOqqeq
- 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
- 989 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 15:36:20.55 ID:nq8t5TFoZ
- 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
- 990 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 15:51:21.17 ID:Qi/hOqqeq
- その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
- 991 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 16:06:21.73 ID:nq8t5TFoZ
- が、信子の心は沈んでゐた。
- 992 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 16:21:22.72 ID:Qi/hOqqeq
- 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
- 993 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 16:36:23.45 ID:nq8t5TFoZ
- それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
- 994 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 16:51:24.09 ID:Qi/hOqqeq
- 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
- 995 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 17:06:24.67 ID:nq8t5TFoZ
- と尋ねてくれたりした。
- 996 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 17:21:25.71 ID:Qi/hOqqeq
- しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
- 997 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 17:36:26.68 ID:nq8t5TFoZ
- 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
- 998 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 17:51:27.55 ID:Qi/hOqqeq
- 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
- 999 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 18:06:28.23 ID:nq8t5TFoZ
- とだけしか答へなかつた。
- 1000 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 18:21:29.03 ID:Qi/hOqqeq
- 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
- 1001 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 18:36:29.75 ID:nq8t5TFoZ
- さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
- 1002 :名無しは20歳になってから:2018/06/27(水) 18:51:30.37 ID:Qi/hOqqeq
- 「照さんは幸福ね。」――
- 1003 :1001★:Over 1000 Comments
- このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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